◆103
同情という言葉。それさえあれば、相手がどんなに悪いことをしようとも許す気が出てくる情けである。イアン・アリスは常に人の気持ちを汲んだ上で言行に移してきたつもりだ。だが、もう誰に対しても情けは要らないと思っていた。
それもそうだ。楽園の女王はイアン・アリスの好きな人のことをデタラメに発言したのだから。しかも、よりによって存在なしにだ。
――冗談じゃない。あんなやつのことを好きになるなんて。
「存在なしが好きなんだろう?」
事実としては、半分は正解で、半分は不正解が正しいだろう。それでもこの事実を捻じ曲げたかった。
「ガンバっ!」
(※誰がっ!)
否定したい。その大きな思いを胸に、イアンは駆け出した。残すところ左目だけとなった全身真っ黒の鎧。人だという言葉に疑いをかけてしまうほどのおぞましさ。見よ、これが負の感情や欲望での思念が膨れ上がった「人間」とやらだ。人はここまで、強い思いだけで醜くなれる。人間の常識を超えた力を発揮できる。
真っ黒い剣を振り下ろそうとしたときだった。楽園の女王は逃げるように、この攻撃を避けた。頑丈そうな床に金属音が響く。その高音は部屋中に反響していた。この音が耳障りだと思いつつも、じろり、と彼女が逃げた方を睨みつける。誰が絶対に逃すものか、とでもイアン・アリスの左目――薄い青色の目が訴えていた。
こだまする音が空間に掻き消される頃にじっと睨みを利かせていたイアン・アリスはゆっくりと剣を構え直す。その一方で楽園の女王は彼の攻撃が当たらないように、不安そうに白い刀を構えているのだった。真っ向勝負で彼に勝てそうにない。彼女はそのことを重々承知していた。それだからこそ、いくら卑怯だと罵られても構わない。その考えに則り、楽園の女王は仕向けられている黒い刃に向けて白い刃を伸ばすのだった。
これがただの刀だと思ったら大間違い。いつでも『イアン・アリス』がこちらへと攻撃を仕掛けてきたときに、旧時代の技術を用いて技術者に作らせた一品がある。それがこの白い刀だ。
刃先同士がぶつかり合った瞬間、二人の距離から真ん中あたりで強烈な閃光が炸裂した。あまりにも眩し過ぎるその光は――。
イアン・アリスはどうなのかは定かではないが、僅かに見える彼の左目を手で覆っているようだ。それは楽園の女王も同様。
何があったのか。とにかく、楽園の女王を殺さないといけないのに。その思いがあるイアン・アリスは未だチカチカする目に鞭を打つようにして、周りを見た。
どこか見覚えのある景色。左右上下前後は真っ白。そこを青色の光のラインが走っている。ああ、ここは知っている。何度も、何度も、何度も――誰かのためという建前で、自分のことのために来ていたコンピュータの世界だ。
「ター……」
(※いや……)
しかし、コンピュータの世界に来たからと言って、喜ぼうとはしなかった。もうガンに用はないのだから。彼に会いに行く必要性はないのだから。自分が目を向けるのは少し離れた場所で薄ら笑いをしている楽園の女王だ。こちらには武器の利があると言わんばかりに、銃器の形をした橙色の武器を二丁所持していた。そして、彼女は銃口をこちらへと向けた。
「その姿だから驚いているかはわからないが、予想外だろう?」
予想外というのはこの世界のことだろうか。別になんとも思わないのか。イアン・アリスは自身の情報データプログラムに組み込んだシージュを取り出して、攻撃を加える。何事にも動じないという表現が正しいだろうか。その代わり、楽園の女王はこの反応の方が予想外だったのか、慌ててやってくる攻撃を避けなければならなかった。
訳のわからない世界に来たはずなのに。イアン・アリスが武器関連のデータを持っていることに驚愕せざるを得ない。彼の頭の中はてっきり、ただの脳情報データだけだと思っていたのに。
楽園の女王ですらも見たことのない武器の扱い。相当手練れ。彼女は距離を取って橙色の銃器の引き金を引こうにも、相手がそれをさせまいとして次々と刃のサークルをチェーンソーの刃のように高速で回してくるものだから溜まったものじゃない。
お互いに慣れない世界での戦いだと思い込んでいたのが節目だった。
「な、ん……だとっ!」
本気で冗談じゃない。引き金を引く暇も、何かしらの攻撃を与える暇がないなんて。
楽園の女王は苦痛に満ちた顔をしている。一方で余裕の表情のイアン・アリス。いや、無表情が正しい。いいや、彼の場合は表情がわからないという言葉が一番相応しいと断言できる。なぜならば、この世界においても彼の全身は真っ黒な鎧を身にまとっているのだから。唯一の素というのは薄くて青色をした左目だけ。
この目――レーラの記憶にもある目だ。彼女が抱く思いは「不気味」、「恐怖」、「狂気」だけ。優しい眼差し、意思ある目というような感想は一切ない。そして、何よりレーラはイアン・アリスのことを常日頃嫌いだという感情があった。いや、その言い方には語弊がある。好きという言葉も嫌いという言葉もない存在だ。
レーラは他人の死が視えている。その記憶すらも持ち合わせているが、イアン・アリスだけない。これも楽園の女王にとって厄介なことだった。
死相が視えないというのは、この世界において自分は排除される側という可能性が高くなっているということ。こちらの思惑をすべて掻き消されてしまうということ。
――そんなの嫌だ。
その思いが積もりに積もって、力が上昇していく。一方的な防御態勢だったのに対して、反撃も見受けられた。
先ほども言ったが、卑怯と言われてでもいい。何を言われても、己の勝利を確信するまではどんな手を使うつもり。楽園の女王は急にコンピュータ世界を解いて、僅かな反応を見せるイアン・アリスを狙った。
そうだ。たった少し、コンマ一以下の時間だけでもよかった。それだけの時間さえあれば――。
――あ。
小さな反応のせいで動きに遅れが見えたイアン・アリス。彼が頭の中で思うことは何もない。あの子が好きだからとか、あの子が嫌いだからとかという考えもない。まるで楽園の女王が手にしている刀のように真っ白い。コンピュータ世界でガンと共に自分の改変された記憶のデータを見たときよりも真っ新なほど白に埋め尽くされた。
何が起きたのかという把握直後にその頭の白さは赤色へと変貌していく。血が服の上からにじみだしているようにも見えた。赤が白を押し退けてまで自分の頭の中に鎮座したいとでも言っているようだった。そうして、今度は更に赤が赤に染まろうとし出す。元々が赤だというのに、これ以上の赤さを表に出すほど。頭以上に目の前も真っ赤になる。あまりの赤い情景に吐き気を覚える。
この状況をたとえるならば、究極の赤。
イアン・アリスの把握直後からどれだけの時間が経っただろうか。十秒にも満たない時間でその究極の赤は広がっていく。もうどうしようもない。どうすることもできない。彼はいつだって後悔する存在だ。すべては自分の身に降りかかる災難。いくら逃げようが、それはつきまとわってくる。
「……イアン……?」
少女の声が聞こえる。あの子でもなければ、楽園の女王でもない。この声、聞き覚えがある。
――きみは誰だっけ?
声が聞こえた少女すらも赤色に染まる。視界の端に映り込んだ、その子からもらったお守りだって赤い。目を瞑ろうにも、赤は退場しようとしない。そこまでして、でしゃばりたいか。そこまでして、その存在を見せつけたいか。
――目障りだ!
赤色が嫌になるほど、目に入れたくないほどまでにイアンは右手に持つ真っ黒の剣を振り払った。
肉が削がれる音と感覚が右手より全身に伝わってくる。耳の後ろに鳥肌が立つほど――。
――あいつに逢えないなら、お前たちを殺すまで。
口元が見えない鎧だというのに、笑っているように見えた。
――こいつらを殺せば、あいつに逢える。
まさに極論である。




