弐拾捌――愛しい貴方は彼方の先で
「リョウナ……!!」
霞む視界の先に洋が見えた。
両足は震えて立っていられるのも奇跡だと言えるほどに、崩れかけの体をなんとか片腕で支えながら壁に手をついて前へ進む。
洋が私を心配してわざわざ外で迎えてくれた事に喜びを覚えながらも、洋に心配させた上に哉江を連れて帰れなかった事が自己嫌悪を加速させた。あれだけ誓っておきながら、私は失敗したのだ。
「おい……なんで通信を拒否したんだ。心配したんだぞ」
「私、失敗したの。哉江、ちゃんを……助けられなかった……」
「……分かった。もういい。俺達の事で、もうお前が苦しむ事はない」
私に、何かを言い返す資格などない。
私は失敗した。
幸せにする。その約束を果たせなかった。たった一人程度救えた程度のあまりにも矮小すぎる勇者が、二人の人間を幸せにするなど、あまりにもおこがましかった。
でも、
「苦しんでなんかない!! 私が苦しいのは、洋達が苦しんでるから……洋や哉江ちゃんを助ける事が、今の私の幸せなの!! だから、少し休んだら、また探しに行くから……」
ああ、諦めてはいけない。
諦めは、諦観は、決して何も生み出しはしない。たとえこの身が朽ちようとも、私は二人を幸せにしなければならない。その為ならば、私の全てを差し出そう。それくらいに、私の意思は固かった。
「その手はなんだ」
包帯で隠していたつもりだった。だが、ほんの少しだけ、腕の黒化した部分が出てしまっていた。
咎めるような洋の声。
「……ッ、敵の攻撃で、怪我しただけよ。軋轢魔法の治癒能力があればすぐに治るわ」
そんな風に嘯きながら洋の横を横切ろうとする私の腕を、強く掴んだ。
「ちょっと、何すんのよ……!?」
乱暴に腕を掴み、包帯を解きほどいていく。既に薄くなりつつあったが、まだ指の先から一の腕、肘にかけて真っ黒に染まっていた。
それを見た洋の顔が、酷く絶望に染まっていた。
「相互理解……」
「え?」
「メルシィが、言っていただろう。互いに、理解し合う事が大切だと。今まで、俺はお前に、一度きり、それ以降は決して悪意を抱かなかった。メルシィも、お前自身もそうだろう。その理由が、解るか……?」
「どう、いう事?」
「軋轢魔法は他人の憎悪を糧にその力を発現させる。まるで生きているようにな、だが、周りに同じ軋轢魔法しかいない時に悪意を感じた場合、ソレは暴走する。相互理解を得られなくなった軋轢魔法は、ドス黒い憎悪の塊を生み出し、所有者の体を蝕んでいく。お前の腕が……ソレだ」
それだけは、決してダメだと思っていたのに、神様はどうしてこうも意地悪なのか。
洋は、それを阻止する為だけに全てを捨てた。愛する者を護る為に、護るべき愛する者さえ見捨てて、逃げ出した。ただそれだけの為に。なのに、今ここでそれが全て無駄だったと示してしまった。他でもない私が、その原因となった。
「哉江も、軋轢魔法なんだな……?」
「ちが……これは、別の軋轢魔法と……!」
「もうこの街に軋轢魔法は俺達以外残っていない!! 洗礼教会が隠していたとなると、お前と直接戦って、あの場お前を除いてたった一人いた哉江以外あり得ないんだ!!」
「洋……」
「なんで……哉江が……俺は……」
涙も枯れて、ただ、虚ろな目で、洋はその場に突っ伏した。堅い地面を殴りつける。血が、砕けた石に滲み出る。それが涙の代わりだった。
私に、今の洋に言葉をかける資格はない。
だがそれがなんだ!! 資格がないから何もしないのなら、それは死んでいるのと同じだ!!
「アンタが、洋が逃げたのはなんの為? 哉江ちゃんを護る為でしょ!? 決して逃げる為じゃない、だったら助け出しなさいよ!! そこでずっと喚いてるくらいなら、救えなかった純潔を嘆く事と、アンタが大好きな妹を助ける事と、どちらが今やるべき事か考えたら分かるでしょッ!!」
全部吐き出した。
この言葉に、微塵の悪意も存在しない。
ただ純粋な、心の奥底から湧き出る怒りと、期待と、希望。
「たとえ、アンタがそこでずっと喚いていても、私は助けにいくから」
「待てよ……誰が何もしないなんて言った。自分の手の強度を確かめてただけだ。ああ、当たり前だ。俺は哉江の兄だ。だったら、助けに行くのは当然だろうが」
その顔にもう迷いはない。あるのはただ、満ち溢れる希望のみ。
相互理解を得られない軋轢魔法に起こるソレは、一度発動すると元に戻るのに時間がかかる。特に、その間は能力の発動が暴走して凶暴になっている。止める為には、あの時の洋のようにその相手に対してどんな事があっても、負の感情を抱いてはならないらしい。
容易な事ではない。事実、私は哉江に対して憎しみを向けてしまった。
そう、洋にはもう迷いはないだろう。だが私にはまだ、それがあった。
きっと、私は洋が好きなのだ。その半分はきっと、吊り橋効果によるものだろう。洋を助けたい、そう思いながら洋の為に力を使い、あるいはその反動で私は洋を好きになってしまたのかもしれない。それとも、洋のこのナイーブなところを、守りたい、愛おしいと感じたのか。
そんな、初めての思い人を盗られる事を、私は恐れてしまった。
私だって女の子だ。好きな男の子がいるのなら、一緒にいたいと思うのは自然な事だ。だが、恋のライバルとも言える相手は妹。どう頑張っても勝てる相手ではない。だから私は焦ったのだろう。
大切な人間を、結果的に奪われる気持ちはどんなものだろうか。
そんな暇はなかったとは言え、私はそれを考えた事はなかった。
だが実際、私はメルシィから背人を、言い換えれば奪った事になるだろう。メルシィは決して背人を嫌いだった訳ではない。今だってメルシィと背人は仲良く話せている。だが、心は私に向いている。
もし逆だったら、私の妹が、私以外の誰かを好きになったら。
思えばそれが、全ての始まりだったのかもしれない。
触れ合っていたいと思う人間が離れてしまうのは、何よりも恐ろしい事だ。孤独は死と同義だ。人は一人では生きていけない。生きていると感じる何かを、温かさを求める。心の豊かさを。それが人間という生き物だ。
それが壊される事への恐怖。
私はそれを、自分の中から消さなくてはならない。そうでなければ洋を、哉江を助ける事はできない。
たとえ人間でなくなったとしても、私は、この力で誰かを助けられるのなら――
「ねえ、洋……」
「どうした?」
「いや、やっぱり後でいい。全部落ち着いた後に言うわ」
「そうか。分かった」
素っ気ない洋、背が高くて、心強くて、悪戯好きで、ちょっとエロいところはあるけど、とても心優しいこの男が、私は好きだった。
「まあ、まずは傷を癒すところからだな。俺は男だから魔導アーマーの補助は得られない。お前がいないと魔術師とまともにやりあえないからな」
「分かったわ。今は大人しく休みますか」
そう言って、屋敷の中に戻ろうとした時だった。
洋の携帯が鳴った。
「おっちゃんからだ……もしもし?」
今、私だけでなくメルシィも前線に出て魔術師達と戦っている。恐らく、それに関する事だろう。
メルシィさんの事だから、きっと制圧が完了したとの報告に間違いない。
「ああ……、な……おい、待てよ――!!」
「どうしたの!?」
希望はあくまでも希ものでしかない。
絶望は、望まなくともやってくる。
「メルシィが……死んだ」
軋轢抉廻
軋轢魔法同士の間に生まれた非相互理解的感情が『軋轢魔法』によって魔力化される事で、本来の発動とは別の、より強力な破壊を齎す事ができる状態、またはその現象を指す。
『感情』という物質ではないものが、魔力化される事で物質として顕現してしまう。しかもその量は凄まじく、おう吐によって吐き出されたり、皮膚から外へ排出しようとして黒化したりする。




