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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第三章「将軍は嫌じゃ!断る!」

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逃げ場の消滅

――作者より一言――

権力というのは、欲しがる人間のところには来ないが、欲しくない人間のところにはしつこく来る、という法則が歴史には存在するようだ。本章はその法則の、最も純粋な実演である。

なお後世の歴史家がこの章を「秀忠の謙虚さと人徳の章」と称したことを、ここに記しておく。歴史家というのは、本当にそういう生き物である。

そして本章の出来事を最も熱心に「解釈」しようとした男が一人いる。その男の解釈は、毎回正しい方向に向かいながら、毎回微妙にずれていた。それでも彼は記録し続けた。



EP1 逃げ場の消滅


慶長八年、春。


関ヶ原から二年半が経っていた。


秀忠はその間、とくに目立ったことをしていなかった。目立たないようにしていたとも言えるし、ただそういう性分だったとも言える。猫と団子と昼寝を愛する日々が続いた。政務は「必要な時に呼んでください」と伝えてあったが、呼ばれた記憶はあまりない。


江戸の春は穏やかで、縁側から見る庭に桜が満開だった。


秀忠は布団を縁側まで引きずり出し、そこで団子を食べていた。


「いい天気ですね」


隣に正座している竹松が、律儀に返した。


「はい、まことに」


「こういう日に呼び出されるの、嫌じゃないですか」


竹松は一拍おいた。


「……なぜでございますか」


「だって天気がいいのに部屋に入らないといけないから」


「呼び出されているわけでは……」


「でもいずれ呼ばれる気がする」


竹松はそれ以上何も言えなかった。言えることが特になかった。


桜の花びらが一枚、ゆっくりと縁側に落ちた。


呼ばれたのは、それから四半刻後のことだった。


「家康様がお呼びでございます」


土井利勝が廊下に立っていた。秀忠は団子をもう一本取りながら言った。


「やっぱり」


「はい?」


「いや、なんとなく来ると思ってた」


「それは……先ほど竹松から……」


「違いますよ。なんか嫌な感じがするんです。お父さんに呼ばれる時、大体こういう感じがする」


土井は「はあ」と言った。表情は変えなかった。変えたくなかったわけではないが、変えることができなかった。


「なんの話ですか」


「……存じません」


嘘ではなかった。土井も詳しくは聞いていない。ただ、家康の顔を朝に見た時の、あの眼差しが気になっていた。何かを決意した人間の目だった。長年仕えてきた土井には、それがわかった。


秀忠は団子を食べ終えた。


「……行かないといけないですか」


「はい」


「行けばいいんでしょ」


「はい」


秀忠は布団から立ち上がり、着物の裾を直した。


桜の花びらがまた一枚、縁側に落ちた。


家康は、廊下に面した座敷で待っていた。


一人だった。正信も土井も呼んでいない。珍しいことだった。それ自体が、すでに何かを意味していた。


秀忠が入って座ると、家康はすぐに言った。


「秀忠。お前を次の将軍にする」


一言だった。


前置きも、枕もなかった。


秀忠は三秒、固まった。


そして言った。


「え゛ーーー!? やだやだやだ!! なんで僕が!?」


家康は表情を変えなかった。


長い生涯で様々な言葉を聞いてきたが、次期将軍の候補者から「え゛ーーー」と言われたのは初めてだった。しかし準備はできていた。この程度のことは想定の内だった。


「長男の信康《のぶやす》はどうした!」


「死んだ」


一瞬の沈黙があった。


秀忠は気を取り直した。


「じゃあ次男は?」


「お前が次男だ」


また沈黙があった。今度は少し長かった。


「……秀康《ひでやす》は?」


「あれは結城家にやった」


「……やったって」


「やった」


「人をやるとか言うんですか」


「言う。次は?」


「え、次って何ですか」


「お前の次の逃げ場の話をしておる。さっさと出せ」


秀忠の顔が引きつった。


「……なんかもう一人いなかったですか」


「忠吉《ただよし》か。あれも死んだ」


「……」


「以上だ」


「……以上って、何が」


「お前の兄弟が。他にはおらん」


秀忠は天井を仰いだ。


庭から鳥の声が聞こえた。桜が風に揺れていた。穏やかな春の日だった。この世のすべてが「いい天気だな」と言っているようで、なぜかそれが余計に腹立たしかった。


完全な詰み、という四文字が、額の裏にくっきりと浮かんでいた。


家康は表情一つ変えなかった。


この問答を、家康は三日前から準備していた。逃げ場を全部塞いでから呼ぶ。それが秀忠に何かを伝える唯一の方法だと、長年の経験で学んでいたからだ。家臣に先手を取られる前に、先手を打つ。それは戦場でも、息子の説得でも同じだった。


「……考えます」


秀忠はそれだけ言って、立ち上がった。


「考えるまでもない。決まったことだ」


「まだ決まっていないです」


「お前の中では決まっていなくとも、儂の中では決まっておる」


「……」


「以上だ」


秀忠は廊下に出た。足音が遠ざかっていった。


家康は庭を見た。桜が静かに散っていた。


秀忠は自室に戻り、布団を被った。


竹松が恐る恐る声をかけた。


「……殿、何か御用がありましたら」


返事はなかった。


布団の中から、くぐもった声だけが出てきた。


「やだ」


「はあ」


「やだやだやだ」


「……はあ」


「誰かもっと向いてる人がいるはずなんですよ。絶対に」


竹松はどう答えてよいかわからず、廊下に正座して待った。しばらくして「団子ありますか」という声が聞こえたので、取りに行った。それ以外に、できることが見当たらなかった。


秀忠は三日間、布団を被った。


外に出なかった。正式な場には顔を出さなかった。政務の確認も省いた。食事は「いつもより多めに」と注文し、団子の追加も忘れなかった。


布団の中で何をしていたかといえば、ぐうたらしていた。


以上である。


しかし、江戸の町に広まった噂はそうではなかった。


「徳川の若殿が、将軍の座を前にして三日間籠もられておるそうな」


「権力の重みを、一人で受け止めておられるのかもしれぬ」


「あのお方は権力すら欲しがらぬ……なんと恐ろしい御仁か」


どこから広まったのか、誰も知らなかった。ただ噂というのは、真実よりも聞こえのよい方向へ流れるものである。三日間布団に包まって団子を食べている青年の姿が、人々の口の中で「深い熟慮と覚悟」に変わっていった。


そういうものである。


家康は正信をこっそり呼んだ。


「正信。なぜそういう噂になるんだ」


「さあ……人は見たいものを見るのでございましょう」


「儂には、ただ部屋に籠もって団子を食っているようにしか見えんが」


「それが将軍の風格に見える者もいる、ということでございます」


「……この国は大丈夫か」


「天下泰平でございます」


家康は返事をしなかった。


窓の外に桜が見えた。散り始めていた。三日で散りかけている。


「……あれで本当に大丈夫なのか」


正信は少し間を置いた。間の置き方が、いつもより慎重だった。


「一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」


「言え」


「関ヶ原の件を、今でも覚えておりますか」


「覚えておる。遅刻した」


「はい。遅刻しました。しかし真田を三日足止めした。本人は『足止めされた』と言っております。動機も意図も、今もって不明でございます」


「だから何だ」


「秀忠様は、狙ったわけではないが、毎回、結果だけは合っている」


家康はしばらく黙った。


「……それが何になるんだ」


「わかりかねます」


正信は静かに頭を下げた。


「ただ、今のところそういう御方である、ということだけが、確かなことでございます」


三日目の夜、お江が部屋に入った。


布団の端を捲って、中を覗いた。


「まだいるの」


「いますよ」


「おなかは」


「団子食べてます」


「ちゃんとした飯も食べなさい」


「さっき食べました」


「そう」


お江は少し考えて、布団の端に腰を下ろした。


秀忠は布団の中から言った。


「嫌なんですよ」


「知ってる」


「なんで僕なんですか」


「知らない。でも決まったことでしょ」


「決まってないです。まだ」


「あなたのお父さんが決まったって言ったら、決まったのよ」


「……それはそうかもしれないけど」


「でしょ」


しばらく沈黙があった。


お江はそこに座っていた。布団を取り上げるでも、立ち上がるでもなく、ただ座っていた。縁側の外で虫が鳴いていた。


「……嫌だって言ったら、本当に嫌なままになりますか」


「ならない」


「なんでわかるんですか」


「あなたのことは大体わかるから」


「何年一緒にいると思ってるんですか」


「嫌と言い続けても、最終的には動く人でしょ」


秀忠は返事をしなかった。


お江は続けた。


「嫌だと思うのは本当のことだから、嫌と言い続けていい。でも、その先が来た時に動ける人だということも、私は知ってる」


「……それ、励ましのつもりですか」


「そんなつもりはない。ただの話」


「……そうですか」


布団の中がしばらく黙った。


「……まだ嫌なので、今夜は寝ます」


「どうぞ」


お江は立ち上がり、布団をそっと直した。夫の顔は見えなかった。見なくてもよかった。


部屋を出る時、廊下で待っていた侍女のひさが小声で聞いた。


「奥方様、殿は……」


「大丈夫よ」


「どのようにご覧になって」


お江は少し間を置いた。


「あの人がそういう人だから、ということに気づいたの。いつの頃からか」


ひさは「……なるほど」と言ったが、何もわかっていなかった。わかろうとしたが、わからなかった。お江が答えないことが答えだと解釈し続けるのが、ひさの生き方だった。


その夜、本多正信は廊下を歩きながら手帳に書いた。


「第三章、開幕。秀忠様、将軍就任を拒否中。三日目。本人の言葉:『やだ』(連発)『向いてる人がいるはずなんですよ』。周囲の解釈:『深い熟慮』『権力を欲しがらぬ御人格』。解釈の乖離、これまでで最大。しかし毎回、そうである。動機不明、結果合致。この法則が今後も続くかどうかは、わかりかねる。ただ、記録しておく価値はある」


筆を止めて、正信は少し考えた。


「……向いてる人がいるはずなんですよ」


呟いて、また書いた。


「補記:秀忠様が『向いてる人』を探している間に、江戸は静かに動いている。これが何を意味するかは、わかりかねる。ただ、天下泰平、である」



◇後世の歴史家注◇

秀忠が将軍就任を三日間熟慮したことについて、「権力の重みを深く受け止めた証」とする説と、「後継者として万全の覚悟を固めるための沈思黙考」とする説がある。「団子の食べすぎで胃が重かっただけ」とする第三の説は、一次資料の発見により一時浮上したが、「資料の解釈に問題がある」として現在は否定されている。また、この時期の家康・秀忠の問答について詳細な記録は残っていない。「逃げ場の消滅」という表現が当時の記録に存在しないことは確かだが、複数の日記に「秀忠様、諦めておられた様子」という記述がある。これをどう解釈するかは、読者諸氏に委ねたい。

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