一
終幕からの続きです。
(仮)さんとほろさんに捧げます。
「……何やってんだよ、こんなとこで」
心臓が、とまる。
呆れたような声は、背後からした。
記憶にあるものより低い声だけれど、凄んだ時のそれに似て、過去と重なる。
うそ。
わたしの両手はふるえだす。
訳の分からぬ焦燥感がわたしを縛る。身動きが、とれなかった。
うそ、でしょ。
なんとか顔を上げる。
まだ背後の気配は消えない。
でも。
確かめるのがこわい。
ざり、と小石を踏むような足音にわたしは立ちあがった。
いかないで。
うそでも夢でもなんでもいいから。
行ってしまう前に、その顔を。
せめて一度だけ。
振り返ったわたしの頭には、韓紅のリボンが翻っていた――
「おかえり……っ」
爽亭の暖簾をお客がくぐる。
「ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております!」
わたしはお客さんを振り返って声をかけた。
あれから――三日。
もう随分と会っていなかった人との再会を果たし、何かが変わると思っていた。実際は、何も変わらないまま。
『今度会ったら、聞いてほしい話があるんだ……』
花火の日の夜。あの時、わたしは確かに決意をした。勇気を出して言わなくてはならない事があると気づいた。同じ江戸に住んでいるのだから、次の機会には言おうとした。
それなのに、その“今度”は訪れる事がなかった。
伝えたい事がある相手がいなくなってしまったからだ。
どうして、あの花火の夜に言ってしまわなかったのかと、ひどく後悔した。自分の優柔不断さを呪った。もし、本当に“今度”が来たら、その時こそはと願った。
会えない日々が続くうちに、それがいつしか、無事な姿を一目見られるだけでいい、というか細い望みに変わっていったのがいけなかったのだろうか。また会えただけでわたしは腰が抜けるほど安堵してしまって、告白どころじゃなかった。
どうしていたのかと問いかけてもかわされ、本当に腰を抜かしたわたしを苦笑して、彼は街に戻ろうと言った。
あの時の事を思い出すと、未だに恥ずかしさで顔が熱くなりそうだ。
わたしは、ため息をついた。恥ずかしさだけじゃなく、他にもいろいろな心配事がある。あの後、爽亭に寄ってと誘ってみたものの、彼は次の機会にすると断った。それ以来、もう三日も顔を見せてくれない。多分、浅葱の家に居るんだろうけど。
こちらから、出向いてみようか。明日がちょうどお店が休みなので、様子を見に行く事が出来る。迷惑じゃなきゃいいんだけど。
なんだか、会うのが久しぶりすぎて初対面の頃のように遠慮してしまう。わたしはふたたび息を吐いた。
爽亭の戸がささやかな音をたて開かれた。わたしはすぐに顔を上げる。
「おじゃましまーす」
無意識のうちに想像していたあの人じゃなくて、わたしはひそかに肩を落とした。
「こんにちは、看板娘ちゃん。今日はすいてるね」
入ってきたばかりの二十歳くらいの青年が、あやまたずわたしを見ていた。わたしより背の高い、きりっとした顔の若者だが、笑うと目尻が下がって優しそうだ。彼の少し長い髪が尻尾のように思える光景に見覚えがあった。
「ああ、この間の。また来てくださったんですね」
彼は、何日か前に爽亭が混雑している時に来たお客だ。その時はあまり時間がないからと、彼は帰ってしまったのだ。
「覚えててくれたんだ? 君みたいなかわいいコの記憶に残るなんて光栄だな」
店内に進みながら、青年はさらりと褒め言葉を使う。なんだかあまりにも自然に言うものだから、わたしは照れる暇もなかった。
青年は席に座ると、わたしを見上げる。目が合うと、彼はまた微笑んだ。ほとんど初対面の相手にするには、ちょっと優し過ぎるくらいの笑み。
「よかったら、この店のお勧めを教えてよ」
こんな風にお客さんに笑顔ばかりを向けられた事はあまりない。わたしは今頃になってちょっと照れてきて、お盆で顔を半分隠しながら頷いた。
ちょうどお客さんの少ない時間だったので、青年に呼び止められても断る理由がなかった。そのためわたしは彼が来てからほとんどの間、彼につきっきりだった。料理を食べ終わった彼はまだ話し足りないようだった。
「ふーん、優月ちゃんて言うんだ。かわいい名前だね」
なんとなく、この青年がどういう人柄なのか分かってきた。世にいる、女の子を見たら褒めあげるのが当たり前と思っている人物の一人だろう。
わたしも、以前と違って男っぽい格好はしていないから、女扱いには慣れたつもりだった。でも、こうもかわいいを連呼された事はなかった。
「あ、ちなみに俺は村雲。よろしく、優月ちゃん」
今後も爽亭に来てくれる予定なのだろうか。固定客が増えるのはよろこばしい事だ。わたしは笑みを返す。
「実は俺、まだ江戸に来たばっかりでさ」
村雲くんは、机の上に左手を載せて指で木目をなぞっていた。
「そうなんですか」
道理で見ない顔だと思った。
「だから、よかったら江戸の街を案内してくれないかな? 優月ちゃんの都合のつく日で構わないからさ」
「……えーと」
もしかして、これはいわゆるナンパというやつなのでは。
でも、単純に街を案内してほしいだけかもしれない。わたしだって見知らぬ街の案内を頼むなら同世代の若者の方がいい。村雲くんもそうなのかもしれない。
でも、次の休みは浅葱家に行くつもりでいる。
どう答えたものか。お客さんを丁重に扱わなければならない、という大前提があるために、言葉は慎重に選ばなければならない。
「今すぐ答えなくてもいいから。考えといて」
「え、その……」
どうしよう。問題を先のばしにしてしまっただけの気がする。
わたしの心がほとんど決まっているので、気まずい顔になってしまったのだろう。村雲くんが他の話題を探そうとするかのように視線をさまよわせる。
村雲くんはふと何かに気づいたように少し身をのり出す。
「優月ちゃんの髪ってきれいだね。長くても丁寧に櫛を入れてるって感じ。いつから伸ばしてるの?」
問われたわたしは思わず後れ毛を耳にかけて、自分の髪を確認した。髪を伸ばした理由は、“彼”が髪の長い女の子を好きみたいだったから。絶対に切らないと決めたのは、“彼”がいなくなってから。願かけのように彼が見つかるまでは髪に刃を入れないようにした。
いつしかわたしは馬乗袴もやめた。袖の膨らんだ半袖の白いシャツに、紺色のワンピースをまとい、長い淡藤色の髪を、韓紅のリボンで首の後ろでくくっている。
気がつけば芽生えていた、あの人に女の子と見なされたいという思いが、わたしに男物の袴を捨てさせた。
いつから、なんてもう覚えていない。
わたしはなんとなく、この話を続ける気にはなれなくて、村雲くんの方を向いた。
その時には、もう村雲くんの左手は机から離れ、わたしの毛先に触れていた。優しい手つきで、でも会ったばかりの他人にするには親密な仕草。
「あの、ちょっ……」
頬が熱くなったわたしの耳に、店の戸が開く音が届く。
「い、いらっしゃいませ」
一瞬、離れるのが遅かった。新しいお客にはすべてを見られていた。
三つ編みではなくなったけど、きれいなぬばたまの黒髪。藤色の袴の背の高い青年。黄金にも似た鶯色の瞳は、三日前に見た時より冷えた目つきをしている。
三日ぶりに会った浅葱居待は、機嫌がよさそうには見えなかった。
彼が村雲くんを一瞥すると、村雲くんは眉を持ち上げ面白そうな顔をした。
「……あ、えと」
誰に何を言うべきか分かっていないくせにわたしは口を開いたが、居待はさっさと店内を進んだ。奥の座敷席に腰かけると、
「従業員は、仕事をしろ?」
言い含めるように微笑まれた。
……あの、その笑顔なんか怖いんですが。
なんだかどこかで感じた事のある冷えきった空気だ。わたしは一体何をしてしまったんだろうか。
内心で冷や汗をかいていると、
「注文、はやく」
「はっ、はいっ!」
また怒られた。
座敷席は他の席よりやや高いところにある。居待はすがめた目でちらと村雲くんを見下ろす。
「あいつ、何だ」
最初、何を問われているのか分からなかった。わたしは目をしばたいてから、居待の視線をたどって理解する。
「……なにって、お客さんだよ?」
村雲くんは他所を向いていてこちらの視線には気づいていない。居待はしばし、彼の尻尾付きの後頭部を眺めた。
一度、鼻で息を吐いたような音がした。その後、居待は村雲くんから視線をそらした。
「久しぶりに来たからメニュー覚えてない。読み上げろ」
居待はまだ少し苛立っているかのような目を向けてきた。
「えっ。う、うん……。お品書き、あるよ?」
店内の壁には主要な料理の名前が書かれた札が貼られているし、それとは別に一枚の紙にまとめたお品書きもある。
「いいから読め。お前は飲食店従業員としての自覚が足りない。メニューぐらい空で言えるようになってみろ」
「ええぇ……?」
突然、店員失格の宣告に近いものをされ、わたしはちょっと混乱した。
なんでだろう。わたし、何か居待を怒らせるような事をしてしまっただろうか。
よく分からないながらもわたしが店のメニューをそらんじていると、小さく笑う声が聞こえた。
「優月ちゃん、大変だね。俺帰るよ、ご馳走さま」
立ち上がっていた村雲くんは、お代を置いて身支度をしているところだった。
「じゃあ、また」
村雲くんの視線が、わたしを通り越して居待にぶつかった時、空気がひやりとしたようだった。一瞬の事だったので、すぐにその雰囲気はなくなってしまったけれど。
暖簾を手で避け、村雲くんは出て行った。戸が閉まる音がした後、爽亭は静かになった。
はたと気づけば、お客は一人しかいない。
さっきは、なんだか気まずい場面を見られた戸惑いで忘れていたけど、三日前のわたしは居待の前でちょっとした醜態をさらしたのだった。
思い出すと恥ずかしさと後ろめたさで逃げ出したくなる。
一歩後ろにさがると、わたしはそのまま調理場に向かおうとした。
「優月」
聞き慣れない低い声が、耳朶を打つ。
「天丼ひとつ」
名前で、呼ばれた事なんてあったろうか。
それだけで、うろたえるには充分だった。
わたしは頷くだけで、すぐに調理場に逃げこんだ。そして、その場にしゃがみこむ。
名前。
名前で呼ばれただけなのに。なんでかとてもむず痒く、心臓が落ち着かなかった。
調理場にいた父は不審げな顔をしていたが、最近ではわたしの行動に口を挟む事はなくなった。元々口うるさいタイプじゃなかったからさほど変わらないが。
結局、その後は居待も普通に食事をして帰って行った。
見送った後に気づいたのは、“また”何も言えなかった、って事。
伝えたい事がある、はずなのに。
でも、ほとんどの間居待の機嫌はよくなかったし。それどころじゃなかった。なんて、言い訳探しばかりしているから、いけないのだろうか。
その日の夜、月を見つけたくて窓を開けたのに、夜空は曇って星も見えなかった。




