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11話 同居

「す、すまない。そんな、そんなところで寝させてしまって」

 睡魔に引きずられたものの、ベッドがひとつあるだけの、カーペットも椅子もない部屋だ。壁にもたれて、体育座りのまま眠っていたらしく、慌てるユリスの声で目が覚めた。

「ああ……、いや、別に大丈夫」

 そう答えてはみたが、無理な姿勢で寝たせいか体が固まっている。腕を大きく伸ばしながら、辺りを見渡した。

 ユリスは脱がせたはずのローブをまた身に着けている。仕事着だと言っていたが、それを着ていないと落ち着かないのかもしれない。部屋には時計がないが、窓の外はわずかに薄暗く、夕方に近いようだった。

 ふらつきながら立ち上がる道春に、ユリスが手をかざした。その瞬間、ふっと体が軽くなる。

「……今のなに?」

 試しに腕をぐるぐると回してみる。痛みもだるさも消えていた。

「調整魔法だ。筋肉をほぐして、血の巡りをよくしてみた。違和感はないか?」

「えっ、めちゃくちゃ楽になったけど。ありがとう。魔法って、こんなことまでできるんだ」

 感心する道春の様子を見ながら、ユリスが控え目に頷く。少し照れているようにも見える。

「俺もたまに意識を失うと、床に横になっていることがあるからな。そういうときの体の状態は最悪で……、体が重いと研究の妨げになる。聖女の回復魔法を参考にして、自分でも似たような魔法を使えないか研究した」

「……へえ、すごい……」

 いや、すごいけど。

(――努力の方向がおかしくないか?)

 調整魔法は正直ありがたかった。体の不快感はすっかり消えているし、調子もいい。もし道春が自分でこれを使えていたら、毎日でも利用していただろう。しかし。

(元気薬とか調整魔法とか使って、力技でなんとかするより、普通にベッドで眠ればいいんじゃ……)

 魔法のない世界で暮らしていた道春から見ると、ユリスのやり方はどうにも不健全に思えてしまう。

 眠ったとはいえ、せいぜい数時間くらいのはずだ。それでもユリスの顔色はだいぶマシになっている。目の下のクマも、心なしか朝よりも薄くなっているような。

 ということは、やっぱり睡眠自体は魔法で補えないのでは?

 でも、ここではそれが当たり前なのかもしれないし……。

(うーん。……ま、いっか)

 深入りするな、と自分に言い聞かせる。

 ここは日本じゃない。魔法のある国、別の世界だ。自分の常識で物事を測っても仕方がない。実際、楽になったのは事実だし、素直に感謝すればいい。ユリスだって、自分の体のことくらい、自分で分かっているだろう。

 そう思いなおしたところで、先ほどのユリスの言葉を思い出す。

「調整魔法と回復魔法って違うの?」

 ただの素朴な疑問のつもりだった。だが、ユリスはいつになく強い口調で否定した。

「全く違う。回復魔法と浄化魔法は、聖女だけが使える特別な魔法だ。俺の魔法は体調を整えることはできるが、怪我の治療はできない。もちろん、聖女とて死者を蘇らせることはできないが……。そもそも聖女は異世界の人だから、流れている魔力の種類が我々と違うんだと思う。魔力そのものは、歴代聖女の中でも特に強いらしいが、逆にこの国の基本的な魔法すら使えないと聞く。ミチハルには魔力自体を感じないから、同じ異世界の生まれでも、回復魔法や浄化魔法を使えるのは聖女だけが持つ固有の能力なのだろう。……せめて、浄化魔法の仕組みだけでも分かれば、聖女の負担を減らせると思うのだが、あれは神殿に祀られている石の力が必要で……」

 堰を切ったように早口で語り出したユリスの話は、正直、ほとんど頭に入ってこなかった。

 なんとなく、夏紀の魔力が特別だということだけは分かる。まだまだ続きそうな雰囲気を察し、「なるほど、分かった!」と強引に話を遮った。

「すごく分かったから、部屋を案内してほしい!」

 そう希望すると、ユリスはとくに気分を害した様子もなく「そうだな。ついてきてくれ」とあっさり話を切り上げた。

 やはりユリスは心が広い。生活習慣が終わっていようと、このおおらかさがありがたい。

 そう思いながら、道春は歩き出すユリスの背中を追った。



 ユリスの家は二階建ての一軒家だった。狭い階段を下りながら、「一階なら好きに使って構わない」と言われたときは、なに言ってんだこいつ、と思っていた。だが、一階に降りてみて、その意味が分かる。

 階段を下りた先は小さなホールになっていて、正面に玄関、そこからまっすぐ廊下が伸びているのだが、全体的に生活感がない。まるで、誰も住んでいないようだ。

「ここと、隣も空いている」

 ユリスが無造作に指さしたのは廊下の右手。扉が二つ並んでおり、中はどちらもガランとしていて、家具一つ置かれていなかった。

「こっちの方が広いから、ここを使ってもいい。中で繋がっている」

 次に案内されたのは、廊下の左手にある、広い部屋。中央にある暖炉を挟んで、奥がダイニングキッチン、手前がリビングスペースらしい。扉はそれぞれについている。

 奥には簡素な流し台と大きな窓、横には庭に続く扉もあった。家具は一切なく、備え付けの棚にパンの入ったカゴがひとつ、ぽつんと置かれているだけだ。

「……ごはんとか、どこで食べてるの?」

「研究室で食べることが多い」

「普段、なに食べてるの?」

「パンを食べている」

「……ほかには?」

「は?」

 道春の問いに、ユリスは心底不思議そうに、「ほかに?」と首を傾げる。

「……パン……のほかは……、空腹薬(くうふくやく)とか、栄養薬(えいようやく)とか……」

 それは食事じゃないだろう、というツッコミをすんでのところで飲み込む。いや、言ってやった方が本人のためには良かったかもしれない。でも、人の食生活についてあれこれ言ってもしょうがないし、この世界ではこれが常識なのかもしれないし――

「……ちなみに、ちなみになんだけど、どんな薬か聞いていい?」

「空腹薬は空腹を紛らわす薬。栄養薬は栄養を補う薬」

「……それも、ユリスが自分で作ってたりする?」

 当然のように頷くユリスに脱力してしまう。

「……まあいい。今はとりあえず、部屋を案内してもらうのが先だ」

 一階の放置具合とユリスの生活習慣に呆れながら、窓からの景色に視線を移すと、荒れ放題の庭が目に入った。広そうな庭なのに手入れをしている様子は伺えず、もったいないことになっている気がする。だが、ここはユリスの家なので、自分があれこれと考えたところで余計なお世話だろう。ユリスの研究の邪魔をすることなく、ここで住まわせてもらうことが大事なわけで……。

「最後に地下だ」

 道春の胸中も知らず、ユリスはさっさと部屋を出てしまう。

 玄関から続く廊下の奥に地下への階段があった。狭い階段を降りるとすぐに簡素な扉が三つ、左右に分かれて並んでいる。ひとつは小さな洗面所と便器が置かれた部屋、もうひとつはシャワー室。最後は物置。

(よかった……。意外と綺麗なトイレだ)

 昨日の夜、大神殿近くの屋敷に泊まらせてもらったときも、ちゃんと水洗のトイレがあることを確認はしている。どういう仕組みなのかは分からないが、庶民の家でもトイレ環境が整っているのはありがたい。

 シャワー室の手前には、洗面台と棚がひとつあるだけの脱衣所を兼ねた小さな空間がある。バスタブのようなものはなく、湯船に浸かることができないのは残念に思ったが贅沢は言えないとすぐに諦めた。

 道春は、ふたつの空き部屋から、奥にある部屋を使わせてもらうことにした。どちらも何も置いてないため、判断材料になるほどの違いはなかったが、トイレやシャワー室が近い方が便利かもと思ったからだ。

「必要なものはないか」

「必要なもの……」

 自分の部屋となった空間を見回し、ユリスに視線を戻す。ユリスは気まずそうに眉を下げた。

「たくさんあるけど」

「……そうだな」

 道春の答えに、分かりやすくユリスが肩を落とす。

「やはり、俺では荷が重かったのかもしれない。断った方がよかったのかも……」

 そんなことをぼやき始めたユリスに、道春のほうが焦った。

「え、なんだよ。今更イヤだとか言うなよ。必要なものはこれから揃えていくよ。金なら姉ちゃんが出してくれるんだから」

「嫌じゃないし、金の心配もしてない。ただ、俺はこの部屋に、なにが必要なのかがよく分からなくて……。なにもないことは分かるんだが、なにを足せばいいのか……。とりあえず寝床があればいいのか」

 そう言って、ユリスは頭をガシガシと搔きむしった。本気で困っているらしい。

 ベッドしか置いていなかったユリスの寝室が頭に浮かぶ。究極のミニマリストのように、余計なものをあえて置かない部屋にしているのだろうと思っていたが、単になにが必要か分からなかっただけなのかもしれない。

「まあ、寝る場所さえあれば問題ないよな! ほかに何が必要かはそのうち考えてけばいいし。少しずつ揃えていくのって楽しいと思うし」

 わざと明るく言って、ユリスの肩を叩く。そうすると、自然と自分の気持ちも前向きになった。

 道春の発言は、落ち込んでいるユリスがこれ以上気にしなくていいようにと、適当に口にしたものだ。けれど、確かに部屋を自分好みにしていくのはおもしろいかもしれない、と自然に思えてきた。ルナネリスにどんな家具や雑貨があるかは分からない。でも資金の心配はしなくていいのだ。こんな贅沢な話があるか。

 道春が部屋を眺めて想像する横顔を見つめながら、ユリスは「楽しい……?」と不思議そうに呟いた。


 一通り部屋を案内してもらったあと、改めて計画を立てるべく、二人で研究室に戻った。他の部屋には家具がなにもないため、話し合いには向かない。とはいえ研究室も、大きな作業机はあるが椅子は一脚しかない。

「椅子って、マジでこれだけなの?」

「そうだな……」

 ユリスは口元に手を当て少し考え込んだあと、何かを閃いたように呪文を唱え出した。すると、同じ椅子がもう一脚、あっという間に出来上がる。

「はあ!? すごすぎる、なにこれ、何の魔法?」

 興奮する道春に、ユリスは俯きながら「俺は複製魔法と呼んでいる」と答えた。

「ただ、これはまだ研究段階の魔法で、この椅子も耐久性がない。時間が経てば壊れると思うが、まあ短時間なら大丈夫だ。念のため、そっちの椅子は俺が使おう」

 壊れたら危ないからと、ユリスはためらわず複製した椅子に腰を下ろした。やはり根が親切な男だ。

「今度ちゃんとしたやつ買いにいこうよ。せめて、椅子はあと一脚欲しい。最低限」

 ありがたく丈夫な方の椅子を使わせてもらいながら提案する。

「ああ。ほかにも、必要なものは遠慮せずに言ってくれ。俺は本当に分からないから」

 一気にあれもこれもと欲しがるのは図々しいかもしれない。そう思ったけれど、「本当に」の部分に力をこめるユリスを見て、素直に頷いた。どういうわけか、道春よりもユリスの方が心配そうだ。

 作業机の上は本や書類でごちゃごちゃしている。部屋の隅に、比較的ものが少ないスペースを見つけてそこで向かい合う。

 ひょろりとした体つきに、前髪の奥に隠れた瞳。ぼさぼさの髪をした年下の男。

 そんなユリスの姿を見ていると、だんだんと実感が湧いてきた。自分が異世界にやってきたこと、そしてユリスを面倒ごとに巻き込んでしまったことへの、罪悪感のようなものが。

「なんか、悪かったな」

 言ってから、唐突すぎたかも、と少し後悔する。もう少し、言葉を選べるようになりたい。急にしおらしくなった道春に、ユリスは戸惑ったようで「どうして謝る」と首を傾げた。

「いやあ。俺がわがまま言ったせいで、面倒な思いさせちゃってるなあ、って実感が湧いて……。ごめんね? もう遅いけど。今さら嫌だって言うなって言ったけど……、本当に無理だと思ったら、ちゃんと教えろよ」

「俺は面倒に思ってないし、嫌でもない。ミチハルの方こそ、ここには住めないと思ったら……言ってほしい」

 最後のほうはほとんど聞き取れなくなるほど小さな声で言って、ユリスが眉を下げるから、思わず笑ってしまった。懐かれているかもと思ったのは、あながち間違いでもなかったのかもしれない。

「……あ、そうだ。そういえば、ユリスって王子に呼び出されてたよな。注意事項だっけ? あれなに? 俺も気を付けたほうがいいやつ?」

 少し重くなった空気を払うように、少しトーンを上げた声で切り出す。この世界で暮らす以上、知っておくべきことはあるはずだ。

「ミチハルが気にする必要はない。俺が誤って秘密を漏らさぬように、誓約魔法をかけ直されただけだ」

「誓約魔法ってなに?」

 また魔法だ。次々と現れる新しい魔法に、いい加減慣れてきたと思ったのだが。

「前にも言ったが、俺はもともと王宮魔導士だったんだ。そこから独立するときに、機密事項を漏らさぬようにと誓約魔法がかけられている。今回は、聖女の弟であるミチハルを預かるわけだから、より厳重なものがかけられた」

「……それってどんなの? 健康に影響はないわけ?」

「別にない。言ってはいけないことを口にしたら喉が痛くなるだけだ」

「あるじゃん!」

 驚いて思わず声が裏返る。

「ど、どれくらい痛いの? めちゃくちゃ痛いの?」

「情報漏洩を防ぐための魔法なので、わりと痛い。だが、すぐに口を閉じれば問題ない」

 とってつけたように「問題ない」と言われても、全く安心できない。痛みがある時点で大問題だ。

 体罰なんて日本じゃとっくに禁止されているのに。途端にこの国の常識が不安になってくる。

 道春の顔が強ばっているのに気付いてか、ユリスが補足するように言った。

「俺は、なにをどこまで話していいのか、あまりよく分からない。だから、そうやって身体で教えてもらえる方が楽だ」

「そういうものかな……。でもさ、痛みって必要? ちょっと熱くなるくらいじゃダメなの?」

 あまり言っても無駄だとは思うが、正直ドン引きしてしまう。

「それくらいだと簡単に秘密を漏らせる。だから、ある程度の痛みは必要なんだ。段階もあるし、秘密の重要性によっても痛みが変わるし、それほど非人道的というわけでは――」

「わかった、わかったよ」

 こちらの世界にはこちらの世界なりの決まりがあるのだろう。魔法のない国で暮らす道春が口出しするようなことでもない。

 それでも、なんとなく引っかかって、ため息が出た。

「でも、なんか悪いな。俺がいなきゃ、そんな魔法かけなおす必要なかったのに」

「そんなことはない。嫌だったら嫌だと言った。俺の判断だ」

 そう言われても、不安は拭えなかった。

 ユリスが痛い思いをするのは、やはり嫌だ。あまり深く立ち入った質問はしないほうがいいのかもしれない。

「誓約魔法って、どこからがアウトか自分で分かるの?」

「さあ? 喉が痛くなったとき、これはダメだったかと分かる」

「適当過ぎる……」

 自分の体に痛みがあるような魔法なのだから、もっと真剣に内容を把握しておいてほしい。

「もし、俺との会話で喉に少しでも違和感があったら、無理に答えなくていいから。手を上げるとか、合図だけでもいい。俺はユリスが痛い思いをするのは嫌なんだ。分かるか?」

「分かった」

「よし。じゃあ今まで俺と会話してきて、痛かったことはある?」

「ない」

 即答するユリスを、探るようにじっと見つめる。

「本当にない」

 疑われたと思ったのか、ユリスが繰り返した。

「……ユリスって、ちゃんと痛みを感じるよな?」

「当たり前だ。むしろ体の変化には敏感な方だと思う。魔導士にはそういう体質の者が多い」

 嘘ではないのだろう。納得して頷く。日常的な会話であれば支障はないみたいだ。

 ふと、『転門の間』のことを思い出した。

 ユリスはあの部屋について「王族も使うことがある」「部屋の場所も機密事項だ」と言っていた。あれは本当に問題なかったのだろうか。

 もっとも、あの会話は誓約魔法をかけ直す前のものだ。今はルールが違っている可能性もある。とはいえ、思っているほど厳しい縛りではないのかもしれない。本当にダメなことだけ、喋れないようになっているのかも。

 それでも、質問の内容には注意すべきだ。

 道春が尋ねたことに、ユリスはためらいなく何でも答えてしまうのだから。

「誓約魔法のことは考え過ぎてもしょうがないか。とにかく、今は生活するうえでのルールを決めよう」

 気を取り直すことはなかなかできないが、全く会話をしないわけにもいかない。

 ひとまず魔法とは関係なさそうな、現実的なことを提案する。

「ルール?」

「うん。二人で暮らすための最低限のルール。……といっても、俺は住まわせてもらう立場だから、基本的にはユリスに合わせるよ。ユリスは、俺にこれは絶対やってほしくないってことある? 逆にしてほしいことでもいいけど」

 道春の言葉に、ユリスは少し困ったように眉を寄せた。腕を組み、考えて、考えて、

「…………ない」

 と、口を開いた。

「ないの!?」

 ようやく絞り出してそれなのか。心が広すぎる。

「たとえばさ、仕事の時間を教えてくれたら、その時間は話しかけないようにするし、触っちゃいけないものがあるなら、そこには近づかないようにするよ。そういうの、ないの?」

「……別に、いつ話しかけてもらってもかまわない。触ったらいけないものか……」

 ユリスはそう言いながら、部屋の中をぐるりと見回した。

「特にないが、ミチハルが怪我をするといけないから、防御魔法をかけておこう。ミチハルに渡した石で、ある程度の怪我は防げるとは思うが、万が一のために――」

「待て待て待て」

 立ち上がったユリスを、道春が慌てて止める。

「ほんとに、触っちゃダメなものってないの?」

「ここにはない。本当に危険なものは、別の場所に保管している」

 ユリスは本気で言っているらしい。それなら――。

 それならば、と、道春はずっと気になっていたことを口にする決心をした。

「……じゃあさ、ここ、俺が片付けてもいい? って聞いたら、どう? 駄目なら全然いいんだけど」

 指をくるりと回して、部屋全体を示す。

 ユリスは視線を動かし、確認するように部屋を見渡した。そして、きょとんとした顔で首を傾げる。

「……必要だろうか」

「はあ!? どこをどう見ても散らかってるだろうが!」

 まさかこいつにはこの惨状が見えていないのか。

「一応、定期的に家全体に清浄魔法はかけているんだが」

 そう言われてみれば、散らかっているが、埃っぽさはまるで感じなかった気がする。使っていない一階部分までもが、奇妙なほど清潔だった。どうやら、「清潔」と「綺麗」は違うものらしい。

 頭が痛くなって、こめかみを押さえる。

 深入りしてはいけない。ユリスにはユリスの生活がある。自分は夏紀が役目を終えるまで世話になるだけ。土足で踏み込んでいい領域ではないはずだ。ここは魔法のある異世界。道春の常識で物事を測っても仕方がない。いや。でも。

 元気薬に、空腹薬に、栄養薬。調整魔法や清浄魔法。家具のない一階部分。パンしかない台所――。

「…………ここを、俺が片付けるとするじゃん。その状態をユリスが覚えておいて、その通りに部屋を保つことはできる?」

「できる」

「できるのかよ! よし。それでいこう!」

 あっさりと頷くユリスに、道春は明るい声を上げた。

 やはり、ユリスはやり方を知らないのかもしれない。こだわりがないのなら、生活面ではこちらの常識に寄せてもらっても問題はなさそうだ。

「ユリス、いいか」

 踏み込み過ぎないように、と思っていた気持ちが薄れていく。

 このまま放っておくことが、どうしてもできない。

「お前の生活習慣は終わっている」

「……終わってる……」

 驚いたように繰り返すユリスに、道春は大きく頷く。

「そうだ。だけど、まだ遅くはない。たぶん、知らないだけだ。一度まともな生活ってものを覚えてみたらいい。いらないと思ったら、また戻せばいいんだから」

 おせっかい、という言葉が浮かぶ。

 道春はおせっかいな大人が苦手だった。他人の領域に土足で踏み込もうとする人間には嫌悪を覚えた。

 けれど今、自分がその「苦手な人間」に、近づいている。

「料理は俺が担当する。この家も、もう少し生活しやすくしたい。お前はもっとちゃんと食べて、寝るんだ。健康を取り戻せ」

「……はあ」

「嫌なら強制はしない。でも、こだわりがないなら、最初の方は俺に合わせてほしい」

「分かった」

 またも、あっさりとユリスは頷いた。迷いも反発もない。

 生活に口出しされているとうのに、不機嫌になるどころか、少し嬉しそうにさえ見える。さすがに気のせいだろうか。

「……いいのか?」

「ああ。ミチハルに任せる」

 本当にお前はそれでいいのか。不安になるほど素直だ。けれど、言質を取ったからには遠慮はしない。

 試しに、リビング用に、テーブルや椅子、ソファが欲しいと伝えると、それにも即座に頷いた。現物を見なければイメージも湧かないので、それはおいおい調整することにする。

 あれこれ話しているうちに、すっかり暗くなっていた。翌日の予定もあるので、早めに寝ようと提案する。夏紀が南の神殿に巡礼へ向かうのを見送らなければいけない。

 パンを食べて、足りない分は空腹薬と栄養薬で補う。確かに腹は満たされたが、全く満足はできなかった。できるだけ早く、まともな食材を手に入れたい。

 ベッドは、ユリスのものと同じ型を複製魔法で作ってもらった。自分が複製品を使うと主張するユリスを押し切って、さっさとベッドに潜り込む。諦めたように息を吐いたユリスは、呪文を唱えながら、しばらくベッドの周りをうろうろしていた。きっと何かしらの対策をしてくれているのだろう。夜中にベッドが壊れることにはならないはずだ。

 ユリスとの距離感は、正直まだつかみきれていない。明日になれば、また驚くことがあるかもしれない。

 それでも、そう悪いことにはならない気がしているのは、きっとユリスのおかげだ。

 異世界に来てまだ二日目の夜だというのに、道春は驚くほど穏やかに眠りについた。

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