五
わたしは手足の先が冷たくなるのが他の人より少し早いらしい。だから冬は苦手だ。真冬に向かうこの季節、どれだけ手に息を吐いても、あたたかくはならない。早く春が来ればいいのに。外出には既に羽織と襟巻きが欠かせないどころか、もっと厚着をしないと寒気が防げなくなってきた。
今日も出前が一件舞い込んだ。まだお客さんの中には爽亭が出前を始めたのを知らない人も多いが、一部の客には受けがいいようで、こうして二三日に一件は必ず出前の注文が来るようになったのだ。
店を出ていくらもしないうちに、よく見知った顔と出会った。いつもの女の子集団、胡桃ちゃんたちだ。あっちもすぐに気づいたようで早足でやって来ては立ち止まった。
「優月くーん! そんな荷物持ってどこ行くの?」
胡桃ちゃんが目ざとくわたしの荷物を見つけて指摘する。そういえば、出前を始めてから胡桃ちゃんたちが爽亭に来るのは初めてだ。
「ちょっとお届け物。爽亭、出前はじめたんだ」
「へえ、そうなんだ。大変ね」
「ってコトは……あたしも出前頼めば、優月くんにうちまで来てもらえるってコトー?!」
あんずちゃんは意外そうな顔をしていたが、胡桃ちゃんは何故かうれしそうだ。たぶん、店の外でも会いたいって事なんだろうけど。
「尾形町内だけが配達の範囲だけどね」
武家屋敷への出前を終えたわたしは、父さんに抗議した。近所を範囲として出前を始めるのではなかったのかと。近場でなければ料理も冷めきるし、冬場はわたしがきついと突きつけると、今回だけだと返してきた。やっぱり武家の相手で無碍には出来なかったらしい。それでわたしは“近所”という曖昧な言葉を明確なものに決めてもらった。今度からは尾形町だけが近所の範囲内だ。
胡桃ちゃんたちがどこに住んでいるかきちんと聞いた事はないけれど、尾形町が住まいなのはももちゃんだけだったような気がする。そんなももちゃんの姿が、今日は見えない。
「そういえば、ももちゃんは?」
「あの子、風邪引いたのよ。だから家でおとなしくしてる」
あんずちゃんが肩をすくめる。三人の中でもおっとりした性格のももちゃんは、見た目の雰囲気からもなんとなく風邪を跳ね返す程強くはなさそうに思える。風邪なら変にこじらせる事なく安静にしていればきっと数日で治るだろうけど、体調が悪い時は誰だってつらいもの。わたしは寝込むももちゃんの想像をして少し眉を寄せる。
「そっか……最近ほんと寒くなったしね」
「そうそ。ももを残して爽亭行くのも悪いと思って、店に顔出すの控えてたのよね。あと外、寒いから」
胡桃ちゃんの最後の言葉にはわたしもひどく同感だ。わたしはこくこくと首を縦に振る。
「優月くんも、風邪には気をつけてね?」
わたしをちらと見上げたあんずちゃんは、どこか気遣うような瞳をしていた。やっぱり身近な人に風邪引きが出ると、更に気を引き締めねばと思わされる。わたしは頷こうとしたのだけれど、意を決したような声に阻まれる。
「……あ、あの……っ!」
三人で同時に振り返ると、声の主は少し怯んだような顔をしていた。困ったような顔をした、同世代の女の子。その瞳はあやまたずわたしの方を見上げている。
「この間の、方ですよね……?」
遠慮がちで気が強くなさそうな女の子の様子から、わたしは一つ思い出した。
「ああ、光琳橋での」
いつか買い出しの帰りに出会った、光琳橋の傍らで耳飾りの男性に迫られていた女の子。顔をきちんと覚えていた訳じゃないけど、こうして顔を合わせれば過去の記憶と一致する。
「その、この間はお世話になりました。やっとお店にお伺いしようと思って、来たんですけど……」
そういえばこの女の子にはよかったら一度おいで、と言っていたんだった。あの日からけっこう間があいたけど、何か事情があったか忙しかったのかもしれない。折角来てくれたのはうれしいんだけど、そろそろわたしは本業に戻らなければいけない。
「ごめんね、ちょっとこれから出かけるところなんだ。でも店は開いてるから何か食べて行ってよ」
「お出かけ、ですか……」
途端に、女の子は途方に暮れたような顔をする。なんだか、とっても申し訳ない気分になっちゃうな。
「うん、ちょっと出前に。ごめんね。料理が冷めるといけないから、そろそろ行かなくちゃ」
そうでなくとも、つい胡桃ちゃんたちと話し込んでしまったのだ。一応これでも仕事中なので、出前を優先させなければならない。
「じゃあ、また来ますので……」
どうやら今日は爽亭には寄らない事にしたらしい。この女の子は一人で来たようだから、唯一の知り合いであるわたしのいない、見知らぬ店に入るのは気がひけるのかもしれない。
やっぱり悪い事をしてしまったような気がするけど、わたしは苦笑を浮かべるしかなかった。それじゃあまた、と胡桃ちゃんたちにも視線を向けて、任された料理を届けるために歩き出した。
結局父さんは、一度は受けたお屋敷からの出前を断りきれなかったらしく、特別に浅葱さんちの出前だけは受ける事にしたらしい。師走も半分終わってしまった寒空の下、わたしはまた武家屋敷の立ち並ぶ江戸城の近くまでやって来た。空はなんともいえない灰色の雲に覆われていて、雨が降りそうにも見える。夕暮れ時が近いのも、空が暗い理由の一つだろうけど。
今回も浅葱さんちの注文は天丼。うちの店の天丼は、ほとんど日によってご飯の上の天ぷらの種類が違うから飽きが来ないだろうけど、出前用の献立は数が少ない。天丼以外に好みに合うのがなかったのかもしれない。なんて思いながらいると、浅葱邸に着いていた。
この間覗きこんだ戸が普段使っているものなのかは分からないが、そこしか出入口を思いつかず、わたしは前回と同じ戸を開けた。時刻が時刻なせいか、またも道場生らしき姿はなかった。声をかけると、死角になっていた場所から立待くんがひょっこり顔を出した。
「こんにちは、また出前に来たよ」
この子の素振りがなんとなくかわいらしかったせいか、わたしは自然と笑みを浮かべていた。
「優月さん」
立ち上がった立待くんは、どうやら床掃除をしていたらしい。足元には雑巾らしき布と桶がある。武家の子息らしいのに掃除なんてしてしまっていいのだろうか。単にきれい好きか、ちょうど気になる汚れがあったから少し雑巾を持ってきただけかもしれないけど。なんて下らない事を想像していたら、意外な言葉がやって来る。
「今回は、自分が注文を頼んだんです。この間の天丼がおいしかったものですから」
爽亭によく来てくれるのも前回の出前を頼んだのも居待ちゃんの方だったから、今日もそうだと思い込んでいたけど、違ったようだ。
「そうなんだ。お口に合ったようでうれしいよ」
爽亭の天丼は、日によって手に入る材料が違うため、野菜や魚介の天ぷらやかき揚げやなんかを代わる代わる天丼にのせている。この間持ってきた天丼はどの天ぷらだったのだろう。
少し考え始めてしまったわたしに、「今、お代を持ってきますね」と言って立待くんは去って行った。一人取り残されたわたしは、なんとなく手持ち無沙汰で、空を見上げる。冬の昼間は短い。まだ暮れ六つの鐘は鳴っていないのに、薄暗くなっている。爽亭に戻る頃には、空はきっと暗くなっているだろう。
しばらくすると、立待くんは兄弟の居待ちゃんを連れて戻ってきた。わたしが会釈して挨拶をすると、相手も挨拶を返してくれた。
「どうも、こんにちは」
料理を受け取るつもりで居待ちゃんはやって来たらしい。わたしに視線を投じた後、爽亭の名入りの木箱にそれを移した。なるほどと思いわたしは居待ちゃんに木箱を渡す。その間に立待くんがお金を数えていた。
立待くんが黙りこむと、ちょっと気まずい。居待ちゃんは手にした天丼を稽古場から運び出そうか迷っているのか、兄弟の立待くんと一緒に戻ろうと思っているのか、たたずんだまま。わたしはというと、まだこの二人をよく知らないから、話かけられないでいる。
たぶん、立待くん一人ならもう少し気軽になれるんだけど。一度苦手だと感じると、なかなかそれを払拭する事が出来ないのが、わたしの性質らしい。我ながら呆れてしまいため息がつきたいぐらいだ。
この三人で共通の話題といったら、残念ながら爽亭の話しかない。という事でわたしは四方山話の延長のようなつもりで、爽亭の献立の話をはじめる。
「そういえば、うちで出してる干し柿の甘味は食べた事ある?」
両人に向けて視線を送ってみる。
「食べた事はないけど、気になります」
居待ちゃんの方は少し首をかしげただけだったが、立待くんは好奇心を向けてくれた。よかった、どっちかが興味を持ってくれて。
「じゃあよかったら今度食べてみてよ。オススメなんだ。油で干し柿を揚げてあって、なんていうか……そのままのものと食感が全然違うし、すごく甘いよ」
「柿を揚げるんですか……揚げた果物は口にした事がないので、すごく食べたくなりました」
「甘いものは好き?」
「はい、以前そちらの爽亭に伺った時も、白玉ぜんざいをいただきました。ぜんざいのほどよい甘さが、絶妙で」
話し込むわたしたちに、居待ちゃんが一つ声をかける。
「わたくし、先に戻ってますね」
甘いものの話にはあまり興味を注がれないらしい。立待くんが頷いたから、二つの三つ編みをゆらゆらさせながら、居待ちゃんは去っていった。
わたしたちは、しばらく出前の話もその代金を渡す事も忘れて話をした。
どうやらこの子とはけっこう趣味が合うらしい。
それから話すうちに、なんとなく思ったんだけど――
「優月さんって、もしかして、女の方なんですか?」
わたしが尋ねる前に、先に聞かれてしまった。そういえば、前回の出前の時にはわたしは板前にはなれないっていう話をしたような。それでわたしが女だと気がついたのかもしれない。
「そうだよ、こんな格好だけど、女。……実は、そっちも、そうだったりしない?」
そしてわたしも、この浅葱立待という男の子も同じなのではないかと感じていた。自分が“そう”だから、この、男の子にしか見えない相手も“そう”なのでは、と。何しろ今しがた、年頃の女の子が好きそうな話ばかりをしたところなのだ。もちろん男の子だって何を好んでも構わないんだけど、この立待――ちゃんは身体の線も細いしあんまり男らしくは見えない。これから成長期が待っているだけかもしれないから当て推量でもあった。
「……当たりです」
やっぱり浅葱立待は女の子だった。立待ちゃんは少しだけ困ったような、驚いたような表情をしている。あんまり、深い話は聞かない方がいいだろうか。わたしはただ動きやすいからっていう理由と、女の子らしい格好が苦手っていうのもあって男の格好をしているだけだけど。もしかすると世の中にはやむにやまれぬ理由で仕方なく性別を別に見せる人もいるかもしれないし。
「変な詮索はしないから、安心して。ただ、よかったら立待って、呼んでもいいかな。男の格好しているなら、立待ちゃんって呼ばない方がいいかなと思って」
なんとなく話を逸らして、わたしは提案してみる。立待ちゃんにとっては予想外の展開だったのか、目をぱちぱちと瞬かせている。こうして見ると、確かに格好は男のものだけど、わたしより背も低いし可愛い女の子にしか思えなくなってくるから不思議だ。少しあどけないような仕草も、なんだか微笑みを誘われる。
「構いませんけど……」
「よかった。じゃあ、立待。今度はさっきの干し柿の甘味を食べにおいでね」
互いの正体を明かしあった事などなかったかのように振る舞うと、立待ちゃんは少し笑ってくれた。
「はい、ぜひ」
別に立待ちゃんの格好の理由は何て事のない話かもしれない。でも、あえてそうしているんなら、詮索は無粋だ。わたしだって、どうしてどうしてと、今の格好を尋ねられたらあんまりいい気はしない。まあ、大した理由じゃないけど。
そうしてやっと、わたしたちは何をするべきだったのかを思い出した。まだ出前の代金をもらっていない。すっかり話し込んでしまった事をお互いに苦笑しながら、立待ちゃんから天丼代を受け取った。
外を見ると相変わらず曇りで、とっぷりと暮れた空は暗かった。随分時間がたってしまった。もう少し話していたいような気もしたが、立待ちゃんに暇乞いを告げて、わたしは浅葱邸を後にした。
あれから、言葉通りに立待ちゃんは数日後に爽亭に姿を見せてくれた。居待ちゃんも連れて。例の柿の甘味を注文して、二人で甘いものを食べていってくれた。そういえばこの二人は兄妹じゃなくって、姉妹だったんだな、なんて思った。
以来、立待ちゃんとわたしは相手の家に行ったり来たりを数回重ねた。爽亭の料理が間に入るから、客と従業員という立場が前提にあるのは変わらないけど。
きっと立待ちゃんとは仲良くできる気がする。立待ちゃんは年下の女の子だから、妹ができたみたいに錯覚したのもあるかもしれない。同じ年頃の女の子は周りにもいるけど、朝陽や胡桃ちゃんたちとはまた違う接し方をしてくれるから。
もう一人の浅葱さんが警戒を解いてくれないのと比べたら、立待ちゃんはとても親しくしてくれる。
そういう真反対の対応をされたからだろうか、より居待ちゃんのことを苦手に感じてしまうのは。お姉さんの方は話しかけてくれるのに、妹さんの方は、と。
そう感じながらもわたしは気にしないようにしてはいる。江戸中のみんなと仲良くならなきゃいけない訳でもないし。いろんなお客さんを見てきたから分かる。
ただ、居待ちゃんの鶯色の瞳が気にかかった。
あの鶯色の目は、すべて見通しているように思えてしまう。わたしが居待ちゃんを苦手に思っている事も、それが自分の劣等感に由来していないとは言い切れない事まで、見抜かれている気がした。
ただわたしは立待ちゃんとの会話の合間にたまに居待ちゃんに声をかけるのをやめたりはしなかった。無視するみたいで感じが悪いし、会話を少しでもする事で、苦手意識をなくせたらと思っていた。居待ちゃんの返事は短い相槌が多く、「そうなんですか」「そういう事もありますよね」と当たり障りのないものばかりだったけど。
――なんとなく、居待ちゃんとはまだまだ互いに初対面の相手にするような態度が続いていた。
暮れ六つ……17時過ぎ




