12話 見送りと訪問者
湖のほとりには、澄んだ朝の空気が満ちていた。
ひんやりとした風が、朝日を受けた水面に映る、逆さまの大神殿の尖塔を揺らす。
少し離れた場所には、ユリスとカインが立っている。会話の邪魔をしないようにと、気を利かせてくれているらしい。
そんな爽やかな朝の光景の中、目を丸くして固まる道春に、夏紀は不機嫌そうに眉をしかめた。
「…………なに」
低い声音に不穏な気配を感じ取り、慌てて表情を戻す。
「いや、マジで姉ちゃんって聖女だったんだと思って」
道春の言い分を胡乱な目つきで聞いていた夏紀は、大きく息を吐き、諦めたように両手を広げた。そして、道春が驚いた「衣装」を見やすくしてくれる。
「これでも、儀式用に比べればずっと軽装なの」
薄手でなめらかな布地の白いローブは、角度によってほのかに青みを帯びる。裾は膝下くらいだが、下に重ねたシンプルなワンピースと相まって、どこか神聖な雰囲気があった。裾や袖には金糸で複雑な紋様が刺繍されている。首元でローブを留める小さな青紫の石には、淡い光が宿っていた。
「実用性もないし、ひどいもんでしょ。『聖女』の名を背負って歩くのに必要なんだって。ばっかみたい」
苦々しげに吐き捨てる夏紀をあまり刺激しないよう、道春は黙って姉の姿を見つめる。
(けっこう似合ってるけど……)
夏紀は嫌そうだが、道春の目には姉が言うほどひどくは見えない。それどころか、コスプレ感もなく、夏紀の日本的な顔立ちでも不思議と馴染んでいる。ただ、「似合ってる」と言ったところで姉が喜ばないことは分かっていたので、口には出さなかった。
(見た目って、大事なんだなあ)
現在の夏紀は、再会した日にはなかったオーラを感じ取れる。もしかしたら今が一番、夏紀が「聖女」であると実感しているかもしれない。
ユリスの家で異世界での暮らしをスタートさせた翌日、道春は南の神殿へと巡礼に行く夏紀を見送るため、大神殿を訪れていた。
「南の神殿ってどうやって行くの? 魔法?」
聖女姿の姉に少し緊張していることが知られぬよう、他愛ない質問を投げる。再会した直後の方が普通に話せていたのは夏紀も同じのようで、お互い少しぎこちない。
「まさか。神殿の馬車を使うの」
夏紀が笑って首を振った。
「魔法って、転移魔法のことでしょ? あれ、使える人少ないのよ。カインには無理」
夏紀の言葉に少し驚く。ユリスも転移魔法について「使える者は限られている」と言っていた気はするが、ユリス自身が当たり前のようにそれを使っているので、ある程度は交通手段として成り立っていると思っていた。
馬車なんて、おとぎ話の中でしか目にしないような乗り物だ。「馬がいるんだね」と聞く道春に、「馬も犬も猫もいるよ」と、夏紀が答えた。沈黙が嫌で、どうでもいいことばかり言ってしまう。
「カインさんと二人で行くの? 他に護衛の人はいないんだ?」
「護衛はカインだけだね」
道春は、夏紀の背後の少し離れた位置に立つカインを見て、また視線を戻す。護衛が少ないんじゃないかと不思議に思った道春の考えを読むように、夏紀は澄ました顔で肩を竦めた。
「最初はもっとたくさんいたんだけど、全員辞めさせたの。それで別に今まで危険を感じたことはないし。少人数のほうが移動も楽だしね。馬車には防衛魔法がかかってるから大丈夫」
「そうなんだ……? なんか意外。大丈夫ならいいけど。姉ちゃん、カインさんのことはけっこう信頼してるんだね」
カインの存在は相変わらず謎だ。だが、夏紀が心を許しているのなら、ある程度は道春も信頼していいのかも。そう思ったのだが、夏紀の反応は微妙だった。
「信頼……信頼ねえ……。一番マシだったから選んだ、っていうのを『信頼』っていうなら、まあそうなのかもね」
はっきりとは言及されないまま、どこかで鐘の音が静かに響いた。
カインが一歩前に出て立ち止まり、夏紀に視線を送る。時間のようだ。
「私はもう行くけど……心配だなあ。みっちゃん、なにか言われても、聖女の後ろ盾があると思って強気でいくのよ。カインは月に何度か王都に報告に戻るから、伝言があればそのとき伝えてね」
去り難そうにしながらも、夏紀が出発の気配を見せる。
道春は頷きかけて、ふと現状を思い出し顔をあげた。
「あ、最後に確認!」
夏紀が小さく眉を上げて振り向く。
「姉ちゃん、俺の生活に足りないものは、お金出してくれるって言ってたじゃん。あれって、どれくらいまでならセーフ?」
思いがけない質問に拍子抜けしたのか、夏紀は一瞬呆けたように目を見開き、すぐ、力が抜けたように笑った。その緩んだ表情に、道春もほっとする。
「遠慮することないよ。タダ働きが嫌だっただけで、お金にはそんなに手をつけてないの。無一文で来た弟の生活費くらい、いくらでも出してあげる」
「ほんと? ありがとう!」
無理な分は王家にたかろう、くらいに思っていたが、夏紀が全て出してくれるなら心強い。
「じゃあ行くね」
そう言って踵を返した夏紀が、ふいに足を止めた。ゆっくりと道春の方を振り返る。カインは無言で、その様子を見守っていた。
笑みを浮かべていた夏紀の顔に、翳りが差す。
「…………お母さん、元気?」
静かな問いだった。
きっと、ずっと気になっていたことなのだろう。道春は、今までその件に触れられなかったことを、少し悔やんだ。
「元気だよ。再婚した」
なんでもないことのように、できるだけ感情を込めずに答える。夏紀は目を伏せて「そう」と呟いた。
「ええっと……」
言うべきだろうか。今、自分は母と一緒に暮らしていないこと。代わりに面倒を見てくれていた祖父が亡くなったこと。
迷いながらもなにか喋ろうとするが、言葉が上手く出てこない。
そんな道春の様子に察するところがあったのか、夏紀はわずかに笑って、首を横に振った。
「元気ならいいの」
なんでもないように言うその姿に、胸が小さく痛んだ。
「あの、手紙、書くよ。そこに、いろいろ……ちゃんと書く」
咄嗟に出た言葉だったが、夏紀はぱっと顔を明るくさせた。「待ってるね」と言った顔が嬉しそうだったので、少し安心する。
「気を付けてね。いってらっしゃい」
口にしてすぐ、「いってらっしゃい」なんて久しぶりに言ったな、と思った。懐かしいような、照れくさいような気持ちが込み上げる。
夏紀も同じことを考えたのか、一瞬きょとんとしてから、ゆっくりと目を細めた。
「うん。いってくる。みっちゃんも気を付けて。ユリスと仲良くするんだよ」
手を振りながら、夏紀はカインと共に去っていった。
*
夏紀を見送った後、ぼんやり立っていると、隣にいつの間にかユリスが並んでいた。ユリスはそのまま、しばらくなにも言わなかったが、やがてぽつりと「聖女は一カ月で戻ってくる」と言った。
「カインは選び抜かれた騎士だから、聖女の身に危険はない。そもそもルナネリス王国で聖女を害そうなどという者はいない。……だから、その、心配しなくていいと思う」
どうやら道春を励ましてくれているらしい。
「別に心配してるわけじゃ……」
夏紀と再会したのは二日前。七年ぶりにようやく会えた姉が、また離れていく。まるで淡い夢を見ていたかのようだ。
でも「心配」とは、少し違う気がする。
今までは、生死すら分からなかった。それが行き先も帰ってくる時期もはっきりしているのだ。一カ月離れるくらい、どうってことはない。
ただ、夏紀には聖女としての役目があるけど、自分には本当に何もないんだなということを、なんとなく感じただけだ。
言葉にならない、もやのような気持ちが胸の奥に沈む。その静けさを破ったのは、背後から聞こえた呑気な声だった。
「おはようございます~」
驚いて振り返ると、そこには見たことのない男が立っていた。
ユリスと同じようにローブを羽織っているが、布の質感が明らかに違い、道春の目にも上等なものであることが分かる。袖口や裾にさりげなく紋様が織り込まれていた。
髪は少し赤みのある茶色で、瞳は茶と緑が混ざり合ったような、不思議で印象的な色をしている。道春より少し背が高いが、体格はそれほどよくない。けれど、肌の色つやはよく、ユリスよりも健康そうに見えた。年齢は道春と同じくらいだろうか。
どこか柔らかな雰囲気をまとい、微笑みを浮かべている。
「お、おはようございます?」
戸惑いながらも挨拶を返すと、男の目が猫のように細くなった。
「ロイエン?」
ユリスが、隣で訝し気な声を上げる。
「やっほー。ユリスも久しぶり~。ちょっと顔色戻った……わけでもないかあ」
片手を上げ、気さくな様子でこちらに近付いてくる。思わず一歩引いてしまった道春に気を悪くする様子もない。
「初めまして。あなたが聖女の弟君ですよね」
「いや、あの、……はい、そうです」
妙に親し気な男にどうすればいいか分からず、ちら、と横目でユリスに助けを求める。
「ロイエン・カレドン。俺が王宮にいた頃の同僚だ」
「どうも~」
「み、道春です」
同僚。思いがけない言葉に少し驚いた。でも、考えてみれば当然だ。働いていれば、同僚の一人や二人ぐらいいる。
一応名乗って、軽く頭を下げる。
「はい、ミチハル様ですよね。聞いてますよー。また殿下が聖女を怒らせたらしいですねえ。まさか家族をこちらに呼び寄せるとは、殿下も賭けに出るなあ」
巻き込まれた側としてはたまったものじゃないが、ロイエンの呑気な言い方と雰囲気に、毒気を抜かれてしまう。
「俺のことって、もう知られてるんですか?」
「少なくとも、王宮魔導士の耳には入ってますね。召喚の件、けっこう噂になってますよ。とはいえ細かい事情までは伏せられてますけど」
道春を召喚すること自体は極秘事項だったはずだ。だが、一度召喚してしまえば、そうもいかないのだろう。
それもそうか。正体の知れない人間が聖女のそばをうろついていたら、誰だって警戒するだろうし。
ロイエンが「それよりも」と言って、笑みを深めた。
「ミチハル様は、ユリスの家で暮らすことにしたんですよね。住み心地はどうですか? 広さは問題ないと思いますけど、ちょっと辺鄙な場所にありますよねー」
そこまで知っているのか、と驚いた道春だったが、――どうも質問の内容に違和感がある。
それを察したように、ユリスが横から口を開いた。
「あの家は、ロイエンに紹介してもらって買ったんだ」
「えっ、そうなの?」
「そうなんですー。僕の親戚に、ちょっと変わった魔導士がいましてね。人と関わりたくないと言って、あんな場所に家を建てたんですよ。亡くなったあと持て余していたんですが、ユリスが『研究に集中したい』と漏らしていたのを聞いて、紹介したってわけです」
辺鄙な場所と言われても、道春はまだ一度も、あの家の外に出たことがない。
確かに、窓の外からは手入れのされていない荒れた庭が見えるばかりで、近所に人が住んでいる様子はなかったが。
(あそこって、そんな変な場所に建ってたのか……)
道春が一人で暮らしていたときに使っていた、「困ったときは近所の人のところへ聞きに行く」という手法は、あの家では難しそうだ。
「ロイエン。なにか用があるんじゃないのか」
にこやかに微笑むロイエンとは対照的に、ユリスはいつも通りの無表情で、淡々と要件を尋ねた。
「あ、そうそう。僕が監視役になったので、ご挨拶しておこうかと」
「監視役!?」
さらりと言われたが聞き捨てならない。あからさまに眉を寄せた道春に、ロイエンは初めて困ったような顔を見せた。
「聖女の弟君がいるわけですからね。とはいっても、そんな堅苦しいものではないです。不便はないか、たまに確認しに伺うだけですよ」
――本当に信じていいのだろうか。
疑念が顔に出ていたのか、ロイエンがなだめるように両手を前に差し出した。
「そんなに警戒しないでください。殿下は別にミチハル様の自由を制限するつもりはないですよ。ただ、やはり王宮の外ではなかなか状況が把握できないので……。僕が指名されたのも、監視役が王家の人間や貴族になってしまうと、ミチハル様が話しにくくなるのではないかと配慮されてのことなんです」
「え、ロイエンさんも平民なの」
思わず、まじまじとロイエンを見てしまう。階級社会というものに馴染みがないため、貴族と平民の違いはいまいち分からない。ただ、「平民」と言われると無意識のうちに親しみを感じてしまったので、肩書の力というのは大きいような気がした。
「そうです。僕もユリスと同じく、魔力量を買われて引き取られたクチです。ただ、才能はユリスには全くかなわないんですが」
「才能?」
反射的に問い返した道春に、ロイエンが顔をパッと輝かせる。
「ユリスはすごいんですよ~! 天才です!」
前のめりになる男にちょっと引きながら、道春はこれまでのユリスのことを思い返した。
「へえ。なんか、いろんな魔法を使えて羨ましいなあとは思ってたんですけど……あれ、才能だったのか」
「あんなに魔法を生み出せる人間なんてそうそういません! 些細なことも魔法で解決しようとする、根っからの魔導士です。帰還魔法を完成させられるのは、今のルナネリスにはユリスしかいないと僕は思ってるんですよ」
思いがけない言葉に、バッとユリスを見上げる。
「そうなの?」
確認しても、ユリスはむっつりと口を結んでいる。答える気はないようだ。
未成年のユリスに帰還魔法なんて重大そうなもの押し付けやがって、と思っていたが、意外と実力あっての人選なのだろうか。
でも、そんなにすごい魔導士が簡単にフリーになれるのか? そんな逸材なら、無理をしてでも王宮に引き留めるものじゃないか。ユリス自身、魔導士としての階級は低かったと言っていたし。
ルナネリス王国は、まだまだ分からないことだらけだ。
けれど、ユリスが同僚から多大な信頼を寄せられていることは事実である。
「ユリスは魔法の才能はあるんですけど、それ差し引いても、引くほど世情には疎いので。もし知りたいことがあったら、なんでも僕に聞いてください。たとえば、そうですね……。――街のこととか」
「えっ、街!」
現金なもので、重要度の高かった課題への助けを感じ、目の前の男の好感度が一気に上がった。
相手も道春の変化を感じたのだろう。にこにこと「はい、街。僕は王都の平民街出身なので、けっこう詳しいですよ」と追い打ちをかける。
「か、家具やインテリアってどこで売ってますか?」
道春がロイエンと盛り上がる横で、ユリスは黙ったまま、どこか遠い目をして二人のやりとりを眺めていた。




