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9.自由の目眩

 その日、まだ夜の明けきらぬ時分のことである。


「私は、奴隷だった」ヒルデガルド・キルヒナー・ヴォルフはそう言った。


 戦場へ向かう馬車を牽くのは、かつてエルフの里で得た『とても賢いロバ』である。木の根に阻まれて入り組んだノルド大森林の林道でさえ迷うことはなく、地図を見せて行きたい場所を指で示せば、ゆっくりではあるが確実に目的地まで運んでくれる。


「今はどうかね、ヒルダ」と古賀は尋ねた。


 ヒルデガルドは言葉を探すように、視線を宙に泳がせてから、口を開いた。


「今は、そうだな。少し、怖いよ」


「『不安とは、自由の目眩である』

 私の故郷に、キルケゴールという哲学者がいてね、その人の言葉だ。簡単に言えば、女性と食事に行くとして、何を食べたいか尋ねた時に、『何でもいい』と答えられるのが一番困るという意味だ。我々男の立場からすればね。

 そこには無限の可能性がある反面、無限の責任を背負わねばならない。

 彼女の機嫌を損ねるのも、自分の口に合わないのも、全て自分の責任。代わりにそれを負ってくれる者はいない」


「それは逆も言えるだろう。男にそう聞かれた時点で、女は選択を預けられている」ヒルデガルドは弱々しく笑った。「しかも、自分の選択が、自分に何をもたらすかということさえ分からないまま、自分の意志と責任のもとに、何かを選ばなければならない」


「その通り。私たちは未来について、何も知らない。そして、だからこそ、この言葉を考える時、1つ注意しなければならない。

 例えば私が誰かに自分の自由を明け渡したとしても、その相手が私に降りかかる不利益に、責任を取ってくれるとは限らないということだ。

 女性に店を決めさせたからといって、彼女が決めた店の料理に、彼女自身が機嫌を損ねた場合も、その後にあるはずだった濃密な時間を、誰かが保証してくれるわけではない」


「ならば我々は、一体どう生きるべきだというのだ」


「その答えを持つ者は、おそらく世界のどこにもいない。この世界にも、ここではない世界にも」


「だからまた、我々は選ばねばならない。これではまるで、自由の奴隷だな」


「そうかもしれない。だが、誰もが何かの奴隷であるとするならば、私は自由の奴隷でありたいものだ」


 ──私は、奴隷だった。──


 という彼女の言葉は比喩ではなかった。彼女は戦災孤児で、5歳の時に人狩りに攫われ、奴隷商人を介してマルス伯エルンスト・ヴィルヘルム・ヴォルフに売られた、正真正銘の奴隷である。


 そのことに、古賀は漠然とした予感のようなものを感じていたが、これに確信を得たのは、彼と肉体関係にあったヒルデガルドの侍女が、「小さい頃から世話をしてきた」と発言した時である。


 ちなみにその侍女は今ごろ、マルス伯領を飛び回り、ヒルデガルドがマルス伯の血縁にないという風説を撒き終え、古賀の用意した快適な隠れ家に身を隠していることだろう。


 ヒルデガルドが仮にヴォルフ伯の実の孫であるなら、代々使用人の家系で、マルス伯の屋敷で育ったその女にとっては、「小さい頃」ではなく「生まれた時から」であるべきだ。つまり彼女は「小さい頃」に、どこか他所から連れて来られた娘なのである。


 あえて、彼女が幸運だった点を挙げるとするならば、それは人狩りも、奴隷商も、マルス伯も、彼女を粗末には扱わなかったという点であろう。人狩りや奴隷商が親切だったからではない。彼女の美しい青い瞳と白い肌に、奴隷としての高い商品価値があったからであり、また、政治、軍略について、驚異的な才能を持っていたからである。


 マルス伯エルンスト・ヴィルヘルム・ヴォルフは、彼女を自身の孫だと称した。戦死した彼の一人息子の落胤であるとして。後継者問題が立ち上がっていたマルスにとって、期せずして彼女のような抜群の才気を持つ娘は、血縁を捏造してでも家系に加える価値があったことだろう。


 しかし、そんな中にあって、彼女と養祖父との間には、奴隷と使用人、あるいは領主と子飼いの戦略家としてのそれより、やや親密な関係が築かれたようである。むしろ、本当の孫のようにさえ扱ったのかもしれない。従って、彼女は、ヴォルフ伯爵に対して古賀が当初想像していたような悪感情を持ってはいなかった。


 むしろ、その祖父の領地の安寧のため、地価の混乱を引き起こしているペテン師を突き止め、さらなるペテンを逆利用し、マルスの発展に寄与することさえ企てたのである。


「ヒルダ、君は、頭がとても良い。おそらく、私以上だ」と古賀は言った。


 ヒルデガルドは自嘲気味に笑った。「嫌味な男だ。そうであれば、私は今ごろ、お前の身柄を持ち帰り、マルス伯の凱旋を待っていたことだろう。我が方だけは、お前のペテンから逃れてな」


「それは違うよヒルダ。木樵(きこり)より頭の良い者が、木樵より早く木を切り倒せるわけではない。喧嘩屋より強く戦えるわけでも、泥棒より上手く盗めるわけでも。

 よくものを覚えるだとか、計算が速いだとかいうことは、役には立つが、決定的な素質ではないんだよ。

 仮に相手の頭が私より良かったとしても、騙し合いになれば、勝つのは私だ。私は、その道にかけてはプロだからね」


「そういえば、結局私は、お前に上手な嘘のつき方を教わってないぞ」


 古賀は頷いた。「確かに。だが、私に教えられるのは、嘘のつき方じゃない。人の騙し方だ」


「同じようなものではないのか?」


「少し違う。君は、上手な人の騙し方とはどういうものだと思う?」


「嘘の中に、少しだけ真実を混ぜる?」


「よく聞く言葉だ。だが、それは素人の考えだと私は思うね。いや、日常生活で生まれる、ちょっとした秘密を守る程度なら、それが上手いやり方なのかもしれない。

 だが、大金をせしめたり、世の中をひっくり返すのに適当なやり方ではない」


「では、お前のやり方は?」


「2つある。1つは、『真実を並べて、相手に事実を誤認させる』」


「お前が直轄領で商人に使った手口か」


「そう。そしてもう1つは、『最初から最後まで嘘をつき倒して、相手が気付く前にふっと消える』まるで、私という存在そのものが、始めから嘘だったみたいにね」


 ヒルデガルドは古賀を睨んで声を荒げた。「悪党め……許さんぞ!」


「そうさ。君は悪党を許すべきではない。人間なんてものはみんな、多かれ少なかれ嘘をつきながら生きている。嘘をついたということだけを以って、悪党だとは言えない。だが、私のように、それを生業にするような人間と、君は関わるべきじゃないんだよ。

 ヒルダ、よく聞け。今ならまだ、君は引き返すことが出来る」


「黙れウンコ野郎!」


「ええ……? 何て言葉を……」


「私はお前を放さんぞ!『ふっと消える』? やってみろ! 私は必ず、お前を捕まえてやるからな!

『不安とは、自由の目眩である』ああ、確かにそうだ。怖いさ。誰かの命令に従うのではなく、私が私の自由のみに命ぜられて、何かを選び続け、その責任を背負い続けるのは。

 誰かが私に命じてくれたら、ただそれに従って生きていれば、そりゃあ楽だ。私はその生き方をよく知っている。

 だがな、私はもう、城を抜け出して、お前を追いかける自由を味わってしまった。私はもう、この自由の味を忘れられん。そして、お前のことも」


「熱烈だ」と古賀は笑った。


 詐欺師にとって、誰かの記憶に残り続けるというのは望ましいことではない。だが、人が人として生きる以上、この世界の誰もが、誰かの記憶には残り続ける。


 いかに優れた悪党にも、そこから逃れる術はない。


 未来については何も知らないし、過去については何も変えられないのだ。


「私には、願いがある。そして覚悟も」舟の舳先(へさき)を見つめながら、ヒルデガルドは決然と言った。


「そうだな。これは失礼した」


 彼女には、養祖父であるエルンスト・ヴィルヘルム・ヴォルフを選帝侯に押し上げるという願いがあった。それも、13歳の彼女をして、悪党と渡り合わせた強い願いである。しかし、その願いは早晩、古賀を含めた3人の悪党の手によって潰えるだろう。


 一方で彼女は、もう一つの強い願いを持っていた。それは、奴隷だった彼女を救い上げた養祖父との繋がりさえ霞ませる、強い強い願いである。────


 馬車が止まった。


 エルフによる幻術が施されたという馬車は、誰にも見とがめられることなく、オルクス湖の湖畔へ彼らを運んだ。


 古賀は馬車を降りると、彼女の手を引いてそのまま湖へ向かった。


 そこでは、一艘の小舟に、若い舟守が1人、(かい)を握って待っていた。


「彼は?」とヒルデガルドが不安げに尋ねる。


「プロメテウスという小さな漁村があるんだが、そこで荷物を運ぶのを手伝ってもらったんだ。いつでも呼んでくれと言うのでね、それ以来、いろいろと頼んでいる」


 悪徳商人ロドリーゴの屋敷で、ヘロインに偽装した小麦粉の木箱を運んだ若い人夫の1人である。彼ともう1人の青年は、あれ以来、常に付かず離れず古賀たちの道程について来た。このことは、後堂と久遠も知らない。


 エルフの集落では、林内の野盗を騙して回る手伝いをし、ドワーフの街では書面の手配や手続きの仲介、ここ数年では情報収集や連絡、工作にと各地を飛び回り、そしてつい先ほどまで、1人はマルス直轄領の土地買収に走り、目の前の彼は野盗連合のスパイとして前線の情報を送り続けた。


「首尾はどうかね」と古賀が尋ねると、青年は笑った。


「上々です」


「結構」


 古賀は改めてヒルデガルドの手をとり、桟橋を渡って小舟の(へり)を跨いだ。


 青年が櫂を漕ぐと、舟はゆっくりと進み始めた。


「結局、卿は、何者なのだ?」とヒルデガルドは問う。


「何者でもないさ。私以外の何者でも。私に肩書きは必要ない。もっと言えば、名前さえ。ペテン師、悪党、金の亡者、好きに呼ぶといい」


「ではなぜ、このような大それたことを?」


「なに、簡単なことさ。戦争などというものは、悪党を増やし過ぎる。世の中に悪党が溢れかえれば、取り分が減るだろう?」


「それは、卿のおかす危険に見合うのか?」


 古賀はヒルデガルドに微笑みかけた。「私はそういうふうには考えない。その危険自体が、人生を面白くするのさ。君が足を踏み入れたのは、そういう世界だ。もう、後戻りは出来ないぞ」


「望むところだ」


 夜が明けようとしている。


 ──私自身が自由であること──


 彼女は今、その入り口に立っている。


「では、世の中ってやつを、ひっくり返そうか。そいつを眺めながら、腹を抱えて笑おう」

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