九
うちに帰ると、父さんにすぐ休むように言われ、何で外に出たのか問いつめられた。気分が悪かったから言い訳も思いつかないし、まだ外にいるはずのゆきの事も気がかりだったし、全部話してしまった。父さんは怒ったような顔をしていた。
「まったく親を心配させやがって」
小さな子供にするみたいな口調。まだ出前の件を引きずっていたわたしは、つい声を尖らせてしまう。
「心配してなんて頼んでない」
それにこんなのただの風邪だ。もちろん雪の降る寒空の下に出たのは間違いだったけど、大人しくしていれば治るようなものを大げさに言うなんて。
「馬鹿野郎め。お前まで兎衣みてぇに倒れたらどうすんでえ」
言いながら、父さんはわたしに背を向けた。父さんの中で、二年前の記憶は色あせていないのだろう――母さんが突然倒れたあの日の事が、頭から消えないのに違いない。わたしだって心臓が止まるかと思ったんだから。でも――
「……ただの、風邪だよ」
わたしの体は母さんほど病弱ではない。風邪を引くのだって久しぶりで、大きな病気も幼い頃以来した事はない。母さんは今は水渡にいるとはいえ、それなりに元気に暮らしているはずなのに。実は父さんは、心配性なのだろうか。長年一緒に暮らしてきて、今更そんな事を思った。
とにかくゆき探しの事を父さんに任せて、わたしは自分の部屋で横になった。
冬はいつも冷えてる手足の先があたたかさを通り越して、熱っぽい。だるくて、なかなか寝つけなかったから今日のことを思い出す。
ゆきは父さんが探してきてくれるって言うから、早く見つかることを願うばかり。ゆきは大丈夫だったかな。本当ならわたしが助けてあげなきゃいけなかったのに。
小さなため息が出た。
幼い頃の夢を見た。
小さなわたしが泣いてる。母さんはずっと前から病弱で、子供が一緒にいては安静に出来ないからと会えない事も多かった。この頃も母さんが体調を崩していて、だから一人で泣いていたんだ。
『ヘンな格好』
どんな着物を着ていたか、きかっけは何だったかわたしは覚えていない。ただ、うずくまった自分の膝を覆う、薄紅色だけは覚えていた。
友人と思っていた子たちからからかわれた、ただそれだけの事だったのかもしれない。自分には不釣り合いなものがあると知って、無意識のうちにそれを避けるようになった。成長期が来て女の子平均以上に背が伸びるにつれ、小さな女の子のような可愛らしさとはかけ離れていく事も知った。
諦めて、なかった事にすれば、忘れられる。あの小さな胸の痛みは、閉じ込めてしまって。
わたしは小さな自分に似た、困った顔をした人を放っておけなくなった。それで誰かに頼られるようになると、もっと自分に似合わないものが増えていった。
頼られるのは嫌いじゃない。誰かの心配が一つなくなるのだから、とってもいい事だ。それに――自分がもう何も出来ない泣いてる子供じゃないって実感出来るから。それを証明し続けるには、女の子らしさは不必要だった。
女の子らしい格好は苦手だし、店で働くには短い丈の着物の裾なんて翻していられない。それに、女の子たちはわたしを頼り甲斐のある人だから慕ってくれているのだ。
だから、わたしは今の自分で充分なはずだった。
――あなたはただの女の子なんだから
もしかして、わたしは自分の事が分かっていなかったのかもしれない。
自分を何も出来ない、無力で弱い人間だと思いたくなくて、それを女の子らしく振る舞う事と同一視していたのかもしれない。
でも周りを見れば分かる事だった。確かに女性は男性よりも腕力は弱くて体力もないかもしれない。でも、女の人っていうのは芯があってとても強い。
優柔不断ではっきりしないわたしなんかよりもずっともっと、自分を持っている。
――もし、そこのお二方? いささか声が大きいですわよ?
本当は、自分との違いを見せつけられているようで、勝手に距離を感じていただけなんだ。自分の諦めてきたものを身につけて、それを自分の一部にしている人をおそれていた。憧れてもいた。でも、苦手だとか、自分は元々動きやすい格好が好きだとか言い訳を作って逃げてきた事を自覚したくなかった。
だって、ただ自分は諦めただけ、逃げただけだと知るにはあまりにも情けなくて――一度も挑戦しなかったくせに、何を勝手に落ち込んでいるんだろうって、みじめな気分になりたくなかっただけ。
その上相手に負けを認める事になる。自尊心は高い方だと思ってなかったけど、無意識のうちでも自己防衛は働くものらしい。
ただわたしはきっと、自分が弱くて何も出来ない子供だと知るのがこわかっただけなんだ――
見慣れた天井が広がっている。室内はうっすら明るい。
そうだ、風邪を引いてずっと寝ていたんだ。長い夢を見ていたような気がする。目が覚めたら何の夢を見ていたか忘れてしまったけど。気のせい程度なら、居待ちゃんが出てきたような気がするけど、寝こむ前に会った相手だからっていう理由だけかもしれない。
寝汗をかいたようで、体がべとついてお風呂に行きたくなったけど、随分と頭はしっかりしてきた。まだ鼻がつまっていて、ちり紙を手元に置きたくなったけど、頭痛も胸の気持ち悪さもほとんどなくなっていた。
わたしは一体どれくらい眠っていたのだろう。ゆきは、どうしたのだろう。それに、わたしがいないと店は大変なはずだ。
よろよろと布団から這い出すと、目をこすりながら立ち上がる。見ると、枕元に盥と布巾が置いてあった。きっと頭の熱を冷ます用のものだろうけど、わたしは顔を拭くのに使って、べとつく体も少しだけぬぐった。
簡単に居住まいを直すと、羽織を着て部屋を出た。
二階には人の気配がなかったから、階段をおりる。日は出ているみたいだから、昼間のようだ。店は開いているのだろうかと、顔を覗かせると父さんと四郎さんと長さんの三人が、一つの机を囲んでいた。他にお客さんの姿はない。彼らはお酒を片手に友人同士として談笑しているらしかった。
最初にわたしに気づいたのは四郎さんだったけど、その視線に気づいた父さんが振り返って言った。
「おう、優月。具合はどうだ」
少しだけ頭に違和感がある事以外、不調はない。寝込んで大分よくなったようだ。
「……うん、いいよ」
気持ち的にも、すっきりしている。わたしは羽織の前をかき合せると父さんたちの近くに寄った。
父さんが何か食べるか聞いてきたのでわたしは頷いた。立ち上がって父さんは調理場に向かう。
「看板息子、心配したぞー。お前がいないと爽亭も開かないし、おれが飯にありつけねえんだからよ」
「店が開いてなくても来てるじゃねえか」
調理場の手前にいた父さんは長さんに呆れた声を出す。昔からの友人である彼らは本当に仲が良い。わたしはくすりと笑った。
「で、優月ちゃんよう。あの拾ってきた子とはどういうつながりだい」
「拾ってきたって四郎、犬猫じゃああるめえし」
四郎さんの言い方で、ゆきが無事見つかった事が分かった。今は近くにいるのか、家の中にいるのだろう。人の動く気配はなかったが、二階で大人しくしているのかもしれない。
「うーん……わたしもよく分からないんだけど、風邪なんか引いてたから迷惑かけちゃったな……ゆきは今、どうしてる?」
上で寝てるよ、と父さんの声が聞こえる。調理場では既に作業をする音もする。
「まあ、早く保護者が見つかるにこした事はねえだろうが、唯一事情を知ってる優月ちゃんが具合悪かったのは、誰のせいでもねえさ」
四郎さんも長さんも、自分たちに出来る事があればすると言ってくれた。どうやらゆきの身元探しを手伝ってくれるらしい。この二人とは父さんの友人という事もあって、わたしも昔からの馴染みだ。血のつながりはないけどわたしの叔父さんのような存在。その申し出を有り難く受け取る事にする。
三人で話すうちに、父さんが湯気の立つお粥を持ってきてくれた。葱の入った卵粥だ。父さんが机を示すまでもなく、わたしは席についてお粥をいただく。
わたしが寝込む前に言ってあった通り、父さんはゆきという女の子の行方を探してくれた。赤い目と白と緑の髪という特徴的な容姿をしているために、顔を見た事はなくても遠目ですぐに分かったそうだ。父さんは赤い目に抵抗を覚えたが、わたしの名前を出すと素直について来た少女の無防備な様子に、拍子抜けしたそうだ。うちに戻ってからのゆきは、わたしの事を心配してくれたのかずっと枕元にいたけれど、父さんが病人と同じ部屋にいたら互いによくない、と言い隣の部屋に――以前は母さんの部屋だった場所だ――移動してもらったそうだ。それで今も、ゆきはそこで眠っている。わたしがいない間も外で会いたい人を探すのかと思いきや、意外にもずっと家にいたようだ。
「変わった子だよな」
頬杖をついた長さんが言った。ここにいる三人はゆきに会ったらしく、あの子の世間知らずな様子や言葉少なな態度を見て知っているらしい。そう言われれば、ゆきは変わっている。
「でも悪い子じゃないんだ」
言うと、何故か大人の三人は小さく苦笑のようなものを浮かべていた。
お腹もいっぱいになったし、まだ昼過ぎのようなのでわたしはまた出かける事にした。ゆきの事をなんとかしてやらなければならない。病み上がりだからと父さんは苦い顔をしたが、四郎さんの時間制限をもうければという提案に渋々ながら頷いた。わたしは暮れ六つの鐘が鳴る前には戻るようにと約束させられた。
父さんたち三人も手伝ってくれる事になったが、何かあれば爽亭に戻ってくる事にして、留守番を父さんが引き受けた。あとは残りの四人で手分けして江戸の町を歩く事になった。
ゆきを呼びに行くと相変わらずあの赤い瞳の端を少し下げて、困ったような心配したような眼差しで見上げてきた。わたしが寝ている間ゆきが出ていかなかった事は、なついてくれているみたいに思えて、ちょっとうれしかった。
外に出ると確かに日が出ていて雪はやんでいた。地面の雪も人通りの多いところではひとところに集められ、乾いた地面があらわになっている場所も多かった。もう数日したら、江戸では雪が振り続けていた事など忘れ去られるのだろう。それはなんだか、少し悲しい事のように思えた。
同じ名前だからって訳ではないだろうが、ゆきの様子も元気がなさそうに見えた。当たり前かもしれない、自分の大切な人と何日も会えないままなのだから。早く彼女の事を安心させてやりたい。わたしは歩く足に力が入るのがわかった。
父さんたち三人にもゆきの家と思しき場所の手がかりを伝えてある。わたしはゆきと二人で、町に出た。手がかりは、大きな橋とお寺、それから山茶花のある場所。
以前は浅草寺を目指していたのだった。せっかくだから、今日も浅草寺を目指す道のりで進んでみようと思う。そう伝えるとゆきは力なく頷いた。やっぱり元気がなさそうだ。ゆきはとても白い肌をしているから、日差しに弱いのかもしれない。とはいえ冬の太陽はそんなに強い陽光を落としてはこないんだけど。
今更ながら、わたしはゆきに探している人物について尋ねた。彼女は相変わらず言葉が少ないけれど、なんとなく優しい人だというのは分かった。
歩くうちに視界に入ってきた空色の着物に、わたしははたと気がついた。稲穂と鍬、太陽をあしらった隊章が肩に刻まれる、江戸の自警団――狼士組がそこには居たのだ。彼らの目的は当然、江戸町内の治安を守る事。自分の職場である江戸の町にはきっと詳しいはず。わたしは彼らに駆け寄った。
一人は十代後半ぐらいの女性隊士で、橙色の髪がきれいだった。冷静そうで涼しげな眼差しをしていて、目尻の淡い橙のお化粧が彼女の美しさを引き立てていた。
もう一人は二十代ぐらいの青年隊士。紫がかった黒い髪は長く、首のあたりでひとつにくくり背に流している。生真面目そうで厳正さを求めていそうな眼差しに、なんだか背筋が伸びそうだった。
女性隊士の方がわたしの話に相槌を打ったり気になった事を尋ねてくれて、わたしは奇妙な人探しをしているとおおまかに説明をした。ゆきの身元や三つの手がかりが示す場所に心当たりがないか、彼らに聞いてみたのだ。
「橋と寺が近くにある場所なら思いつくはつくんやけど、それだけじゃなんとも言えへんなあ……。先輩は?」
眉を寄せた女性隊士は振り返って、ずっと黙したままだった男性隊士の返事を仰ぐ。彼の方には表情の変化がなく、少し考え込んだような様子だったがすぐに首を横に振った。
そりゃそうだよね、わたしでも手がかりが少なすぎると思いながら探しているんだから。
わたしの困ったような顔が相手の苦笑を誘ったらしい。女性隊士はゆきを一瞥したあと肩をすくめた。
「力になれへんで申し訳ないわ。でも自分、そんだけの手がかりだけでよう探す気になるなあ。よかったら、ウチも手伝おか?」
「そんな、悪いですよ」
意外な申し出にわたしは思わず手を振った。けれど女性隊士は金色の瞳をどこか面白そうに光らせて、口元を上げた。
「今は緊急の用事もないし……ってゆうか特に用事はないんよ。困ってる人助けるのもウチらの仕事やし、つきおうたげる」
先輩もええやろ? と男性隊士の方に彼女が尋ねると、あの生真面目そうな視線がじっとわたしを見つめる。わたしの嘘さえ見抜けそうなその紺碧の瞳にやっぱり背筋が伸びてしまった。嘘なんてついていないのになんとなくそわそわしながらいると、彼はまたこくりと一つ頷いた。
なんというか、無口な人なのだろう、きっと。
そうして気づくと、ゆきの身元探しのための人員が五人も増えて、再開されていた。




