6.青褐の底4
一人でもあんな風に心許ない助け方しかできない深沢が、三人を無事にこの中から救い出すのは難しいだろう。しかも水の中は相手の場である。有利にことを進められる。
反射的に動いた後の理性の言葉にすぐさま白川は黒崎の足を強く引いて手を離す。彼に白川が足を掴んでいるという感覚があればその意図は間違いなく伝わっただろう。とにかく自分だけでも深沢に面倒をかけず自力で這い上がろう。
そして、水面を目指す。
だが、それが遥か遠くに見えた。
――なんで!?
たかが二十五メートルのプールだ。白川が立ち上がれば顔は水面より上になる。
なのに、今は水面が遠い。月がちらちらと反射しているその場所がとてつもなく遠い。
――拙い!!
非常に、ヤバイ。
と、突然辺りが揺れた。
水が細かく振動している。
やがて、ざばっ、という音とともに、白川の周りにあった水が全て消えていた。
状況を理解するまでに長い時間を費やした。
「先輩! ユキ先輩っ!!」
自分より身長が低い癖に上から呼びかけるとは生意気なやつめ、この野郎と変な方向へ頭を使う。
「白川、大丈夫か?」
少し離れた場所に黒崎が校長を抱えて尻餅をついていた。
「あれ?」
苔がへばりついたプールの底が見える。というかそこにぺたりと自分が座っているのだ。
「マキちゃん?」
彼は月明かりでも伺えるほど青い顔をして『5』と書かれた台に抱きついていた。
「よ、良かったぁ……」
三人を傷つけることなく――内蔵破裂することなく――引き上げる自信のなかった深沢は、それならばと水を全部プールから取り出してしまったのだ。一気にではなく、三人がいないと分かっている場所から順番に。しかしとんでもなく大急ぎで。それだけのことをやってのけた。
「S級クラスってのはホントだったなあ」
「俺っ、必死だったから……ホント、みんなに怪我がなくて良かったです」
と、周りを見て言う。つられて白川も辺りをぐるりと見渡した。プールの内壁がところどころ陥没している。
本当に、怪我がなくて良かったと思う。
「で、どうする?」
完全に気絶している校長を顎でしゃくると、黒崎は少しだけ考えて立ち上がった。
「校長が足を滑らせて、水をほとんど抜ききっていたプールに落ちた。頭を打ったから病院に行った方が良いだろうと勧める」
「その方がいいな」
校長を担ぎ上げようとする黒崎を手伝う。
手を伸ばした瞬間、ヴィジョンが見えた。
サイコメトリーだ。
たまにこうやって自分の意志とは関係なく発動してしまう。それを防ぐための手袋だったが、取ってしまっていたのだ。それを忘れていた。不注意だ。
――だが、原因が分かった。
そんな白川の様子に気づいたのか、黒崎がこちらを見ている。
だが、向こうから先ほどの受付にいた男と女がこちらへ駆けつけてきていた。彼らの前で話すことではない。
どうせもう終わってしまっていること。
校長も、遺体を動かす気があるのならばとっくにやっているだろう。そうでないのだから、後で話しても事態が変わるわけではない。
「俺の車に苔だらけ泥だらけの男が……」
「お前も同じだろう」
「俺の車が……」
「だったらうちの車で来ても良かったわけだが」
サイコメトラーな白川にとって、他人が普段から使い続けている物に触れるのは常に情報を読みとってしまう危険を伴う。それは互いに不快感を味わうものだ。
「……お断りします」
彼らに校長を預け、今夜はひとまず退散しますが、また後日と言って帰ってきた。調べてみても不審な生物はおらず、一応確認の意味で水を抜いてみたが何も出なかったという黒崎の言葉をあの二人は信じて、校長を介抱するために校舎へ帰って行った。
あの短期間で水を抜いたというところを突っ込まれなくて良かったと思う。しかもプール内の壁が陥没しちゃったりしている。
とにかくボロがでないうちにと退散してきたのだ。
白川と黒崎だけでなく、深沢もぼとぼとになっていた。プールの底を這ってはいなかったので苔べったりからは逃れられているがお互い嫌な匂いをさせているのは確かだ。とにかくスーツの上着は脱ぎ、車に積んであった雑誌をシートに敷いて乗り込んだ。一刻も早く部屋へ帰りシャワーを浴びたい。
「だけど、このなりで警察庁内入れますかね?」
「……その時は課長に助けを請おう。きっと高くつくがな」
「はい……」
そこで思い出す。車に乗り込む際のぎゃあぎゃあで忘れていた。
「黒崎! あの幽霊何者か分かったぞ。去年勤めていた女教師らしい。校長と夜のプールでなにやらもめて殺されたみたいだ。埋めてあるのがプールの脇。新しい工事跡があったから、それで何か刺激されて出てきたんだろう……って聞いてるか? おい、黒崎?」
その時ずるりと黒崎の体が傾いだ。
白川は眉を寄せて道ばたに車を止める。
シートベルトを外して後部座席へ身を乗り出した。
「おい、……黒崎?」
無理矢理サングラスを外すと、顔をしかめたまま目を閉じている紙のように白い顔をした黒崎があった。
右手の甲で頬に触れる。
「すっごい熱い」
「そう言えば体調が悪いって言ってましたね」
「だなぁ」
そこにあの水攻撃。着替えもせずに今に至る。
誰でも悪化するだろう。
「どこか病院に……」
「こんなナリでか? 不審がられても言い訳する言葉が見あたらない」
だからといってあと一時間近く車を走らせるのは明らかに拙い状況に思えた。
「くそっ!!」
運転席にあらためて着いた白川は何を思ったか車をUターンさせた。深沢が見ると口を尖らせて前方を顎でしゃくる。
「実はあと五分ほどの距離に俺の家がある」
「あ、そうなんですか?」
「本当は男なんて連れ込みたくないんだが……」
「連れ込むとか変な言葉使うからおかしくなるんですよ」
「うるせー……背に腹はかえられない」
「肺炎にでもなったら大変ですからね」
仕方がない。
不可抗力なんだと自分に言い聞かせて駐車場に車を止める。
「ほら、マキ! お前黒崎担げ」
「ええっ!? 俺より背高い人を?」
「……お前の能力はなんだ」
じろりと睨んでやるとようやく思い出したといった風に深沢が頷いた。三階まで彼は軽々と登る。やはり触っていたり静止しているものを動かすのは随分と楽なようだ。
玄関を開けて中に入る。大の大人が三人もいるとさすがに窮屈でならない。
「まずシャツとか脱がせないとだめですね」
深沢の当然な言葉に、白川は一時停止してしまった。その最大の難関に呆然とする。
「ユキ先輩、進んでくださいよ」
確かに、その恰好のままベッドを譲りたくはない。
しかし――、
「だ、断固拒否だ!」
「何ですかいきなり」
廊下で止まって振り向いたものすごい形相をした白川に、黒崎を担いだ彼が怯える。
「女の子の洋服なら喜んで脱がすが、男のそれは絶対嫌だっ!!!」
「変なところにこだわるんですね。良いですよ、俺やりますから」
「へ?」
白川を追い越してリビングへ行きその奥のベッドルームへと黒崎を担いで行く深沢。彼はまずフローリングに黒崎を寝かせるとためらいもなく次々洋服を剥がしていった。
「ま、マキちゃんすごいのね」
扉の陰からその光景を覗く白川。自分ならとんでもない時間を掛けて悩みに悩んでやっとの行動となるだろう。
「何にもできない弟がいたんでこういうのは慣れてます。それより何か着るものを。さすがの俺もパンツ脱がすの嫌ですよー」
「うあああ、パンツとか言うな馬鹿!! ……ジャージで良いよな、ジャージで」
いた、という過去形にあえて触れはせず、白川はタンスを漁る。
「その前に体拭いてあげた方が良いかも知れませんね」
「マキト君がやってくれるならタオル絞ってくる」
「お湯で絞ってあげてくださいね」
「ラジャー」
すっかり主従が逆転しているが、人間何事も向き不向きというものがあるのだ。白川にはあそこまでやってやる自信がない。相手が黒崎だとかそう言った問題でなく。
家に入って十五分も経たずに黒崎は白川のベッドで眠りについた。
「起きないから薬も飲ませられないな」
「外から冷やすしかないですね。おでこに濡れタオルくらいしか」
寝室の電気を消して二人は扉を閉める。
「それじゃあ俺がスーツとかクリーニングに出して来る。この時間でも開いてるところあるんだ。で、その間にお前もシャワー浴びとけ。着替えはこれ」
「あ、いや、俺は帰りますよ? せめてどっちかが課長に――せ、先輩?!」
壁ドンだ、壁ドン。イケメンの壁ドンを御覧じろ。
そして耳元で囁いた。それはそれはドスの利いた声で。
「まさか、大嫌いな黒崎を俺の家に置いてお前はトンズラしたりするんじゃないよなぁ?」
「……そんな、この状況で好き嫌いとか言ってる場合じゃ」
「事態は一時終焉を見せた。だからこそ出てくるんだよ好き嫌いが! 俺を見捨てて行くんじゃねえだろうな!! いや、見捨てるのは黒崎を、だ。一人にされたら濡れタオル顔に置いちゃうかも」
「さらっと怖いこと言わないでください」
「お願いだ、先輩のお願いだよ? マキト君! ソファーを君に譲るからお願いだから今日は泊まって行ってよ!! 頼む、この通りだっ!」
土下座までしそうな勢いに飲まれ、結局深沢も泊まることとなった。課長には電話で連絡を取る。知ってる、とのお言葉をいただき、複雑な心境だが事なきを得る。
日の光がまぶたの裏を通り、起きろと刺激を繰り返す。
ベッドの上にあるプーさんの目覚まし時計も起きろ起きろとがなり立てる。
うるさい、と手を伸ばした先で、何か普段はない暖かいものに触れた。
目覚まし時計の音が止まる。
すっと血の気が引く。
待て。
ちょっと待て。
なんだこの状況は。
見ろ、相手も固まっているではないか。
目の前に寝起きで焦点の合っていない天敵黒崎航の顔があった。
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お化け方面事件でした~




