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徒花  作者: 似櫂 羽鳥
第二章
21/27

六、明けない闇

「ああ、違う、美味しくない。あーあ、獲物が汚れちゃった」

 蘇芳の言葉が理解できない。

「血が混ざっちゃうと、半減しちゃうんだよねぇ。ただでさえ今、猛烈に乾いてるっていうのに」

 こいつは、何を喚いているんだろう。気持ちが悪い。

「やっぱり、綾じゃなきゃダメだ。待たせちゃってごめんね、一滴残らず飲み干してあげるからさ」

 きっとこれは人じゃない。吸血鬼、ただの化け物だ。闇夜で人を襲う、醜い生き物だ。狂っているんだ。

 敦盛が俺を見ている。もう何も映らなくなってしまった瞳で。なんでこんなに赤いんだろう。生命の匂いが鼻にこびりついて、吐きそうだ。桔梗の足首が見えた。まるで真っ白な陶器で出来ているみたいだった。どうして彼女は壊れてしまったのだろう。どうして敦盛は動かないんだろう。

「さあ、食事の時間だよ」

 ああ、そうか。こいつに、殺されたからだ。

 桔梗は一人ぼっちで死んでいった。

 敦盛と喧嘩をしたままだった。

 俺もこいつに食われてしまうのか。こんなところで、誰にも知られず、友の無念も晴らせないままで。

嫌だ。終わりたくない。俺にはまだやることがあるんだ。文に逢わなきゃいけないんだ。ここから出なきゃいけないんだ。

 立ち上がらなければ。

 ────戦わなければ。

 膝は震えていたが、まだ動けた。涙に濡れた両目で、蘇芳を力強く睨んだ。それでも蘇芳の微笑は揺るがず、楽しそうにそのナイフを弄んだ。

「……許さない。お前だけは、絶対に、許さない」

 化け物は薄ら笑う。

「おや、敦盛と桔梗さんの仇討ちでもするつもり?」

 イザナギを抜いた。白銀の刀身。正眼に構える。刃から放たれる凍てつくような圧迫感を両の手に受け、全身が総毛立った。

 蘇芳は俺が動くのを待っているようだった。俺も同じく、蘇芳の動きを見守っていた。音もなく、時が流れる。一秒、一分、大きく息を吐き出した。

 痺れを切らした蘇芳が、一歩を踏み込んだ。きっと急所を狙ってくる、ならば。

 金属同士がぶつかり合う激しい音。初撃は弾いた。だがこれで終わるはずはない、次はどう来る?

『お兄ちゃんはいつも、守ってばかりね』

 不意に文の声が聞こえたような気がした。剣道の試合の時、勝ちを狙わない俺のことを文は見抜いていた。

『いっつもそうやって、投げ出すんだから。そんなんじゃいつか、本当に勝たなきゃいけない時に、負けちゃうよ?』

 自分を守るだけの力。誰かを守るための力。それはよく似ていて、全く違う。誰かのために振るわれる力は、正義となる。

 初めて、俺の中の何かが、大きく弾け飛んだように感じた。

 力を。闘う力を。誰にも負けない強さを。高みへ。

 正面に構えた刃の先、蘇芳の動きはやけにゆったりと見えた。

「…終わらせる」

 そこから先は全てがスローモーションだった。

 懐に飛び込もうと屈んで駆け出した蘇芳の体を、一足飛びで右に避ける。振り向きざま、油断したのか少しよろけた彼の腰を蹴りつけ、完全にバランスを崩した蘇芳はつんのめって転倒した。ごろりと仰向けになった蘇芳の首元に、切っ先を向けた。

「………」

 蘇芳が上げかけた腕を下ろし、ふっと小さく息を着いたのが終わりの合図だった。

 雌雄は決した。

「…さっさと終わらせてよ、綾」

 諦めたように毒づく蘇芳の、首の皮が薄く切れて血が滲んだ。このままこの腕を突き出せばいい。簡単だ。蘇芳は死に、桔梗と敦盛の仇は討てる。果たされる。それでいい。

 本当に?

 ここで蘇芳を殺せば、何もかもが報われるのだろうか? どう足掻いたって、敦盛達はもう還ってこない。あの頃にはもう二度と戻れない。ならば、何の意味があるというのか。

 こいつを殺すことが『正義』なのか。違う、それは復讐でしかない。渦巻いた恨みの連鎖、俺はその一環になろうとしていた。この儀式の中に正義なんてなくて、自分の心にある正しさに従うことが正義になるのかもしれない。俺が見つけた正しさは、誰も殺さずに儀式を終わらせること。この道を踏み外せば、俺は俺を見失ってしまうだろう。

 それが何よりも怖かった。敦盛は言った、誰かを殺したら人間ではなくなってしまうと。俺も人ではない何かになってしまうのか。こいつを殺せば、文と同じ場所に辿り着けるのか。文が何を背負い、覚悟したのかを俺も知りたかった。けれどそこに行くには、俺はあまりにも、弱い。今更になって手が震える。やっぱり俺には、俺には。

「……できないよ、文…」

 踏み出せなかった。文が超えてしまった一線はあまりにも深すぎて、高すぎて、どんなに偽りの覚悟と正義を決めたところで、手の届くものではなかった。悔しさと少しの安心感と、耐え難い恐怖心が左手を震わせる。呼応するように、剣先が蘇芳の喉元で不規則な軌道を描いた。涙が溢れて止まらなかった。いろんな感情がぐしゃぐしゃのままで、涙と一緒に流れ出しているみたいだった。

 蘇芳はそんな俺を鼻で笑い、自身の首から滲み出した血液を一滴掬うと、舌で舐めとった。

「……甘いなぁ、綾は。それとも優しいのかな。僕、綾のそういうところ、嫌いじゃないよ」

 その顔に浮かぶ恍惚。蘇芳にとって、血液は酒のように彼を酔わすのだろう。とろりと惚けた表情でその味を楽しみ、飲み下した。

「でもね、ここじゃその甘さは枷でしかない。君は君自身に殺されるんだ。正論なんて今は何の役にも立たない。義理とか情けとか、そんなものはもう無意味なんだよ」

 蘇芳の言葉はその手に握られたナイフよりも鋭く、俺を刺す。

「遅かれ早かれ、君は死ぬよ。やるしかない、初めからそう決まってるのにも拘らず、君はゲームを降りた。君が生き残る未来は、最初から用意されてないんだよ」

「…それでも、俺は…俺は、人でいたいんだ…」

「好きにすればいいさ。誰も君のことは責めないよ。でも、どうせ死ぬのなら」

 いつの間にか蘇芳は立ち上がり、俺の目の前にいた。微塵も動けなかった。蘇芳の氷のように冷たい指が、蛇のように首筋を這った。

「その血、全部僕にくれないかな」

 添えられたナイフは、彼の指と同じくらい冷たかった。

「大丈夫、怖がらないで。折角だから、ゆっくりと味わってあげる。ようやく君の血を手に入れられるんだ。一瞬で終わらせちゃうのは、勿体無いからさ。生きたまま、君の鼓動を感じながら、少しずつ、ね」

 首にずきり、と痛みが走った。暖かいものが流れ落ちるのがわかる。続いて蘇芳の舌先がその傷口に触れ、痛みと悪寒がぞわぞわと背中を伝った。何も出来ないまま、蘇芳に血を吸われ続けた。心の中で文に、敦盛に、桔梗に、死んでいったみんなに、ごめんと叫びながら。

 ところが蘇芳は突然俺から顔を離した。口元を鮮血で真っ赤に汚し、眉根を寄せる。

「…違う」

 俺の体から離れていく。頭を抱え、ふらふらと何かを考えるように。

「違う。違う違う違う。あれ、おかしいな。こんなんじゃない、はずなのに」

 あまりにも理解が追いつかなくて、見ているしかできなかった。

 蘇芳の顔は先ほどの恍惚から一転し、焦りに満ちていた。

「どうしてなんだ。求めてたのはこれじゃない。おかしいな、おかしいなぁ。これじゃ満たされない。こんなの、僕の求めてたものじゃない…」

 違う、違う、と取り憑かれたように呟きながら、その場をうろついている。何があったのだろうか。ふと首の傷を触る。そんなに深くはないらしい、血はもう止まっていた。

 長い長い逡巡と自問。急に天啓を受けたように、蘇芳がはっと顔を上げた。だが瞳は我を失い、せわしなく左右に揺れている。

「…そうか。わかった。僕が求めていたものは、そういうことか」

 納得したように、微笑む。再び恍惚の表情が彼に戻った。しかし先ほどまでとは少し違う。目だけがやけにぎらつき、異様な不穏さを湛えていた。いったい彼の中で何が起こっているのだろう。状況を見守りながら、蘇芳が俺に興味を失ったことだけはわかり、少しだけ安堵していた。

 彼の右手がゆっくりと上がった。

「そうだ。誰かのじゃだめなんだ。僕の渇きを癒せるのはただ一人だけ」

 その刃は彼自身に向けられていた。

「ああ、喉が渇いたなぁ」

 その先は容易に想像できた。

「や…やめろ!!」

「僕を満たせるのは、僕だけだ」

 止めようと伸ばした手は遠すぎた。

 蘇芳はゆっくりと首筋にナイフを当て、そして勢いよく引いた。少しの間を置いて、激しい血しぶきが舞う。重力に従って、支えるものをなくしたナイフが落ちた。立ち尽くしたままの蘇芳の舌が、己の体から噴き出す滝のような血を受け止めていた。満足したように笑い、その膝が折れた。地に沈み、二、三度痙攣して動かなくなった。広がる血溜まり。彼の鼓動が止まっても、とめどなく溢れ出す赤。蘇芳の死に顔は、おぞましいくらいに穏やかだった。

「あ……あぁ…」

 虚空に手を伸ばしたままで、俺はがくりと膝をついた。俺の全身にも蘇芳の血がかかり、生暖かさと強すぎる臭いにその場で嘔吐した。もともとほぼ空っぽだった胃から出るものはなく、胃液を撒き散らす。それすらも出し尽くし、何度もえづいた。血と、吐瀉物と、涙が混ざって、汚い模様が一面に描かれていた。準備室の床は、三人分の血で染め上げられていた。饐えた鉄の臭いと三つの死体、まるで地獄のような光景だった。

 そしてその中で、一人生き延びている、俺。

 神様はなんて残酷なんだろう。初めて俺は自分の運命を呪った。こんなに酷い世界で、それでもまだ生きなければいけないなんて。まだ俺に、闘えというのか。俺がこの両手を罪で満たすまで、終わらせないというのか。

「あああああああぁぁぁっっっ!!!」

 絶叫は空気を震わせた。しかしもう誰の耳にも、届かない。

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