遥かの紅
しとしとと、雨が降る。重たげな雨雲はまるでその重みに耐えかねて雨粒を落とすようだった。
しかし私は私が望まない限り、その雨粒は私に当たることなく通り抜けていく。
空に手をかざしても、濡れることは、決してない。
静かに、私は聖域から足を踏み出した。
軽やかな音を立てていた下駄の音は響くことなく水分を含んだ土の中に吸い込まれた。私は水たまりに足を濡らすことなく、彼のもとへ向かう。
山神様はちらりと私に視線を送るが、何も言わなかった。彼にとってどうでもよかったのか、それとも私にあきれてものが言えなかったのか。随分長い間彼とともにいるけれど、相変わらず私には彼の思考がどうしても読めない。
カラリ、カラリと聞こえるはずのない下駄の音が鼓膜の奥に響いてしょうがない。半ば身体を引きずるように、彼のいる場所へと歩を向けた。薄暗い灰色の景色の中に高く天を衝く教会の屋根を見た。
閑散とした住宅街を抜けると、黒い服を着て傘を差す人々が見えた。
嗚呼、やはり、と彼らの姿を目にし私はやっと震えたような息を吐き出した。
黒服の集団の中に、彼はいない。
分かっていた、わかっていたからここへ来たのだ。
ふわふわと地に足のつかなかった意識がここにきて重々しく沈んだ。現実味を帯び、私の胸の中を何かよく分からない倦んだものが占める。黒服たちのすすり泣く声が、いやに耳についた。
雨はまるでホワイトノイズのように、彼らを覆った。
一人、また一人と黒服たちは姿を消していく。薄暗い空がその黒さを増してきたころ、ついにそこには誰もいなくなった。
数時間、何をするでもなく立ち尽くしていた私は誰もいなくなったそこへと足を進める。
見たくない、知りたくない、行きたくない……確信を持ちたくない。
確信など最初から持っていたのに、そんなくだらない考えが浮かぶ。くだらないとは分かっていながらも、私は考えることをやめることができない。見たくない現実。だがそれを見なければ私は前にも後ろにも進めないのだ。
浮かびは消えていく葛藤など知らないように、淡々と私の足は彼のもとへと歩かせた。
灰色の石――――墓石の前で足を止める。
しゃがみこみ、雨に打たれ冷たくなった表面を着物の袖で拭った。
RIP
ShigureHyuga――――日向獅呉
19XX-20XX
掘られた文字を指先でなぞる。
数十年前出会った少年は、昨日、この世から姿を消した。
丁度、これくらいの時間だっただろうか。日の落ちかけた、黄昏だった。
重い空を見上げて空に向かって小さく息を吹きかけると、少しずつ鈍色の雲が割れていく。
十字架の立ち並ぶ墓地に、茜色のヤコブの梯子が幾筋も降りてきた。
丁度、これくらいの時間だった。
少年は青年となり、私の腰までの背丈は見上げるほどになった。いつからか、私たちの見た目の年齢は一回り、二回りと離れていった。
キラキラと眩しいほどの生命力を見せていた彼は、今この冷たい土の下で眠っている。
無理やり晴れさせた空を仰ぎ、またしゃがんで彼の墓石を袖で拭った。
ポタリ、一滴だけが彼の冷たい墓石を温めた。
沢山の花が手向けられているそれは彼の人望を表しているのだろう。私は一本だけ鈴蘭を寄せ、どうしようもなく行き所をなくした笑みを浮かべた。
聖域に入り浸る彼を心配していたかつての自分にそれは杞憂だと伝えたい。こちら側に訪れることはあっても、彼は立派に世界を生きていたと。こんなにも彼は人に愛されている。
「……泣かせないって言ってたよね?」
『俺はお前を泣かさない、絶対に。何があっても、だ。』
何か確信をもっているような、強い口調だった。だがしかし、当然のように彼は失われた。結局私には、その言葉はいったいどういう意図をはらんでいたのか分からない。今はまだ言えないとのたまった彼を笑う。あの時は聞けなかった。だが彼はいったいいつなら言えたというのだろうか。
彼は何かを隠していた。もっとも彼をそれを文字通り墓まで持って行ってしまったためそれを知ることは叶わない。彼があの言葉さえ言わなければ、私はもっと静かな心で彼を悼めたかもしれない。彼の言葉はいつまでも私の心に期待という名の違和を残すだろう。もしかしたら彼は生きているのかも、なんて。
死んだ人間は二度と生き返ることはない。そんなことくらい知らぬわけではないのに。いつまでたっても『もしかしたら』が消えてくれない。獅呉の身体はこの地に眠り、彼の魂は神の国へ行ったのだろう。
「……神の国に行ったなら、二度と会うこともないのかな?」
私の独り言に答えるものはいない。
「仏教徒なら、転生して還ってくるかもしれないのに。」
いつかのように、花を咲かせる。あの月夜のように。あの病室でのように。
手をかざすとともに命を持ち美しい花を咲かす。四季など知らぬよう、感じぬよう、ただ思いつく限りの花で彼の周りを埋めた。
以前と違うことは、この花々はいずれ花弁を散らし枯れ土に還る。
以前と違うことは、鈴蘭は隠れていない。
それは間違いようもなく、私の欲であり、かつての祈りであり、私の誓いである。
いくつも鈴生りに連なり小さな花を咲かせることから、鈴蘭は『永遠』を意味する。
くだらないと一笑に付されても構わない。私の自己満足で構わない。例え一時の夢であろうと、私はそれを大事に抱えていたい。
******
「あっ東屋!外っ!」
「急にどうした。」
「ひゅ、日向神父のお墓に花がっ……、」
葬儀の片づけに追われ参列者も一通り去ったのち、一心地ついていると窓際にいた一人の修道士が慌て多様に僕を呼ぶ。だがどうにも取り乱しすぎていて全く要領を得ない。
「何言ってるんだ?神父に花を手向けた人は大勢いただろ。」
「違うっ、それじゃなくて!そういうレベルじゃないんだ!と、とにかく外みてみろって!あれはどう見てもおかしい!」
痺れを切らしたそいつに手を引かれ、仕方なく立ち上がり教会の大きな扉を押し開けた。
「……!これは…………、」
雨に打たれ灰色に煙っていた筈の墓地は晴れ、分厚く覆っていた鉛色は大きな穴をあけられそこからは茜色の美しい梯子が掛けられていた。
そして何よりも目を引くのはその梯子の降りた場所。赤、黄、紫、橙、青、様々な色の花がそこにあった。四季など素知らぬように堂々と咲くそれらに一切の統一性はない。だが決して品を失わず煌々とさす茜色を一身に受けていた。墓石は埋もれてしまったかと思えばそうでもない。そこだけを意図的に避けたように、墓石の周りに生えていた。
「これ……全部地面に植わってる……!」
「…………、」
ふと病室での神父との会話を思い出した。
『おう、まあな。……俺の古い知り合いだ。』
『あんまり俺は花とかは好きじゃねえけど、そいつが持ってくるのは特別なんだよ。』
「神父の……古い知り合いかなぁ…………、」
僕の疑問に答えるものは居らず、呟きは神々しい光景の中に吸い込まれていった。
******
その昔、一人の子供がいた。
子供はすくすくと育ち、立派な大人になった。
大人になって、そして死んだ。
珍しいことなんて何もない。数多いる人間がたどるであろう未来であり、人生だった。ただそれだけだった。
なのに、交わってしまったから、変わってしまったのだ。
たくさんいるうちの一人だったのに、特別で他に代わりのない唯一になったのだ。
頼りなく着物の袂を握る手を見た。
夜空を映す潤んだ目を見た。
耳を擽る笑い声を聞いた。
口からこぼれたその名を聞いた。
薄墨茶の髪に触れた。
温かなその頬に触れた。
一人の人を知ってしまった。知ってしまったから、どこにでもある平凡な別れがこんなにも胸を締め付ける。
わかっていた、あの子がいつか死ぬことなど。そしてその日が近いことも。なのに、どこかで思ってしまったのだ。この不遜に笑う彼が、何もかも笑い飛ばしてしまう彼が、そう簡単に死んでしまうわけがない、と。人が死ぬことなど、本当に簡単なことだと分かっていたのに。
彼は死んだ。もう二度と戻りはしない。
聖域に戻ればそこには誰もいなかった。庄虹様も兎さえもおらず、ただ風に草木がなびいていた。
『……俺が死んだら、泣いてくれるか?』
馬鹿みたいな彼の言葉を思い出した。
「私が泣いたって、君は知ることもできないだろうに。」
こんな風に、誰かを思ったことなんてなかった。
形あるものはいずれ失われる。生きるものはいずれ死ぬ。それだけの話だというのに。
もうここにはないというものなのに、二度と会うことも言葉を交わすこともないというのに。
なぜこうも、目の奥が熱くなるのだろう。
「……ああ、私はきっと、」
きっと君に恋をしているんだ。
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ついぞ、彼に伝えることはなかった。
それは私が人でなく、彼が人であったからでも、私が長命で、彼が短命であったからでもない。
ただ私が臆病だった、それだけの話だったのだ。
だからもし君が、再び私の前に現れる日が来たのなら、私はもう躊躇することなどないだろう。
どうか、私のこの思いが色褪せた思い出に変わる前に。
再びあの紅緋に私の姿が映るなら。
「……お姉さん、だあれ?」
たとえ私の名を忘れたとしても。
「やあ、久しぶり。待ってたよ。」
きっと君に会いに行こう。
読了ありがとうございます!
完結して数年たちますが付け足しさせていただきました。
本来こういった形で終わるはずだったのですが、当時の私がどうしてもハッピーエンドにしたくて無理やり『紅緋』で完結させていました。
こちらが本来あるべき物語の終わりです。
どうあがいても獅呉は死んでしまうし、鈴蘭はどこにも行けません。獅呉が人として正しく死んでこそ、意味のある物語でした。
数年ぶりの更新となりますが、読んでいただき本当にありがとうございました




