第十一話:おとぎ話と夢物語(その10)
不思議なことに、この日の日没の時間をあらためて調べてみたところ、それは 《16時37分》になっていた。
が、しかし、わたしの記憶が確かならば、それはたしかに17時よりもあとのことであったはずである。
あたりが暗くなり、「ごはんができたよ」と叫ぶご婦人方の声が聞こえはじめ、ライト役の最年少者が平凡なフライを落とし始めたころ、それでも西の空にはお日さまの光が残り、帰宅を告げるあの音楽も、その光に合わせるように聞こえて来たからである。
「きょうはもう終わりにしよう」
と、リーダーが言ったとき、わたしはバッターボックスの内側で2ストライク3ボールのフルカウントに追い込まれていた。
そのためわたしは、審判役の彼と、その下でミットを構えるカトウ・シンに向かって、せめて最後までやらせてほしいと伝えた。
が、しかしこの日のリーダーは、ふだんより少しぶっきらぼうな感じで、「きょうは引き分けだよ」と答えるだけであった。
このとき塁にランナーはおらず、ゲームは7回裏の同点、しかも2アウトだったからである。
「ホームランでも打つつもりか?」
ふざけた口調でカトウ・シンが言った。
わたしは、やってみなければ分からない。と答え、かれの顔をまじまじと見詰めた。
それから4秒ほどの間があって、とつぜんリーダーが「わかったよ」と言った。
夕方の音楽が終わるのを待っていたようすであった。
「なら、つぎが最後だぞ」
この彼の言葉に、カトウ・シンはすこしだけいやな顔を見せたのだが、それでもすぐに構え直すと、マウンドのピッチャーに向かって、手早くサインを送った。
「ホームランでも打つつもりか?」
と、こんどはすこしだけ真剣な口調でカトウ・シンが言った。
わたしは、参加初日にツボイ・トウコ嬢が見せたみごとなランニングホームランを想い出していた。
かのじょはまだ、レフトスタンドの中でうずくまったままのようである。
ピッチャーがモーションに入り、カトウ・シンが足の位置を変える気配がした。
彼の指示はきっと、わたしの苦手な外角低めにちがいない。
ボールがいやにはっきりと見えた。
バットを想い切り振った。
ボールがバットにあたる瞬間、
かのじょのところにまで届いて欲しい。
そんなことを想った。
――が、これがマズかった。
カキ。
という微妙な音がして、ボールはライトとセンターの中間ほどに上がって行った。
よけいな力が入ってしまった。
ライトに流せばよかった。
そんな風に想いながらわたしは、一塁に向け走り出していた。
夕闇のおかげだろう、ボールはライトとセンターの数メートルうしろに落ちた。
転がり続ける白球をライトとセンターが同時に追いかけはじめ、グラウンド内の誰もが『これなら三塁打にはなるな』と想ったつぎの瞬間、わたしは――ツボイ嬢のあのサンダルを想い出しながら――セカンドベースを蹴っていた。
サードベースが見えて来た。
ボールを拾ったのはライト役の方らしい。
大丈夫だ。
ホームを狙える。
サードベースを蹴った。
センターからの送球に二塁手が中継に入り、
ポスッ。
という音とともに振り向いた彼が、ホームのカトウ・シンめがけボールを投げる。
わたしは、その気配と、カトウ・シンが半身に構えるようすを同時に感じながら、ホームベースめがけて、精一杯のスライディングを決行した。
そして――、
「アウトだ」
というリーダーのちいさな声がこれに応えた。
「わるい。がんばったな、マコト」
*
「嬢ちゃん――“ほろびの呪文”を」
そう清瀧はつぶやき、少女はちいさくうなずいた。
彼の右手に碧石をのせると、そこにまっ赤な血が流れ落ちて来た。
彼の顔を見ることが出来なかった。
ギュッ。
と、ちいさな両手が彼のおおきな右手を包んだ。
ザッ。
と、なにかが彼の背中に刺さる音がした。
「気にすんな」
と、わらいながら彼は言った。
「それより、いくぞ――」
それからふたりは同時に、蒼海君から伝えられたという“ほろびの呪文”を唱え始めた。
唱え始めたのだが――、
それはさておき、困ったことに。
「クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー――」
と、こちらの“ほろびの呪文”は「バ○ス!」みたいなたった3文字で終わるようなクッソ短い呪文ではなく、なんと全部で132文字もあるアホみたいに長い呪文であったのである。
であるからして、そのすべてをここに書き残せば、それだけで字数稼ぎのそしりは免れないワケで――
*
「すんません、なんでそんなに長いんですか?」
と、このシーンを初めて聴いたとき、ナティーボス全員を代表してロクハが訊いた。
すると、まるでその質問を事前に想定していたかのように、
「みじかいとセキュリティ上問題があるだろう?」
と、リーダーは答えた。
「でも、ラ○ュタやハリ●タはもっと――」
「あのな――あっちは作り話じゃないか」
*
ボールやミットや金属バットをひしめき合わせながら、わたしたちは帰り支度をはじめた。――レフトスタンドに向かうリーダーの背中が見えた。
彼は、さきほどのわたしがそうであったように、フェンス越しの彼女に声をかけていた。
彼女は、さきほどの彼女がそうであったように、一二度かぶりを振ってから、ゆっくりと立ち上がると、軽いお辞儀をいちどして見せてから、その場を立ち去って言った。
リーダーは、フェンスのこちら側ですこしためらっている様子であったが、結局、彼女の後を追うことはなかった。
ただただ、彼女のうしろ姿が見えなくなるのを、最後まで見詰めていたようであった。
*
「あかん。あー、もう、イライラする」
――ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。
「なんやねん、止めんなや」
――“止めんなや”じゃないですよ、いきなり立ち上がったりして。いったい、なにをどうするつもりですか?
「どうするもこうするもあるかい。女の子がひとり泣いてんねやで?そこのウスノロひっ捕まえて後追い掛けさせるに決まっとるやろ?」
――いやいや、だったら“止めますよ”って話で。
「どーせ若いふたりの愚にも付かんすれ違いとか勘違いとかって話やろ?そんなんちゃんとした大人が間に立って、キチンと言って聞かせてやりゃあすぐに解け――」
――ですから、解決しちゃったら歴史が変わっちゃうって話でしょ?
「はあ?知るかいそんなもん」
――“知るかい”ってなんですか?!そっちこそすこしは気にしろって…………って、あー、ほら、例の彼がこっちを気にし出したじゃないですか、もう行きましょうよ。
「でもさあ――」
――大丈夫ですって。ふたりとも若いんだから、すぐに立ち直りますよ。
*
それからリーダーは振り返ると、ラインの向こうの草むらに何かを見付け、そちらのほうへと歩いて行った。――どこかの誰かが忘れて行ったファウルボールであった。
そうして、それから、ホームプレートまで戻って来た彼は、我々のボールバケツにそのファウルボールを加えてやった。――我々のボールはいつも、リーダーの車のトランクにしまうことになっていたのである。
つぎの休みに彼女は来るだろうか?
と、わたしは彼に訊こうとしたが、くちびるを強くかみ締めたリーダーの横顔にその言葉を飲み込んだ。
ここに至ってわたしはやっと、我々ナティーボスは強力なる5番バッターを永久に失ったのだ、という事実をようやく理解したのであった。
(続く)




