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徒花  作者: 似櫂 羽鳥
第二章
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23/27

七、混迷の果てに

 血塗れの体を引きずって、俺は校舎をさまよい続けた。通り過ぎる足元には無数の友が物言わぬ姿で、俺を見送る。こんなにも生命の匂いが満ち満ちているというのに、生はどこにもない。涙は枯れ果てた。ここから出たいとか儀式とか殺し合いとか、全てがどうでもよかった。俺の望みはただ一つだけ。

「…文……」

 文に会いたかった。泣いて縋って、慰めてほしかった。許されたかった。謝りたかった。叱ってほしかった。守ってほしかった。守りたかった。とにかく、傍にいたかった。

 彼女はいない。死体もない。なんの手がかりもないまま、闇雲に探し回る。

「文ぃ…」

 まるで夢遊病者だ。きっと今の俺は、酷く情けない顔をしているだろう。体裁も形振りも、もはや気にする余裕はなかった。

 旧校舎も、渡り廊下も、新校舎も、静まり返ってどこか違う世界みたいだった。幻聴が聞こえた。死体から立ち昇る恨みと無念が形を持って、俺に囁きかけているのだろう。

『殺せ』『死にたくない』『痛いよ』『どうして』『助けて』

 四方から俺に語りかけ、耳鳴りのようにまとわりつく。歩けば歩くほど俺の心は磨り減っていき、今なら少し突かれただけで倒れる自信があった。摩耗しすぎて、何も残っていなかった。

 とうとう足も上がらなくなり、廊下の真ん中にへたりこんだ。視界がぐにゃりと歪む。支えてくれる誰かの手は、どこにもなくて。それでも何かに縋らないと壊れてしまいそうで、俺はイザナギを抱え込んでうずくまった。未だ誰の血も吸わずにいる凶器は不思議なくらいの安心感で、俺を支えてくれていた。

 耳障りな機械のような音が、幻聴の隙間から聞こえた。最初は空耳かと思ったそれは、最初に聞いたアナウンスと同じ声で無機質に告げた。


『御子の皆様にお知らせします。これより、決戦の儀を執り行います。選ばれし二名の御子は、旧校舎四階の大広間に来てください。繰り返します、これより決戦の儀を執り行います。選ばれし二名の御子は、旧校舎四階の大広間に来てください』


 ああ────俺の事か。

 ぼんやりと内容を反芻する。一人は俺、もう一人は……




 瑞樹を光の中に横たえた文は、再度鳴り響いた放送に耳を傾けた。生き残りが二人になったと、最後の殺し合いをする為、旧校舎の四階に来るようにと。文は手を軽く握り、まだ自分の手に力が入る事を確認した。

「大丈夫。まだ戦える」

 龍波を殺した時に、一つだけ心に決めていた事がある。それは自分の最後は綾の手で終わらせてもらうこと。待ち遠しい。その瞬間が。でもきっと綾のことだから、最後まで刃を手に取らないはずだ。

「きっとまだ殺せてないんだろうな」

 文は口元に笑みを浮かべて階段を上る。残ったのは綾に間違いない。理由なんて無いけれど、きっとそうに決まっている。文は軽い足取りで、まるでデートに誘われたかのように軽やかに四階にたどり着いた。

 息が切れている。毒が少しずつ回り始めている証拠だった。

「少し、休もう」

 文は四階の大広間の中央で腰を下ろし、幾人もの血を啜った日本刀を肩にもたれさせる。ここで殺し合いをする。そして綾にこの命を絶ってもらう。綾はいつ来るのだろうか? 待ち遠しい。待ち遠しい。




 もう一人は、きっと文だ。理由はないけれど、そう確信していた。

 行かなきゃ。文のところに、行かなきゃ。

 突き動かされるまま、旧校舎に向かった。来た時とは違い、少しだけ足取りは軽かった。ようやく会える。それだけが俺に残された希望だった。

 少しだけ怖かった。文は俺をちゃんと見てくれるだろうか。俺は文を受け止められるだろうか。血に塗れた文の両手を包んでやれるだろうか。迷いは尽きない。弱気を追い出すように、頭を振った。

『大丈夫だよ』

 敦盛の声が聞こえた、気がした。記憶の中の敦盛は、照れたように鼻をかく。

『負けないで』

 その隣に、桔梗が寄り添うようにして言った。

『綾なら大丈夫』

 葵が笑っていた。いつものように勝気な瞳で。

『文を泣かしたら許さないから』

 瑞樹がいたずらに頬を膨らまして、俺を指さした。

 ああ、皆がいる。いつまでも、俺の中に彼らは生き続ける。味方だった人も、敵になった人も、全てが俺の心に、永遠に生きているんだ。蘇芳も、花梨も、鳳仙も、龍波も、名も知らぬ誰かでさえ。

 胸に一陣の風が吹き抜けた。優しいその風に乗って、俺の全身に命の暖かさが漲った。もう迷いはない。俺は、負けない。

 階段の先、そこが、終点の地。




 耳元でざわりと何かが聞こえる。

『もうすぐだよ』

「うん。そうだね。もうすぐだね。綾が私を殺しに来る」

『愛することも、憎しみ合うことも同じだよ』

「そうだね。ああ、愛しいな。そうか。そうだね。憎しみ合えば、綾は私を殺してくれるんだね」

『大丈夫だよ。大丈夫だよ』

 耳元でざわつく声に寄りかかるように、文はそれらに答えていく。次第に黒く染まる胸の内には、今まで感じたことのない程の憎しみが溜まっていく。例えばいつも手を抜いてばかりの綾。真面目にやれば自分よりも優れているのに、いつだって曖昧な笑みで風のようにかわしてしまう。私が努力するのと反比例するように、彼は引き立て役に回っていく。そんな姿が嬉しくて、苦しくて、憎くて、殊更自分は努力を重ねた。初めは全く敵わなかった剣術も、いつの間にか綾に勝利を譲られるようになった。努力が全て無駄になったように感じた。そんな勝利は欲しくなかった。譲られるだけのものに何の価値があるというのだろうか?

 足音が聞こえる。ああ、綾の音だ。早く会いたい。早く会いたい。

 早く、殺したい。

 靴音が止まり、沈黙が静けさを運ぶ。文は目を開き、目の前の彼の姿を真っ直ぐに見つめる。




 文はイザナミにもたれるようにして、広間の真ん中に座っていた。大広間には窓の目張りがなく、燦々と太陽が降り注いでいた。その光を背中に受けた文は、まるで神々しい女神のようだった。

「待っていたわ」

 息が荒い。ここまでの間に傷を負っているのだろうか。しかしまだその瞳は、光を失っていなかった。

「文…やっぱり、文が残ったんだな」

「ええ。お兄ちゃんも生き残れたのね」

 綾の変わることのない瞳の色に、文は未だに彼が人を殺めていない事を知った。人を殺すと自然と目の色が変わる。鳳仙がそうであったように、龍波がそうであったように、瑞樹がそうでなかったように、綾の瞳は未だ綺麗なままだった。

 文の元に歩み寄りながら、綾は悔しさに顔を歪めた。

「ああ…結局、俺は誰ひとり守れなかった。敦盛も、委員長も死んだ」

 後悔、自責、その他の雑多な感情が綾の中に蠢いているのが分かった。それは殺さなかった者の、ヒトであり続けた男の苦悩だった。沈鬱な表情を見取った文は、変わることのない綾の強さを知り、そしてこみ上げる殺意を押し隠した。

「お兄ちゃん。瑞樹も死んだの」

 綾は素直に、唇を噛んで涙を堪えた。そんな人間らしさが、文を更に掻き立てていく。

 文はスカートのポケットの中から一冊の生徒手帳を取り出した。瑞樹の遺品だった。武器すら与えられなかった彼女が唯一身につけていたもの。

「お兄ちゃん、持ってて」

 文は瑞樹の遺品を綾に放り投げた。綾はそれを受け取ると不思議そうに顔を歪めた。文は綾が言葉を発する前に彼に最後の質問をぶつける。

「出口は見つかった?」

その質問がわざとだと、綾にはわかった。

「…見つからなかった」

 決まっていた答え。綾は出口を見つけられない。そう。見つけることなど出来ない。ここから出る方法は一つ。殺し合いに勝利するしかない。

「そう。じゃあ、やることは一つね」

 文の言った意味を察したのだろうか。綾はたじろぎ、動揺を隠さず語気を強めた。

「文、何言ってるんだ。俺達が殺し合うなんて」

「いいえ、まだ儀式は終わってない」

 文は立ち上がり、鞘から日本刀を引き抜いた。鮮血にまみれた汚れた刀。人の命を吸い込んだ刀。刀の輝きが文に語りかける。

『殺せ、コロセ、ころせ』

 その声は文にしか聞こえない。

「なあ文、どうしたんだよ」

「そうね。私、ここから出るわ」

「ああ、当たり前だろ。二人一緒に、ここから出よう」

 駄々をこねる幼子をあやす様に、綾は手を差し伸べた。しかし文はそれが見えていないように、その手をとることは無かった。

 一歩。踏み出した足と同時に正眼に構えた刀を引き上げる。次の一歩を踏み込むと同時にそれを振り下ろした。綾の眼前すれすれの空を切った刀。綾の唖然とした表情がそこに浮かぶ。

「次は、殺すね」

 咄嗟に距離を取ったのは綾だった。綾は刀を抜き、文と同じように正眼で構える。文はすぐに距離を詰めて斜めから袈裟斬りを仕掛けると、綾はそれに対応するように刀を合わせて攻撃を逸らした。

「文、どうしたんだよ。なんで俺らが!」

「うるさいな。死んでよ」

 ゆらりと上体を揺らし、一気に距離を詰める。振り下ろされる刃に綾は何度も逃げるように刀を合わせる。硬質な金属音が鳴り、火花が散る。

「私は、お兄ちゃんを殺したいんだ。そうだ。殺したい。お兄ちゃんがいなければ、私は無駄な努力をしなくてもいいの。そうだ。そうなんだ」

 うわごとのように呟く声に綾はようやく文の異変を感じ取った。矢継ぎ早に繰り出される刃は、次第に綾の命へ近づいてきている。防戦一方では勝ち目がないことは確かだった。しかし、綾には文を殺す理由も、覚悟もなかった。今までも同じだった。殺し合いに疑問を感じ、無残な死を目の当たりにし続け、殺しに来た相手でさえも命を奪うことに抵抗した。簡単に摘み取っていい命など無い。

 綾は歯を食いしばり、文の斬撃を受け止め続けた。何故、と考えている暇などない。気を逸らせば、押し切られる。焦燥が綾の顔に浮かんだ。

「ほら、そうやって逃げて、縮こまって、そういうお兄ちゃんが嫌い。嫌い。嫌い」

取り憑かれたように呟きながら、文は泣いていた。

 文から刀を取り上げる。その一瞬を作る必要があった。壊れた自動人形のように泣きながら刀を振るい続ける文を、綾はもう見たくなかった。

 弾いた刀をそのまま押し返し、飛び退いて文を正面から見据えた。

「俺が…お前を守る」

 綾の言葉に、文の手が止まった。距離を取った綾は言い聞かせるように、文に言葉を伝える。

「俺が、お前のことを守ってやる」

 "私"はその言葉を思い出していた。岩戸神社の呪縛から逃れた私は、ほどなくして彼と祝言を上げた。白無垢姿に包まれた私は、至上の喜びに浸っていた。そう、私が天照だった。外の世界を夢見たのは私で、外の世界を知っていたのは妹だ。妹と私は互いに天照になると言い合った。しかし話し合いは決着がつかず、強攻策に出ることにしたのだ。

 私と妹は同じ服を着て、同じ佇まいで、互いに『自分は天照ではない』と言い放った。そうする事で、どちらもが平等に天照になる権利を主張した。そして月読に私達二人のどちらかを選ばせた。

 そうして私は下界に降り、ただの人になった。至上の喜びは長くは続かなかった。ほどなくして私達の一族は岩戸神社から追放された。妹の手によって。いや、月読の手によるものだろうと私は思っている。そして私達一族は烙印を押され、村の外れに追いやられた。彼は私と一緒にいることを望んだ。彼の家族は離縁を強く言い募ったが、彼は頑として首を縦に振らなかった。そのことにどれだけ私が救われたことだろう。あの強さにどれほど救われただろう。

 そして彼は言ったのだ。

『お前のことは俺が守る』

 しかし、その約束はすぐに違えることになった。彼は流行病であっさりと私の前からいなくなった。私と二人の間に授かった児を残して。ああ、そうだ。私は復讐したいのだ。全てに対して。約束を違える彼も、軽々しい約束を交わそうとする彼も、みんな殺してしまいたいのだ。

「出来もしない約束はいらない」

 文の瞳は目の前の綾ではなく、遠くを見るように微かに揺れていた。

「文?」

「だって、死んでしまうんでしょ?」

 向けられた言葉は誰に問うているのか。

「文、何を」

「ああ、そうよ。どうせ結ばれても、結ばれなくても、出られても、出られなくても、私は独り」

 吐き捨てるように綴られた言葉は、諦めにも似た彩りで。

「しっかりしろよ、文!」

 声を荒らげる綾。文の焦点が綾へと戻っていく。凄まじい気迫に染まった二つの瞳。

「私はしっかりしてるわ。次で決める」

 文は正眼に構えを戻し、距離とじりじりと詰める。そうだ。わかっている。綾の得意なのは居合。鞘から刀を引き抜く一瞬が彼の最大の攻撃だ。真っ向勝負。私は負けない。勝ちを譲り続けてきた綾には負けない。

「構えなさい」

 全力でぶつかり、全力で倒す。文の心は決していた。

 しかし綾はまだ、迷っていた。文が本気だということは、逃れられない事実だと解っている。しかし今の文は普通ではない。だからこそ迷っていた。

「…やるしか、ないのか…っ」

 振り抜けば神速の凶刃が文の命を砕くかも知れない。しかし、文も次の一撃に全てをかけるつもりでいる。豪速で振り下げられた刃を今までのように受け流すことは出来ない。逃げる事はもう、許されないのだ。

 綾は覚悟を決めた。振り下ろされる刃に合わせて、自身の刃を抜く。イメージを浮かべる。振り下ろされる斬撃、弾く刃。大丈夫だ。自分はやれる。文を守れる。

 強く目を閉じた。眼窩に浮かぶのは叶わぬ平穏な未来と、過ぎ去った友の顔。開き、その目を逸らすまいと、真っ直ぐに文を見た。

「文…俺も、次で、決める」

「いい目つきね。殺してあげるわ」

 互いから発せられる気合。全身の神経が決定的な一瞬を見逃さない。先に動いたのは文だった。しかしほぼ同時に綾も足を踏み出す。交わされる斬撃。文は瞬間、微かな光を見た。それは交わされた刃が伝える感情。しかしその感情は闇色の声にかき消されて見えなくなった。

 互いに距離を置いたまま、にらみ合うように円を描く。

「…決めるんじゃ、なかったのか?」

「それはお互い様でしょ」

「……そうだな」

 踏み込む足は綾の方が一歩早い。しかし文も負けずに斬撃を繰り出す。また同じように刀同士がぶつかり、文に光を見せる。

『あの、光はなに?』

 手に残る感覚は震えだろうか。文は綾を睨みつけたまま、次の一撃に備える。斬撃、光、斬撃、光。光は文の中で次第に大きくなっていく。ざわつく声が耳を掠める。

『ろせ、ころ、こ、せ』

『そうだ。殺すんだ。殺すんだ。綾を、綾を、殺して殺して』

 幾度も繰り返される斬撃と沈黙。その中に見える光。もっと見たい。もっと感じたい。綾と刃を重ねる度に、文はそう感じるようになっていく。斬撃、光、斬撃、光。そうだ。綾は私を生かそうとしている。何故? この暖かなものはなに? ああ、愛されているんだ。私、愛されているんだ。綾は私を守ってくれているんだ。重ねた刃の数はもう三十を超えている。止めたくない。もっと愛されていたい。

 打ち合う刃の一太刀一太刀に、綾は想いの丈を注ぎ込んだ。謝罪を。許しを。追憶を。痛みを。心を。愛を。愛を。愛を。兄として、世界でただ一人の半身として、その刃に込めた。

『文、俺はお前を、愛してる。誰よりも、何よりも愛してる』

 閉ざされた文の心の隅々まで、一番深い所にまで、届くようにと願って。

 不意に沈黙が訪れた。互いの呼吸音だけがお互いの耳に響いている。文は体中に毒が回っていることに、今ようやく気がついた。腕は重いし、足だって動いているのが不思議なくらいだ。頭はぼうとしているし、呼吸だって怪しい感じになっている。そして悟ったように、次で終わりだと感じる。

「お兄ちゃん。次で終わりだよ」

「…ああ」

 息が上がっていた。剣を持つ左腕はじんじんと痺れていた。それでも綾はちゃんと立っていた。膝も心も折れることなく、しっかりと立っていた。

「私、勝つね」

「……ああ」

 たぶん、綾は今までと同じように刃を重ねてくる。その事はわかっている。そうだ。私は綾を殺したいわけじゃない。体にこびりついたおかしな声が、私を私で無くしていた。

『殺せ、ころせ、コロ』

 聞こえる声に文は静かに首を降った。

『もう、いいんだよ。苦しまなくていいんだよ。大丈夫。一緒に連れて行ってあげる。貴方達を終わらせてあげるから』

 文は今一度、正眼に構え直す。綾も刀を鞘にしまい、迎撃の体制を取る。次の一瞬で全てが決まる。これが本当に最後だ。

「お兄ちゃん。私、お兄ちゃんを殺すから」

 嘘を、ついた。

「俺がお前を守るよ」

 嘘じゃ、なかった。

 ごめんなさい。綾には私の事をずっと覚えていて欲しい。だから、こんな事をする私を────許して。

 文は叫び声をあげる。雄叫びのように、悲しむように、愛を歌うように、全力で、全力で前へ踏み出す。

 振り上げた刀。文の方が切り込むのは一瞬だけ早い。ここに来て綾は刀を抜くタイミングを見誤った。振り下ろされる刃は綾の頭頂部を狙う。そして綾が一瞬だけ遅れて刃を引き抜く。

 ……そう。これでいい。

 文は目を閉じて、刀から手を離した。

 向かってきていたはずの刃は、急にその軌道を外れた。綾は止まれなかった。勢いのまま、彼女の懐に、抜いた刃を。

 熱い。胸が熱を感じていた。綾の刃は自分の胸を切り裂いたのだろう。そういうところに自分は踏み込んだ。最後は綾の手で、決定的な最後を伝えて欲しかった。勝つつもりなんて初めから無かった。ああ、もう少しだけ続けたかったな。殺し合いじゃなくて、本当の試合を。ああ、それにしても傷ってこんなに暖かいものだったんだ。

 時が止まった。

 綾の手は、文の胸元に深く差し込まれていた。ただし刃は煌めきを放たず、鞘の中にしっかりと収められたままで。

 持ち手を失ったイザナミが、綾の脇に落ちた。

「…文、ごめんな。文の望み、叶えてやれなかった」

 耳元で聞こえる声に文は目を見開いた。切りつけられたはずだった。なのに何故、綾の顔が真横にあるのだろう。胸の暖かさはなんだったのだろう。

「お兄ちゃん、なんで。私」

 文が嘘をついたと、その時にわかっていた。乗せられたふりをしてわざと、居合のタイミングを遅らせた。そこから先は綾の憶測の通りだった。

「死ぬつもりだったんだろ。俺に切られて」

 いたずらを見つけた時のように、優しく文の耳に囁きかける。

「全部、わかってたの?」

「ああ。何度も刀で打ち合って、文の心を感じたんだ」

 綾も同じようにあの光を見ていたのだろうか。ああ、だとしたら私と綾は同じものを見ることが出来たんだ。ただ単純に嬉しくて涙が溢れた。

「言ったろ? 守ってやるって」

 震える文の肩を抱きしめようとした。

「お兄ちゃん」

 がくりと文の身体から力が抜けた。限界を通り越した文は自力で立つことも出来ない状態だった。

「文、大丈夫か?…お前、その顔っ」

 綾の見た文は、既に蒼白でその表情から生気を感じるのは難しかった。倒れ込んだ文を仰向けに抱く。色を失った唇が、短く浅く呼吸を繰り返す。

「ごめんね。お兄ちゃん。私、毒で死ぬの」

 告げられた過酷な真実。驚愕と絶望が綾の顔にまざまざと浮かんだ。

「なんで、だったらなんであんなこと!」

「わかんない。でもね、お兄ちゃんとああやって、ちゃんとした試合が出来て嬉しかったの」

「馬鹿っ、そんな、試合なんか、ここから出たら幾らでもしてやるよ! お前が納得するまで、今度は真剣にやるから…! だから、死ぬな! お願いだから死ぬな! もう、もう誰も、失いたくないんだ…!」

 徐々に体温を失っていく文の頬を両手で包み込み、消えていく灯火を呼び戻そうと、叫んだ。

「ごめんね。お兄ちゃん」

 視界がぼやける。大好きな綾の顔が見えなくなっていく。ああ、熱い雫。お兄ちゃん、泣いてるのかな?

 綾がどんなに必死に呼びかけても、文の体を蝕んだ毒は確実のその命を奪っていく。残された時間は短いと、静かに告げていた。

「文の望むこと、なんでもする…! 文、俺はお前を守るって…決めたんだ…だから…!」

「…一つだけ、お願い、聞いて」

 もう文の瞳は綾の姿を映していなかった。感覚のない体に伝わる綾の温もりが、心地よかった。

「ああ、聞くよ。何でも聞いてやるから」

 そう、最後に一つだけわがままを言おう。ずっと隠してたこの想いを。綾に伝えよう。

「お兄ちゃ……綾…」

 一粒だけ、文の頬に透明な雫が伝った。


「生きて」


 静かに世界が暗転していく。もう、綾の声は聞こえない。結局、最後まで好きだと言えなかった。いや、これで良かったんだ。結局は実らない花と同じように私の命は続かず、想いも叶わない。ならば、せめて大切な綾が生きて、いつか実を残す花になり、未来を歩むことを祈ろう。

 だから、どうか悲しまないで。綾の為に無くなった命は、無駄じゃないんだよ。

 綾が生きてくれる事が、唯一の希望。

 静かに息を引き取った文の表情は、とても穏やかで、苦しみなど何一つ背負っていなかった。彼女に巣食っていた声達もまた、彼女の亡骸を抱える青年を見つめながら、安らかに空から降る光へと登っていく。

 その姿を見たものは誰ひとりいなかったが、何かが終わったことは確かだった。

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