六
年明けに、雪が降った。
江戸に雪が降るのは珍しくないが、豪雪地域ほどの量は積もらない。土色の地面を透かした雪がうっすらと重なって、数日後には消えるだけ。以前、雪国出身のお客さんに聞いたことがある。“雪国じゃない地域の雪は優しい”って。雪片も小さく、降る量も少ないから優しく思えるのだと。
それを聞いてわたしは母さんの言う“優しい月”のことを思い出した。“優しい雪”があるなら、優しい月もあるのかもしれない。
ただわたしは、優しくない雪の事を知らないから比べようがない。思うと、月の事もよく知らないんだろうなと感じられた。月を見上げたくなったけれど、曇続きの日々は降雪に変わり、わたしは空を見上げても月を拝めない事を思い知った。
威勢のいいくしゃみが聞こえた。今のは四郎さんのくしゃみだ。
慌ただしい年末をなんとかやり過ごし、年が明け、松の内が過ぎる頃には爽亭も落ち着いた。年末や年始だからととりわけ豪勢な料理を提供する訳ではないうちの店、それでも少しは行事に合わせた料理を提供するし、それなりに繁盛はした。それでなくとも節目の時にはやるべき事が増えるもの。とにかく周りも自分も忙しくする日々が終わりを迎え、やっとゆっくり出来ると思ったら、お客さんが来なくなるようなとどめの天気――雪が来た。
雪は明け方近くに降りだしたらしく、目覚めた江戸の人々が外に出たら茶色い地面は白くなっていた。細雪ながら雪はずっと降り止まず、町の人に出かけようという気分をなくさせていた。
雪の日の爽亭では、朝からお客さんが三人しかやって来なかった。昼下がりの今は店内に四郎さんしか客がいない。普段は調理場にいるはずの父さんも注文がやって来ないので、店の椅子に座って机に肘をついている。
「こう雪が続けば、客も来ねぇよな」
「おれがいるだろうが、こんなに立派な客が」
たった一人とはいえ四郎さんというお客がいるのにそれを無視したかのような父さんの物言いに、四郎さんは目を眇めて抗議する。しかし父さんにとっては四郎さんは友人でもあるため、友人が遊びに来たような感覚なのかもしれない。
「おい優月、今日はもう店閉めぇだ」
そう言って暖簾を下げるように、入り口を顎で示した。わたしはうんと返事をして暖簾をしまうために外に出た。雪という白いものが地面や建物を覆う光景のせいもあってか、外からの冷気がいつにも増して強く感じられる。ちょっとの間だからと、羽織もなしに外に出た事を後悔するような冷えた空気にわたしは身を縮こませる。
「おい、お前さんちゃんと優月ちゃんと仲直りしたのか?」
「しつけぇなおめぇは」
爽亭の店の戸は閉めていなかったから、聞こえてきた内緒話。その内容はすべて聞き取れなくとも、わたしの話題だという事だけは分かった。未だに父さんと会話の少ない日々を送っているせいで――年末年始の間はその事を忘れてしまう程忙しかったのだと、暇になってから気づいた――四郎さんが見かねて何かを言っているらしい、と推測は出来た。それでもなんとなく聞こえない振りをしてわたしは暖簾を片手に店内に戻る。父さんと四郎さんはわたしが戻るなり会話をやめた。
暖簾を下げたのだから、その他の閉店作業も始めなければならない。そう思って掃除用具を取りに向かう。四郎さんの座っている席は後回しにして、拭き掃除を始めようとしたのだが、父さんが立ち上がった。
「優月、おめぇもう店の片付けはいいから好きな事してていいぞ」
わたしは思わず眉を寄せた。急にそんな事を言われても、好きな事なんて思いつかない。それに、こんな雪の日にやれることなんて限られてる。忙しかった間は忘れていた気まずさが思い出されて、わたしは何と答えたらいいのか分からなくなった。
「……あ、そう」
四郎さんがわたしと父さんのやり取りのぎこちなさに、呆れたような顔をしていた。常連さんといっても昔からの父さんの友人、彼にはわたしたちの間にある微妙な空気が読み取れるのだろう。
そうやって第三者に看破されてしまうと、自分がただ意地をはっているだけのように思われて、居心地が悪くなる。その事も手伝って、父さんがいる家に残る気になれず、わたしは一度二階の自室に行ったものの、少ししたら家を出ていた。
藍色の傘を差し、手持ちのどの羽織よりも分厚い外衣と襟巻きで防寒して、履き物も編上げの長靴にして、わたしは雪の町に出かけた。
どの家も濃い色の瓦屋根に雪化粧をしている。雪の降る江戸は人通りもなくて静かで、すべて真っ白に覆われた光景はまるで別の国に居るみたいだった。ふわふわ、意識も奇妙に浮き立って、雲の上を歩いているみたい。雪の色は晴れた日の雲と一緒の色だし。
雪が降るのは珍しいから出かけるのもいいと思ったが、家にあまりいたくないという理由の方が大きくて、あてもなく町に出たのだ。わたしは傘をくるくる回しながら、これからどうしようかと考えた。
朝陽のところに行こうかとも思ったけど、やめた。あの子は常日頃と違うことが起きれば何かが起こると思って出かけていくような子だ。雪の日とはいえ自分の家でじっとしてはいられないはずだから、すぐには捕まらないだろう。町を歩けば、どこかで会えるかもしれないけど。
その他にも知り合いの顔が何人か浮かんだけど、こんな日に外に誘い出すほど親しくはない気がする。単にわたしが遠慮してるだけかもしれないが。
空を見上げれば、星の数ほど降ってくる、たくさんの雪の花。無限に注がれるそれは、わたしに永遠を思わせる。雪の降る空は雪によく似た白磁の色をしていて、ともすると降る雪と雲との境目が分からなくなりそうだ。
ずっと続く、雪。けれど江戸では冬の間中続くなんてことはなくて、やっぱり永遠なんてないのだと思い至る。
それでもやっぱり雪はきれいだ。
ぼんやり空を見上げながら、わたしは江戸の町を歩いていた。赤い鳥居の上にも雪の白が置かれた乾山神社を通り過ぎた時、駆ける子供二人とすれ違った。出かけてから始めて人を見た。この冬の冷えの中、雪にはしゃぐのは幼い子供くらいなのだろう。子供たちのつけていった雪の上の足あとが小さくて、なんだか口元がほころんだ。
ちらりちらりと降る雪は冷たいけれど、外に出たのはいい気分転換になったかもしれない。なんとなく、歩く足が軽く感じられてくる。意味もなく、少し遠くに見える火の見櫓を目指して歩く事にする。尾形町をぐるっと一周するのも悪くない。また一つ傘をくるりと回して、わたしは足取りを弾ませた。
尾形町を一周と思ったくせに、気がついたら光琳橋を渡っていた。光琳端を渡るとそこはもう隣町の酒井町に変わる。光琳橋は買い出しに行く時によく使うので、その時の癖が出てしまったようだ。別に端を渡ってもよかったのだけど、このまま歩き続けても仕方がない気がする。どうしたものかと迷いながら歩いていたからだろうか――橋を渡りきる手前で、わたしは足を滑らせた。
なんとか欄干を掴んでわたしは転倒を免れた。あと少しで転んで仰向けに倒れてしまうところだった。
「危な……」
半円に由来する傾斜のある橋の、雪で濡れた木目の上を歩く事がいかに危険であるかをわたしは思い知ったのだった。足をそろそろと橋の外の地面の上に置いて、わたしは大地が揺るがない事を確認した。
「やっぱり、そろそろ帰ろうかな……」
いい年をして転びそうになった事も恥ずかしくて、ため息が出そうになる。見覚えのある藍色が視界に入ってきて、転びかけた時に傘を手放した事に気づく。橋の上に転がっている藍色の傘の柄を掴むと、今度は橋の欄干に手を添えたまま来た道を引き返した。
外に出るといっても、家の近くで雪だるまか何かを作っていればよかったのかなと思いながら、わたしは歩みを進めた。転びかけた時に変に足を捻ってしまう事なく済んでよかった。わたしは時々、さっきみたいなうっかりをやらかしてしまうので、転んで捻挫した事もあったりする。もっと周りに気をつけて歩いた方がいいのか、なんて思いながらいると爽亭の店先に女の子が一人たたずんでいるのを見つけた。
「……あれ?」
お店が休業になったのを知らないのだろうかと思い近づくと、目にしたものに息を呑んだ。声を出さずに済んだのは、そうする時間もなかったからか。
その女の子は――夜叉のように赤い瞳をしていた。
ほとんど反射的に身構えたにも関わらず、わたしは何かを考える暇も与えられなかった。
ぐううううと盛大なお腹の音が鳴り響いたからだ。わたしのものではない。ぐうぅ、ぐきゅうううというものすごくお腹が減っている時の音は、目の前の少女の腹部から聞こえる。大きな音が止まらない。
赤い目とか、よく見ると身なりがよさそうとか、気がかりはそれなりにあったけど、こんな雪の日に傘も差さずに女の子がたった一人でお腹をすかせているのだ。食事処の娘として、放っておけない。
「うち、ご飯処だよ。寄ってく?」
きゅるきゅる言うお腹の少女はわたしを見上げると、こくんと一つ頷いた。
父さんはもう一階にはいなかった。二階の自室にいるのか、四郎さんとどこかに出かけたのかもしれない。竈の火は消えてないから、少し前まではいたのかもしれないけど。
父さんの不在になんとなくほっとして、わたしは残り物のご飯がないか調べる。米はいつもの半分ぐらいだが炊いてあったし、保存食も揃っている。まだ捌かれていない鮒があったけど、わたしが手を加えるのはやめておく。以前、魚を焼いてみた時に、とっても見目麗しくない姿にしてしまったのは、消えない記憶となっている。
とりあえずあるものを用意して女の子の前に出すと、わき目もふらずにご飯を食べ始めた。
やる事のなくなったわたしはつい、女の子の事を眺めてしまう。年の頃は十二三歳ぐらいだろうか。特徴的なのは赤い瞳だけではない。日を浴びた事がないかのような、雪のような白い肌をしている。
更に長い髪は二つに結んでいるのだが、頭の部分は白い髪なのに、髪の結び目あたりから葉の色のような緑に変わっている。白と緑の髪は、緑の部分がつけ毛なのではと思わされる。服装は首周りに白いふわふわのつけ襟、水色の着物、それよりもっと淡い水色の羽織。さっき見た時には雪下駄を履いていた。なんというか、傘は持っていないわりに防寒はしっかり出来ているなという印象。
気がつくと、少女の赤い瞳がこちらを向いていて、少し驚いてしまった。彼女の眉と眦は少し下がり気味で、何か不安な事があるためにそうなっているのか、普段からそういう顔立ちなのか判然としない。瞳以外に彼女の感情を映し出す要素はなく、何を考えているのか分かりにくい。
「わたし、ひとさがしてる」
時折眠たげにおろされる瞼から、彼女は感情が読めないのではなく、眠いだけなのではと感じられた。それはさて置き、この少女が何を訴えているのか考えた。
「やっぱり、道に迷ったんだ」
着ているものは正絹のようだし、どこかのいいところの娘さんが迷子になったのだろうと見当づけていた。出かけた先でお付きの人とはぐれてしまい、道が分からなくなって爽亭の前で途方に暮れていたのだろう。
「ひと、さがしてるの」
わたしの想像を否定するかのように、少女はもう一度言葉を重ねた。
もしかして、出かけた先で付き人を見失ったのではなく、人を探すために出かけた、という事だろうか? こんな雪の日だというのに、よっぽど会いたいのか、その必要があるのか。
「どんな人?」
少女は少し首をかしげると、感情の読めない顔のままでつぶやく。
「わたしの、たいせつなひと」
横になった頭がまっすぐに直る。
「そのひとが、いまのわたし、つくってくれた」
なんだか意味深に思える言葉だけど――自分の人格形成にかなりの影響を与えた人、って事かなあ。
人は他者と関わる事で、自分を作ってゆく。普通に考えて家族か親友か、まさか恋人?
「もしかして、雪の中ずっとその人のこと探してたの?」
こくんとまた少女は頷く。空腹も忘れて探し続けていたのだろう。本当に、よっぽど大切な人らしい。
「どこではぐれたとか、心当たりとか、ないの? いつもその人が行く場所とか」
問われて、赤い目の少女は少し気むずかしい顔になる。すぐには思い出せないのなら、芳しい返事はあまり期待できそうにない。こんな状態の小さな女の子を、放っておく訳にはいかない。
「わたしでよかったら、探すの手伝うよ」
この分じゃ、この子は自分の帰る家までの道のりさえ思い出せそうにない。名前を聞けば少し何か分かるかもしれない、と思ったところでまだ互いに自己紹介をしていないと気づいた。
「忘れてた。わたしは優月。そっちは?」
「……ゆき」
見上げてくる少女の眉と眦はやっぱり下がっていて、どこか寂しげだった。
ゆきは不思議な子だった。すごく大事に育てられた筋金入りの箱入り娘なのか、世間のことをあまりにも知らない。
北倶盧洲や今いる江戸という地名について、一度も聞いたことないみたいに振る舞う。案の定、自分の家がどこだったかも思い出せないそうだ。赤い目をしてるから夜叉なのかなとも思ったけど、羅刹といった言葉にも無反応だから、自分の身の上についても知らないに違いない。まるで生まれたばかりの赤ん坊みたいに思えた。
本当はご飯の後に二人で町に出かけようと思ったのだけど、弱くない風が吹いてきて、夕暮れ時で空が薄暗い事を知ったので、この日は外出を諦めた。暗い中でまた転びかけても、今度は欄干を掴めるとは限らない。
その日はゆきを一晩泊めることにして、わたしは自分の部屋に彼女を案内した。冬の寒さは夜が一番増してしまう。ちっぽけな火鉢じゃ何も解決しないけど、ないよりは大分いい。厚着をしているからさぞかしさむいだろうとゆきを火鉢に誘っても「へいき」とだけ返ってくる。着込んでいるからそんなに寒くないのだろうか、わたしは疑問になりながらも一人で火鉢に手をかざした。
実は、ゆきのことは父さんに言ってない。父さんは日暮れ前に戻ってきたけど、その間ゆきにはわたしの部屋にこもってもらっていた。まだ出前の時に抱いたわだかまりは消えてくれない。だからなんとなく言いづらかった。それにたぶん、ゆきのことを預かるのは一晩だけだから。明日の朝早いうちに出かけて、ゆきの探し人だけでなく住まい探しもしてこよう。それでもだめだったら、父さんにも言うつもりだった。
寝る前になんとなく外を眺めたら、まだ雪はやまないようで、相変わらず細雪をちらつかせていた。