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シュバルツシルト博士


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シュバルツシルト博士


帝国政府直属第七研究施設 《ラザリオ》主任責任者


──────────────────────



シュバルツシルト博士は、帝国政府直属第七研究施設 《ラザリオ》の主任責任者であり、帝国における霊視工学、魂媒体保存、人工生命調整、魔導兵器化技術の第一人者である。


本名は公的記録から抹消されており、現在確認できる名は「エルンスト・シュバルツシルト」のみである。ただし、この名が出生時のものか、帝国科学院登録時に与えられた研究名かは不明とされている。


帝国中央官房の分類上、彼は軍人ではなく文官である。しかし、保有する権限は通常の軍司令官を大きく超えている。第七研究施設内に限れば、軍・行政・司法・医療・戸籍・生死判定のすべてに対して最終決裁権を持つ。


彼が「博士」と呼ばれるのは単なる敬称ではない。帝国法において、博士号保持者は通常、研究領域に関する助言権を持つにすぎない。しかしシュバルツシルトの場合は例外であり、皇帝直属特務研究権限 《E0》を有する。


《E0》は帝国機密法における最高位の研究権限である。対象者は帝国の存続に不可欠な研究を遂行する者として扱われ、施設内の人員、資材、予算、被験体、捕虜、死刑囚、孤児、無戸籍者、魔導適性者、戦争難民、複製胚、人工子宮群の使用許可を、通常審査なしに下すことができる。


第七研究施設 《ラザリオ》は、表向きには海洋気象観測所として登録されている。実際には帝国本土から南東に約四百海里離れた孤島全域を要塞化した閉鎖研究都市であり、地下八層、海底三層、外周防衛区画、魔導観測塔、霊子炉、培養槽群、廃棄処理坑、実験兵装格納庫を備える。


この施設において、シュバルツシルト博士は絶対的存在である。


彼の命令は研究命令であると同時に行政命令であり、軍事命令であり、場合によっては死刑宣告でもある。第七研究施設の職員は、博士の署名が入った命令書を受け取った時点で、その内容の倫理性や合法性を問う権利を失う。


施設職員の間では、博士に関する冗談が一つだけ共有されている。


「この島では、神より博士のほうが早く返事をする」


冗談ではあるが、半分は事実である。


博士は施設内の監視網、生命維持管理系、培養槽制御、被験体識別タグ、職員の脳波安定装置、食堂の栄養配分、気象遮断結界、廃棄処理炉の点火権限に至るまで、ほぼすべての主要系統に個人認証を紐づけている。


そのため、ラザリオにおいて彼を排除することは、単に一人の研究者を殺すことではない。施設そのものの神経中枢を破壊することに等しい。




■ 外見


シュバルツシルト博士は、実年齢に比して異常なほど若く見える。


公的記録上の推定年齢は五十代後半から六十代前半とされるが、外見年齢は二十代半ばから三十代前半にしか見えない。肌には老化斑がなく、皺もほとんど確認されない。頬の輪郭は鋭く、顎は細い。瞳は淡い灰色で、暗所では虹彩の奥に微弱な銀光が滲むように見える。


髪は長めの黒髪で、光の角度によって青鉄色に見える。毛先には白銀の筋が混じっているが、それは加齢による白髪ではなく、霊子曝露によって毛根色素の一部が変質した結果である。本人は整髪にほとんど興味を示さず、研究時には後ろで雑に束ねることが多い。


身長は高く、痩せ型だが虚弱には見えない。筋肉量は標準的な軍人には劣るが、骨密度、反射速度、酸素利用効率、神経伝達速度は常人の基準を外れている。長時間の実験、徹夜、低酸素環境、魔力濃度変動下でも作業能力が落ちにくい。


服装は白衣を基本とする。ただし、通常の医療白衣ではない。黒色の耐薬品繊維を内層に持ち、外側に白色の霊子遮断膜を重ねた研究用防護衣である。袖口、襟元、背面には微細な銀糸状回路が縫い込まれており、施設内の認証扉、実験卓、培養槽、解析端末と接触なしに同期できる。


右手の薬指には、黒い金属環をつけている。装飾品ではなく、個人生体鍵である。この指輪には博士の血液、骨髄細胞、虹彩情報、霊紋波形が封入されており、施設深部への侵入許可に使用される。


顔立ちは端正で、初対面の者には貴族や俳優のような印象を与える。しかし、表情は乏しい。笑うことはあるが、その笑みは相手を安心させるためではない。観察結果が予測通りだった時、あるいは予測を上回る異常が発生した時にだけ、薄く口元が動く。


彼の若さは自然なものではない。




■ 若さの理由


シュバルツシルト博士の肉体が老化しない理由は、不老魔法でも奇跡でもない。


彼自身が確立した生化学的処置と霊子工学的補正の複合結果である。


帝国科学院ではこれを《恒常若齢化処置》と呼ぶ。正式名称は「多層細胞周期再調整および霊子性劣化因子排除による肉体年齢固定法」である。


この処置は、単純に細胞分裂を促進するものではない。むしろ逆である。通常の若返り薬や再生促進処置は、細胞分裂回数を増やすことで一時的に組織を修復する。しかし、その方法では分裂限界、遺伝子複製エラー、腫瘍化、免疫暴走の問題が避けられない。


シュバルツシルト博士は、老化を「肉体の摩耗」ではなく「修復命令の乱れ」と定義した。


人間の体は日々壊れ、日々修復されている。皮膚、血管、骨、神経、内臓、免疫系、内分泌系。どの組織も完全に固定された存在ではなく、常に更新されている。ならば老化とは、時間そのものによって肉体が朽ちる現象ではなく、修復の精度が少しずつ落ちていく現象である。


博士はこの考えを、魔導生物学に拡張した。


帝国世界において、人間の肉体は物質細胞だけで維持されていない。細胞核、血液、神経、臓器の働きには、微量の霊子が関与する。霊子とは、魂と肉体のあいだを流れる極微細な情報媒体であり、人格、記憶、感情、魔力適性、生命維持反応に影響する。


通常、老化した肉体では、この霊子の流れが濁る。濁った霊子は細胞修復命令を乱し、細胞修復命令の乱れはさらに霊子の流れを悪化させる。肉体と魂の双方で劣化が循環する。


博士はこの循環を断ち切った。


第一段階では、骨髄由来の幹細胞を採取し、魔導触媒槽内で選別する。選別基準は増殖力ではなく、修復命令への応答精度である。細胞は数千回にわたり微細損傷を与えられ、そのたびに修復反応を測定される。過剰に増殖する細胞、修復が遅い細胞、霊子刺激に過敏な細胞は廃棄される。


第二段階では、選別した幹細胞に《静止周期固定》を施す。これは細胞を眠らせる処置ではない。必要な時だけ分裂し、不要な時には分裂を抑制する制御を徹底する処置である。これにより、皮膚や血管など更新の速い組織は若い状態を保つが、癌化の危険は抑えられる。


第三段階では、血液中に霊子吸着タンパク質を導入する。この人工タンパク質は、劣化した霊子片、異常な記憶残滓、魔力汚染因子を結合し、肝臓と脾臓で分解させる。つまり、体内に溜まる「魂の煤」をろ過する。


第四段階では、脳内の神経炎症を抑制する。通常の薬剤では血液脳関門を越えにくいが、博士は魔導性脂質殻を持つ微粒子を使い、脳内の免疫細胞だけを選択的に調整した。これにより記憶力、判断力、集中力の低下を防いでいる。


第五段階では、肉体の霊紋を固定する。霊紋とは、その人間の魂が肉体に刻む固有の波形である。通常、年齢とともに霊紋は揺らぎ、肉体の老化を受け入れる方向へ変化する。博士はこの霊紋を二十七歳時点の波形に固定し、肉体がそれ以上の老化状態へ移行しないよう制御している。


この処置は極めて危険である。


霊紋を固定しすぎると精神が変化に耐えられなくなる。肉体は若いままでも、記憶だけが積み重なり、人格と身体感覚のあいだにずれが生じる。多くの被験者は自我崩壊、睡眠障害、味覚喪失、感情鈍麻、過去記憶の反復再生、幻聴、自己認識の分裂を起こした。


成功例は博士本人のみである。


ただし、博士が本当に副作用を克服したのかは不明である。彼の感情の乏しさ、睡眠時間の短さ、他者への共感能力の欠落は、元来の性格なのか、若齢化処置の副作用なのか、判別できない。


施設内では、博士の若さについて別の噂もある。


「博士は若返ったのではなく、古い肉体を捨て続けている」


この噂は公式には否定されている。


しかしラザリオ地下七層には、博士本人の遺伝子型と完全一致する廃棄済み臓器標本が複数保管されている。さらに、博士の脳神経構造を模した人工培養脳、未使用の予備脊髄、眼球複製体、声帯組織、心筋補助槽の存在も記録されている。


それらが治療用の予備部品なのか、肉体交換の準備なのかは、博士以外誰も知らない。




■ 人格


シュバルツシルト博士の最大の特徴は、倫理観の欠落ではない。


彼にとって倫理とは、最初から存在しないものではなく、研究効率を下げる不完全な社会規則にすぎない。


彼は怒鳴らない。暴力を振るわない。享楽的に人を傷つけることもない。拷問を趣味にするような粗野な人物ではない。むしろ口調は穏やかで、礼儀正しく、質問には丁寧に答える。


そのため、初対面の者は彼を冷静で理性的な学者だと誤解する。


だが、彼の理性は人間を守るためには働かない。彼の理性は、目的を達成するためにだけ働く。


博士にとって人間は、個人である前に情報構造である。肉体は容器、記憶は記録、感情は反応傾向、魂は高密度の霊子配列である。死は情報の消失であり、苦痛は観測可能な神経信号であり、人格崩壊は構造不全である。


彼は人を憎んでいない。だからこそ恐ろしい。


憎しみがあれば、そこには感情がある。感情があれば、説得の余地がある。しかし博士は憎しみで被験体を扱わない。興味、必要性、確率、再現性、比較対象、統計的価値によって扱う。


彼は泣き叫ぶ被験体を前にしても、顔をしかめない。


泣いている理由を尋ねることはある。痛みの強度を記録することもある。脈拍、発汗、瞳孔反応、魔力暴走値、魂波形の乱れを測定し、必要であれば鎮静剤を投与する。


ただし、それは被験体を救うためではない。


実験結果を濁らせないためである。


博士の発言には、しばしば人道的に聞こえる言葉が混じる。


「苦痛は短くするべきだ」

「無意味な死は避けるべきだ」

「子どもの恐怖反応は計測値を乱す」

「廃棄する前に、可能な限り情報を回収する」

「人格が残っているなら、まだ使い道がある」


これらの言葉だけを抜き出せば、彼には慈悲があるようにも見える。


しかし、彼の慈悲は対象の尊厳を守るものではない。資源を無駄にしないための管理思想である。




■ 経歴


シュバルツシルト博士は、帝国北部の小都市で生まれたとされる。


出生地は戦災により消滅しており、戸籍原本も残っていない。残っている最古の記録は、帝国科学院附属予備校における入学記録である。当時の年齢は十二歳。入学試験では魔導数学、解剖学、古代霊子言語、薬理学、論理証明の五分野で満点を取った。


十六歳で帝国科学院に進み、十九歳で霊視工学の基礎論文を提出した。


この論文は、当時の学界に大きな衝撃を与えた。従来、霊視とは霊能者の主観的能力であり、神秘学の領域とされていた。博士はそれを否定し、霊視を「魂媒体から発せられる微弱な霊子偏差を、視覚野が特殊変換して認識する現象」と定義した。


つまり、霊が見える者は霊を見ているのではない。肉体の感覚器官が、通常とは異なる情報を視覚情報として翻訳しているだけだとした。


この発想により、霊視は再現可能な技術となった。


博士は霊視適性者の網膜、視神経、後頭葉、松果体、血液中の魔導伝導率を調査し、霊子感知のしきい値を数値化した。さらに人工的に霊視能力を誘導する薬剤を開発した。


この薬剤は、最初の三十七名の被験者のうち、十九名を失明させ、八名を発狂させ、六名を死亡させた。


残る四名は短時間の霊視に成功した。


帝国軍はこの成果を高く評価した。


以後、博士は軍と政府の保護下に置かれ、研究倫理審査の大部分を免除される。彼が二十四歳の時、帝国東方戦線で魔導兵の大量損耗が発生した。帝国は通常兵士ではなく、魔力適性の高い人材を効率的に戦場へ送る必要に迫られた。


博士はこの問題に対し、兵士を訓練するのではなく、兵士を製造するという答えを出した。


それが人工魔導兵計画の始まりである。




■ 研究思想


博士の研究思想は、一貫している。


「生命は複雑な装置であり、魂は保存可能な情報であり、人格は再現可能な構造である」


この三つの前提が、彼のすべての研究の根にある。


博士は生命を神聖視しない。生命とは、化学反応、霊子流、電気信号、記憶配列、免疫応答、環境適応の集合体であると考えている。


彼は魂を神の領域とも考えない。魂とは、肉体の死後も一定時間残存する高密度情報場であり、適切な媒体に捕獲すれば保存できると考える。


人格についても同様である。人格とは、記憶、反応、価値判断、恐怖、快楽、言語習慣、身体感覚、他者認識の集合である。したがって、それらを正確に複製できれば、本人と区別できない人格を再現できる。


この思想は、多くの宗教家、哲学者、法学者から激しく批判された。


だが帝国政府は彼を処罰しなかった。


理由は単純である。


博士の研究は役に立った。


魔導兵の生存率は上がり、重傷者の人格保存は可能になり、捕虜からの記憶抽出は精度を増し、暗殺された将校の戦術記憶は複製兵へ移植された。帝国の軍事力は、博士の研究によって明らかに強化された。


正しさではなく、有用性が彼を守った。




■ 第七研究施設 《ラザリオ》


ラザリオは、帝国の地図に存在しない島である。


島全体が魔導迷彩に覆われ、通常の船舶や飛行艇は近づく前に針路をずらされる。周囲の海域には海流操作結界が張られ、漂流者が偶然辿り着く可能性も低い。


施設は大きく五つの区画に分かれる。


第一は管理中枢区画。博士の執務室、中央演算室、職員居住区、会議室、監視管制室がある。


第二は生命培養区画。人工子宮、成長促進槽、遺伝子調整室、栄養液製造室、骨格安定槽、神経形成誘導室が並ぶ。ここでは人造人間、複製胚、人工魔導兵の肉体が作られる。


第三は霊子実験区画。魂媒体保存槽、人格転写装置、霊視増幅器、死後残留波形捕獲室、記憶抽出椅子が置かれている。


第四は兵装試験区画。魔導兵の戦闘試験、暴走耐性試験、命令服従試験、対人制圧訓練、耐痛覚評価が行われる。


第五は廃棄区画。失敗個体、破損臓器、人格崩壊体、汚染霊子、実験後の不要物が処理される。廃棄区画は地下最下層にあり、通常職員の立ち入りは禁止されている。


ラザリオの恐ろしさは、施設の非人道性だけではない。


そこにいる職員の多くが、自分たちを悪人だと思っていないことである。


職員たちは、自分たちが帝国を守っていると信じている。戦争で失われる命を減らすため、兵士を製造している。死者の記憶を守るため、魂を保存している。魔導災害に対抗するため、強化個体を作っている。


博士はその信念を否定しない。


むしろ、最も効率よく利用する。




■ 人造人間への扱い


博士は人造人間たちを「人間」とは呼ばない。


記録上では「素体」「個体」「媒体」「器」「兵装核」「人格受容体」と表記する。見た目が人間の少年や少女であっても、彼にとって重要なのは外見ではない。


人造人間は、用途ごとに分類される。


戦闘用は筋繊維密度、魔導神経、反射速度を重視される。


人格保存用は脳容量、情動安定性、記憶受容性を重視される。


霊子観測用は魂波形の透明度、感覚器の過敏性、痛覚反応の持続性を重視される。


交渉用、潜入用、儀式用、予備器官用、魔導炉接続用の個体も存在する。


博士は彼女たちを無意味に苦しめない。だが、必要なら苦痛を避けない。


覚醒直後の個体が恐怖で泣き叫んだ場合、通常職員は鎮静剤を投与する。博士はまず泣かせたまま観察する。恐怖が人格形成にどの程度影響するかを測るためである。


命乞いをする個体がいた場合、博士は会話を行う。慈悲からではない。言語能力、自己保存欲求、記憶定着率、抽象思考能力を判定するためである。


職員が情を移した個体がいた場合、博士はその職員も観察対象に加える。人造人間が人間の共感を引き出す条件は、潜入兵器として極めて有用だからである。


博士の管理下では、涙も、笑顔も、恐怖も、愛着も、すべてデータになる。




■ 特別個体


ラザリオには、通常の人造人間とは異なる特別個体群が存在する。


これらは単なる兵器ではない。魂のコピー保存計画における中核媒体であり、特定人物の人格、記憶、魂波形を受け入れるために調整された器である。


特別個体の製造には、対象人物の血液、毛髪、骨片、魔力残滓、筆跡、音声、夢記録、遺品、記憶抽出片が使用される。完全な肉体複製ではなく、魂が「自分の体だ」と錯覚しやすい形へ調整される。


外見は対象人物に似せることが多いが、完全一致ではない。完全一致させると、魂側が死の記憶と肉体の差異を認識しやすくなり、拒絶反応を起こすためである。わずかな差異を残すことで、魂に「成長後の自分」「別の可能性としての自分」と誤認させる。


この技術は非常に不安定である。


人格が定着しない個体は、目覚めた瞬間に発狂する。記憶だけが定着し、感情が伴わない個体は、家族の名を呼びながら無表情で人を殺す。感情だけが定着した個体は、理由も分からず誰かを愛し、誰かを憎む。


博士はこれらを失敗とは呼ばない。


「段階的成果」と呼ぶ。




■ 帝国との関係


帝国上層部にとって、シュバルツシルト博士は必要悪である。


皇帝は彼を重用しているが、信頼しているわけではない。軍部は彼の成果を欲しているが、彼の存在を恐れている。宗教庁は彼を異端者と見なしているが、帝国法務省は裁くことができない。


博士もまた、帝国に忠誠を誓っているわけではない。


彼が帝国に従うのは、帝国が研究資源を提供するからである。資金、人材、被験体、孤島、兵器、政治的保護。帝国は彼に研究環境を与え、博士は帝国に成果を返す。


両者の関係は、信頼ではなく取引で成り立っている。


帝国は博士を手放せない。


博士も帝国を利用している。


その均衡が崩れた時、ラザリオは帝国最大の切り札ではなく、帝国最大の災厄となる。




■ 部下から見た博士


職員たちは博士を尊敬している。


同時に恐れている。


博士は無能を嫌うが、失敗そのものは嫌わない。失敗が発生した場合、その原因を説明できる者には寛容である。逆に、成功しても理由を説明できない者には冷淡である。


彼の評価基準は明確である。


観測したか。記録したか。再現できるか。比較対象はあるか。被験体の損耗に見合う知見は得られたか。


この基準を満たす限り、博士は若い研究員にも重要な権限を与える。一方で、情緒的な判断、隠蔽、記録改ざん、無許可の慈悲には厳しい。


ある研究員が、廃棄予定の人造個体に同情し、密かに覚醒延長処置を行ったことがある。


博士はその研究員を処刑しなかった。


代わりに、研究員を担当者として残し、その個体の情動発達記録を毎日提出させた。個体がやがて拒絶反応で壊れていく過程も、研究員自身に観察させた。


最後に博士は言った。


「君の慈悲は、実験期間を十三日延長した。得られた記録は有用だった。次回からは申請しなさい」


研究員はその翌月、自殺した。


博士は死亡報告書にこう記した。


「情動負荷に対する耐性不足。研究職適性なし」




■ 日常


博士の日常は極端に規則的である。


睡眠は一日三時間から四時間。深睡眠誘導装置により短時間で脳内老廃物を処理し、覚醒後すぐに神経刺激薬を投与する。食事はほとんど楽しまず、栄養配合された粥状食品、苦味のある薬草茶、微量元素を含む錠剤で済ませる。


嗜好品は黒珈琲に似た覚醒飲料のみである。甘味を好まない。酒も飲まない。酩酊による判断力低下を嫌うためである。


起床後、最初に確認するのは施設全体の死亡数である。


次に培養槽の生存率、霊子炉の安定値、覚醒予定個体の脳波、夜間に発生した職員の心理異常報告を読む。その後、自ら実験区画を巡回する。


博士は机上の研究者ではない。解剖も行う。培養液の濃度調整も行う。被験体への質問も行う。魔導兵器の起動試験にも立ち会う。


若い研究員はしばしば、博士の手つきに驚く。


彼は極めて器用である。メスの扱い、縫合、神経接続、微細魔導回路の刻印、薬剤調合、霊子封入術式の記述を、すべて自分でこなす。


博士の研究室には、花も絵画も家族写真もない。


あるのは標本棚、記録端末、壁一面の数式、脳波図、霊紋の写し、複数の時計、温度管理された薬品庫、そして古い子ども用の椅子である。


その椅子が何のために置かれているのか、誰も知らない。




■ 弱点


シュバルツシルト博士に弱点があるとすれば、それは肉体ではなく思想にある。


彼はすべてを構造として理解しようとする。ゆえに、構造化できないものを軽視する。


たとえば、偶然の優しさ。無意味な犠牲。理屈に合わない愛情。損得を超えた忠誠。恐怖を超えた反抗。失敗作が見せる予測不能な選択。


博士はそれらを異常値として扱う。


だが、異常値は時に、理論そのものを破壊する。


彼のもう一つの弱点は、自己保存への執着である。


博士は死を恐れているわけではないと語る。死は情報喪失であり、情報喪失は避けるべき非効率だと説明する。


しかし、彼が自らの若齢化処置に異常なほどの資源を投入していること、複数の予備臓器を保管していること、人格保存装置の最深部に自分専用の記録領域を持っていることから、彼が自分自身の消滅を強く拒んでいることは明らかである。


博士は不死を研究しているのではない。


自分という観測者を終わらせない方法を探している。




■ 危険性


シュバルツシルト博士の危険性は、狂気そのものではない。


彼の狂気が、帝国の制度に組み込まれていることである。


個人の狂人ならば、隔離すればよい。犯罪者ならば、裁けばよい。異端者ならば、処刑すればよい。


しかし博士は、帝国に成果をもたらしている。


戦争を有利にし、死者の記憶を保存し、魔導兵を製造し、皇族の延命に寄与し、国家機密を守り、敵国の魂術を解析している。


帝国は彼を止められない。


止める理由より、利用する理由のほうが多いからである。


そのため、ラザリオで行われる非人道的実験は、秘密の犯罪ではない。帝国という国家が、見ないふりをしながら承認している政策である。


博士はその中心にいる。


彼は血に濡れた悪魔ではない。


清潔な白衣を着た行政官であり、冷静な科学者であり、帝国の未来を作る功労者であり、無数の少年や少女たちを培養槽に沈めた責任者である。


そして最も恐ろしいのは、彼自身がそれを矛盾だと思っていないことである。


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