1話
放課後の廊下は、いつも少しだけのんびりしている。
部活へ向かう足音が遠ざかって、窓から入る風が静かに流れていく。
神代は、窓際をぼんやり歩いていた。
カーテンが揺れるのを見ているのか、見ていないのか、よく分からない顔をしている。
「神代」
後ろから、やわらかい声がした。
振り向くと、柊がゆっくり歩いてくる。
「もう帰る?」
「うん……たぶん」
「たぶんってなに」
「なんとなく」
柊は小さく笑った。
「神代らしい」
二人は並んで歩き始める。
急ぐ様子はなく、同じくらいのゆっくりした歩幅。
話さなくても、特に気まずくはならない。
それがいつの間にか、当たり前になっていた。
昇降口を出ると、夕方の空気が少しだけひんやりしている。
神代は空を見上げた。
「今日、雲が低いね」
「うん」
「触れそう」
「触れないよ」
「残念」
のんびりしたやり取りに、柊はまた笑う。
校門を出たところで、歩道の縁石が少しだけ盛り上がっていた。
神代はそれに気づかず、そのまま足をかける。
「――あ」
体が前に傾いた瞬間。
柊の手が、自然に袖を掴んだ。
ぐい、と軽く引き戻される。
神代は体勢を立て直して、数秒遅れて状況を理解した。
「……危なかった」
「うん」
柊は手を離す。
表情はいつも通り、のんびりしている。
「神代、よく転びそうになるよね」
「考えごとしてるから」
「空のこと?」
「だいたいそう」
柊は少しだけ呆れたように笑う。
「もう少し下も見て歩いて」
「努力する」
「たぶんしないでしょ」
「……ばれてる」
二人はまた、同じペースで歩き出す。
さっきのことは、もう特別な話題でもないみたいに、自然に流れていく。
それが逆に、二人の距離をよく表していた。
少し歩いたところで、神代がぽつりと言う。
「柊さ」
「なに」
「よく気づくよね」
「なにに?」
「俺が危ないとき」
柊は少しだけ考えてから、ゆっくり答えた。
「神代、分かりやすいから」
「そう?」
「うん」
少しだけ視線を横に向ける。
「ずっと見てると、なんとなく分かる」
その言い方が、あまりに自然で、特別な意味を含んでいないからこそ、神代は少しだけ黙った。
やがて、小さく笑う。
「じゃあ安心だ」
「なにが」
「柊が隣にいるなら、転ばない」
柊は一瞬だけ目を丸くして、それからふっと笑った。
「それはどうかな」
「どうして」
「私がいないときもあるよ」
神代は少し考えてから言う。
「……そのときは、気をつける」
「今から気をつけて」
「はい」
また、ゆっくり歩く時間に戻る。
夕日が長い影を作って、二人の足元を並んで伸ばしている。
家の分かれ道に着いて、二人は少しだけ立ち止まった。
特に理由はない。
ただ、すぐに離れるのが少し惜しい。
「じゃあね、神代」
「うん。また明日」
柊が歩き出す。
その背中を見送りながら、神代は思う。
隣にいると、安心する。
特別なことを話さなくても、ただ一緒に帰るだけで、気持ちがゆっくりほどけていく。
まだ名前をつけるほどの感情じゃない。
でもきっと、この距離は、ただの“友達”より少しだけ近い。
――だいたい、同じ帰り道を歩くくらいには。




