20 それはちょうどいい
歩からの申し出を受けてから、十二日が経った朝。雨森診療所では、今日も雨が天井を強く叩いている。途切れない雨の日に並び、彼らは毎日のように診療所に通い詰めていた。
この十二日間、一度たりともかすみに軍配は上がっていない。今日も同様に、かすみの表情は曇り続け、歩の飄々とした様子は崩れない。状況をよく知らない人間が見ても、どちらの思い通りに事が進んでいるかがわかってしまうだろう。
終局まで、あと二手か、三手か。幽霊二人の指示通り駒を運び、憲吾は雨音に耳を傾けた。
「……参りました」
ざあざあという音の隙間を縫って、かすみが溜息と共に言葉を吐き出した。
この言葉を聞くのも、もう何度目だろうか。駒が散らされた八十一マスを眺めながら、憲吾は姿勢を崩した。
「今回は結構惜しかったんじゃない?」
「惜しくないです! 慰めなんていりませんよ!」
「正直な感想なんだけどなぁ」
口を尖らせるかすみに視線を移し、憲吾はやれやれと肩を揺らした。
慰めなどではない。ただただ駒を動かす人形と化していた憲吾から見ても、かすみの成長は驚くほどなのである。
しかしながら、当人の様子を見るに、それでもまだまだ届かない壁があるのだろう。
当初は「幽霊の代打ちだなんて、漫画みたいだ!」とワクワクしていた彼も、露骨な明暗にいよいよ焦りを感じ始める。憲吾は呼吸を整えて歩の方を見た。
「そろそろちょっとは手加減をしてもらえませんか?」
「僕は構わないけれど、彼女が納得しないだろうね」
「そうですよ。手加減なんて冗談じゃありません!」
本末転倒じゃないか、という言葉を飲み込んだ憲吾は、駒の一つを手に取った。
──このままのペースでいけば、事が進むのは季節が変わる頃だろうか? 本当にいいのかそれで。
憲吾が駒を初期配置に戻そうとしたところで、唸っていたかすみから声が上がる。
「あ、そのままにしておいてください。少しばかり感想戦をしたいので」
「えっ」
「ここの飛車なんですけど──」
憲吾の返答を待たず、かすみは盤上に指を向け始めた。対面に座る歩も、ふんふんと愉快そうにかすみの言葉を聞いている。
憲吾は時計にちらりと目を向けた。講義開始まで残り三十分ほど。感想戦の様子を見守る余裕はない。
「かすみさん。俺今から講義なんだけどどうする? ここに残る?」
「先に行っててください。終わったら追いつくので」
「はいよ」
迷子幽霊にも楽しめる娯楽ができたことへの喜びはありつつも、若干の寂しさを抱えた憲吾は、鞄を担ぎ立ち上がり、裏口から診療所を出た。
♢
午前の講義が終わっても、かすみが大学に現れることはなかった。半日の講義を受け終えた憲吾は、次なる一手を打つためオカルト研究会に向かった。
二番目の幽霊、二重十和は時間経過とともにどんどん自身の記憶が遠のいていくと言っていた。歩も同様なのかはわからないが、この状況がじんわりと続くことは、きっと良いことではないはずだ。
悶々とそんなことを思いながらオカルト研究会の扉を開くと、デスクでたっぷりと砂糖がついた菓子パンを齧っているドクターが目に入った。
彼は憲吾の顔を見るなり淡々と口を開いた。
「久々に顔を見せたかと思えば、随分とめでたくない顔をしているじゃないか」
「梅雨ですから、顔色も曇りますよ」
自身でもよくわからない理由を返した憲吾は、雨水を蓄えた傘を、壁に立てかけてあったパイプ椅子に持ち替えた。
昼過ぎの文化部棟は、程よく賑やかだった。最果てに配置されたオカルト研究会にも、その余波がじんわりと届いている。
めでたくない顔を解消するためにも、ここで情報を収集する必要があるのだ。憲吾は部屋の真ん中で椅子に腰掛け、人差し指を強く上げた。
「ドクターは雨森診療所って知ってますか?」
「雨森診療所か。近所にそういった診療所が有ることくらいは知っているよ」
「出たんですよそこに、幽霊が!」
抑揚のついた声が部屋を飛び回る。興味を引く内容かと思いきや、ドクターは「ふぅん」と小さく言葉を漏らしただけだった。
無類のオカルトマニアのくせして、今日は反応が薄いじゃないか。憲吾は不審に思いながらも言葉を続けた。
「将棋で勝てば情報をくれるらしいんですけど、これがまた強くて強くて。ドクターは将棋を指せたりしますか?」
「あいにく将棋は通っていないね」
「そうですか……。幽霊と対局って、なんだか夢があると思いませんか?」
「そうだね」
やはり反応が薄い。憲吾は首を傾げた。地雷を踏むようなことは言っていない。二週間という期間が空いただけで、ここまで幽霊に対する興味を失ってしまうものだろうか? はたまた、虫の居所が悪かったのだろうか?
しばらく次の言葉を探していた憲吾だったが、それに対して今度はドクターは首を傾け返した。
「今日はお決まりの独り言が見られないね。おつきの幽霊君はいないのかい?」
「お決まりって……。それが、将棋にどっぷりハマっちゃって。後で追いつくって言ったっきり帰ってこなくて」
「そうか。それはちょうどいい」
餌を差し出された犬のように、ドクターは一転して表情を明るくする。言葉の引っ掛かりに、憲吾はすぐさま食いついた。
「ちょうどいい?」
「幽霊君が来る前に、良い話をしてあげよう」
「かすみさんがいない方がいいんですか?」
ドクターはじっとりと頷いて、引き出しから資料の束を取り出した。
憲吾は湧き上がる疑念を抑えながら、机に広がった資料を眺めた。
「二重十和のことがわかったよ」
ぎい、と強い音を立てて、憲吾の座るパイプ椅子が揺れる。
「本当ですか⁉︎ てっきり忘れられているのかと思ってましたよ」
「それだけ時間が必要だったということさ」
さして期待をしていなかった憲吾は、一転して身を乗り出して耳を傾ける。
ドクターは二度ほど資料で机を叩き、口をへの字に曲げた。
「知り合いを辿って、正祥学園のことを調べたんだ。亡くなった生徒はいないか、君から聞いていた像に該当する生徒がいないか、綿密にね。結局名簿を集めて、過去在籍していた生徒全員分をなぞることになってしまったよ」
ドクターは疲労に満ちた表情を浮かべ、首を左右に振った。
正祥学園。たしか十和が在籍していたと思われる高校の名前。いやいやそれよりも。憲吾は目を見開いた。
「全員分⁉︎ すごいですね……。でも、そこまで調べる必要があったんですか?」
「どこかで早めに見つかっていれば、わざわざ全員分を探る必要もなかったし、見落としがなかったか何度も名簿を反芻せずに済んだんだがね」
芳しくないドクターの表情に、憲吾はごくりと息を呑んだ。
軽音部が練習を始めたのか、ロック調のアップテンポなギターの音が、遠くの方で鳴り始める。
どちらかというと勘が鈍い方だという自負がある憲吾にも、ドクターが言わんとしていることが理解できた。
理解できたからこそ、この質問を繰り出したくはなかった。
「見つからなかったんですか?」
雨足が激しくなったのか、ギターの音が雨音に掻き消される。ドクターは少しだけ窓の方に視線を向け、あっさりと口を開いた。
「ああ。生徒が亡くなったという話はもちろんのこと、いくら遡っても二重十和という名前自体が見当たらなかった」
「……そうですか。じゃあ、高校の制服は見間違いだったのか……。って、全然良い話じゃ無いじゃないですか」
憲吾は頭を抱えて椅子に深く腰を預けた。
数少ない十和の手がかりが、あっという間に途切れてしまった。ヒントを探ろうにも、当の本人はすでにこの世にはいない。
落ち込む憲吾を愉快そうに眺めるドクターは、少し間を空けてくつくつと笑い始めた。
「予想通りの反応で安心したよ。ここからが本題だ」
「は?」
憲吾が顔を上げると、ドクターは資料の束から小さな紙を一枚抜き取り、それを憲吾の方へと向けた。
紙を受け取った憲吾は、文字がメモされたそれを見つめて眉をしかめる。
「これは?」
「二重十和がいる病院の住所だよ」
「えっ」
「君は本当に期待通りの反応を返すね」
大きな雷鳴と共に、蛍光灯がまたたいた。それに呼応するように、憲吾の視界がくらりと揺れる。
ドクターは蛇のような目をさらに鋭くし、得意げに腕を組み、言葉を並べ続けた。
「高校の調査も無意味だったとは言えないね。聞き込みを進める中で、二重十和と中学の頃同級生だったという人物と出会ったんだ。そしてその人物曰く、二重十和が今いるのがその病院だそうだ。今にして思えば、由吊山からの距離を考えても、そこが一番辻褄の合う病院だね」
鋭い光がドクターの背後を照らし、ほんの数秒後に大きな雷鳴が轟いた。音が窓ガラスを揺らし、緊張感を空間にもたらした。
過去にいた、であればわかる。十和は病院で亡くなったと言っていたし。しかし、今いる、となれば話が変わってくる。
ツギハギな思考を繋ぎ合わせながら、憲吾は急いで立ち上がった。
「ち、ちょっと待ってください。今いるってどういうことですか?」
ドクターは窓の外に目を向け、大きく息を吐いた。
「おそらく、二重十和はまだ生きている。どうりで訃報を探っても見つからないわけだよ」
「十和ちゃんが、生きてる……」
「とはいえ、あくまで他の条件が一致しただけ。高校の名簿にいなかった事は事実だ。本人かどうかは、いずれ君自身で確認すると良い」
そんな些細なことは、もはやどうでもいい。憲吾はへたりと椅子に身を預けた。
十和が生きているかもしれない。成仏したはずの彼女が、未だ生身の人間として病院にいるかもしれない。
おそらくは喜ぶべきことだということはわかっているのに、憲吾には喜び方がわからなかった。
しばらく渡された紙を呆然となぞっていた憲吾は、居ても立っても居られなくなり立ち上がった。
「情報ありがとうございました。俺、十和ちゃんに会いに行ってきます!」
憲吾は勢いそのままに踵を返し、ポケットに病院の住所を押し込んで、壁にかけた傘を手に取った。
ドクターが驚いたように声を上げる。
「落ち着くんだ。病院はふらっと入院患者に会える場所ではないよ? それにまだ話は──」
ドアノブに手を添える。そんなことは百も承知。かすみがいないうちにこの話をした理由にも、解を得られていない。
それでも憲吾は、動きを止めない事以外、この熱の冷まし方が思いつかなかった。
「うぅ、いや。なんとかします! 話はまた後日で!」
憲吾はドアノブを左に回し、勢いよくドアを引いた。背後からドクターの深い溜息が聞こえる。湿度の高い廊下では、女子生徒数人が憲吾の方に奇怪な目を向けていた。
この数ヶ月で、歪な視線にももう慣れた。それよりも、手詰まりだった状況に、僅かばかりの光明が差したのだ。それがたとえ稲光だったとしても、向かって進むしかない。
思考を深く潜らせ続けながら、憲吾は病院へと走り出した。