三
昼間の暑い熱気が薄れ、風が吹けば涼しいくらいの夜。繁華街にはたくさんの人の声と、たくさんの提灯の明かりと、たくさんの食べ物のかおりが溢れていた。
江戸の夏一番のお祭りがはじまった。昼間は五穀豊穣を願い舞いを奉納する祭りだが、夜は美味しいものを食べて遊び倒す。出店の数は多く、多種の食べ物や金魚掬いや射的や水風船釣りがある。この日、江戸中の人々が集まったかのように、繁華街の道は大変な混雑になっていた。
わたしも祭りを楽しむ側にいられたらよかったのだが、今年もお客をもてなす側にいた。爽亭は軽食の屋台をやっている。ほとんど毎年の事だからもう諦めているのだけど、たまには普通に祭りを楽しみたい。正直言って、忙しすぎる。お客さんはひっきりなしにやって来ては注文する。何人も並ぶと後ろの人を待たせてしまうのが心苦しくて、怒られないかと内心冷や冷やしている。
人手が足りないので、ほぼ毎年四朗さんの奥さんに手伝いをお願いしているが、それでも間に合わないと四朗さんにも手伝いを頼んだりする。
お客の波が途切れ、小休止がとれたところに、見知った顔がやって来た。最近では随分と肌の焼けた翔くんだ。お客として来てくれて、早速うちで買ったものを食べ始める。どうやら翔くんはもう出店をけっこう見つくしたらしく、どこどこの何が美味しかったとか、どこどこの金魚の動きが速くて掬えないとか話してくれた。
「いいな、わたしも少しは見て回りたいな……」
ついため息が出てしまう。屋台の中での休憩じゃなく、外で羽根を伸ばしたい。少しの間、翔くんは黙りこんで、どこか窺うような顔になる。
「誰か一緒に行きたい人でもいるのか?」
幸いな事に、まばたきを一つしただけで済ませられた。一瞬頭をよぎった人の姿は、やけにくっきりしていたから。
「……え、そういうわけじゃ……ないんだけど」
だって、居待くんはあの日以来爽亭にもやって来ない。あの時一緒にいた青くんや耶八くんはなんだかんだと顔を見せてくれるのに、居待くんはあれっきりだ。何の約束もしていないし、そもそもただの友達だ。祭りに興味がないかもしれないし、忙しくしているのかもしれない。最初から望み薄だ。
下を向いていると、前掛けに汚れがついているのが見えた。意味もなくそれをこするが汚れは落ちなかった。ただ布にしわが寄っただけ。
「じゃあお前が代わりに手伝ってやれよ。な、翔」
「え」
突然の声に低い声を出した翔くん。提案は四朗さんが出したものだった。
最初は申し訳ないからとわたしも断ったが、四朗さんは譲らなかった。手伝いをさせられるのは翔くんなのに、頑固なのは四朗さんだった。結局、四朗さん自身も手伝うというし、翔くんも「別にいーけど」と言ってくれたので、彼らの厚意に甘える事にした。どうせ今からではそんなにたくさん時間はない。前掛けを外し、屋台をたたむ頃には戻ると告げて、わたしは歩き出した。
人が多くてなかなか先には進めなかったが、それでも歩き出してから間もなく、見知った顔を見つけて声を上げた。
「朝陽!」
一度呼びかけたぐらいじゃ気づかれなくて、周囲の賑やかさに負けないようにともう一度声を張る。それから人の波に流されないように必死になって朝陽に追いついた。朝陽は既に出店をまわっているようで、片手に水風船を持っている。
「お店、他の人に頼んできたからお祭り見れることになって。一緒に行こ?」
わたしが店を離れた事で朝陽は意外そうにしていたが、「よかったじゃない」と顔色を明るくした。
「そういえばついさっき、耶八くんと玖音を見かけたわよ」
話しながら、人ごみに揉まれながら歩く。
「へえ。あの二人も来てたんだ。江戸のお祭りを楽しんでくれるといいな」
「なに言ってるの、今年はあんたも楽しむ側にいるんでしょ。めいいっぱい満喫するわよ!」
喝を入れるかのように言うと、朝陽は足早になって「あのお店見よう!」と足を速めた。
朝陽と二人で出店をたくさんまわり、食べ物を片手に話しながら歩いた。祭りの空気もあってか、他愛もない話でいつも以上に盛り上がった。お祭り自体も楽しかったが、気の置けない親友と笑い合って話せる事がとてもうれしかった。
けれど祭りはそろそろ終盤に近づいてきていた。中には屋台で出す商品がなくなって店じまいをはじめるところもある。花火が始まれば、祭りは締めくくりに入る。もう少ししたら行かなくては、と朝陽に伝えると丁度いいからここでお開きにしようという事になった。
「お店がんばってね!」
あと少しではあるが、戻れば出店の手伝いと店じまいがある。朝陽はその激励をして人の波に入っていった。
ちょっと疲れていたので、明るく元気な親友に会えていい気分転換になった。元気をもらったというか。だからつい、朝陽の姿が見えなくなるまで見送ってしまった。
さて、父さんや四朗さんたちの待つ屋台へ戻らなくてはならない――のだが。
「ちょっと人が多すぎるな……」
友人と話しながら歩いたせいと混雑がひどいために、自分がどの辺りに居るのか分からなくなっていた。出店は普段の繁華街にはないものだから、普段からある建物に見知ったものがないか周囲を探る。
なんとなく見憶えのある看板が見えたような気がして、足をそちらに向けるのだが、人の流れがわたしを押しだして、前へ進めなかった。思わずその勢いに押されてしまい、人気のない場所を探してしまう。よろよろしながら、まだ人が少ないところへやって来ると、余計に道が分からなくなった。少し人通りが少なくなってから移動した方がいいだろうか。とはいえ祭りの最中ではそんな事望めるはずもない。どこかに抜け道はないかとまた周囲を見回す。
気づいたのだが、人の動きに規則性がある。というより、大抵の者が同じ方向へ向かっているのだ。少し考えるとそれがどちらの方角か分かってしまった。もうすぐ打ち上げ花火が始まる。みんな花火が打ち上げられる東の方へ向かっているのだ。
その時、視界の端に見た事のあるような色の着物が見えて顔を向けた。赤い色と空の色。二人で一緒にいるところはまだ見た事がなかったが、この夏江戸にはじめて来てくれた二人の少年と少女――青くんときさらちゃんだった。そういえば朝陽が耶八くんと玖音ちゃんも祭りに来ていると言っていたから、元は四人で来ていたのだろう。
離れた場所にいたから声をかけようかと思ったのだが、
「あ……」
やめた。
青くんときさらちゃんは手をつないでいた。たったそれだけの事なのに、何もしてはいけないと思えた。
すぐに二人は人の波に呑み込まれて、見えなくなる。
きさらちゃんから、なんとなくその気持ちは読み取れていた。けれど青くんとそんな話はしなかった。それなのに、なんだかとっても――二人はいい感じだった。
わたしは何故か口元を両手でおさえた。
うわあ、と叫びたいくらいだった。
心なしか顔が熱いような気もしてくる。いつかの、立待ちゃんの景雲さんへの気持ちを知った時もそうだった。わたしはどうやら、自分のものだけではなく、他人の恋愛事情にも耐性がないらしい――。
そもそもが友人知人の中に恋人同士で顔を見せにくる者なんていなかった。だからなんというか照れくさいというか気恥ずかしいというか、どういう顔をしていいのか分からない。
でも。垣間見えたきさらちゃんの横顔は、満ち足りて見えたから。わたしもつられたように微笑んでいた。二人が一緒にいる姿が見れて、よかったと思えた。
気がつくと人気が減っていた。
誰も座っていない腰掛けを見つけて、歩き疲れていたわたしは腰をおろした。意外なものを見たので、ほんのちょっぴりどきどきしている心臓を落ち着けたかったのもある。
人々の笑い合う声が少し遠い。離れたところから呼び込みの声や、太鼓や笛の音も聞こえる。そこに草むらからの虫の声が混じる。
爽亭の屋台の中でも座って休憩できるが、基本は立ち仕事だ。さっきまでずっと歩き通しだったし、わたしは息を吐いて力を抜く。腰掛けは正方形の大きなもので、両手を後ろに伸ばしてもまだ余裕があった。上半身を背後に傾けて、一度空を見た。
軽い足音を立てて、小さな女の子が駆けて行く。金魚のヒレのような浴衣の帯をなびかせて。それを追う、彼女より少し大きな男の子。「ひとりでいくなよ」とたしなめている様子から兄と妹かもしれない。小さな男の子がお兄さんをしている姿がなんだか微笑ましい。彼らも花火を近くで見たいのだろう。
思っているうちに、何かの破裂するような音が空に響いた。わたしは思わず体を起こした。すぐに夜空が明るくなって、一輪の花が開く。わ、と人垣から歓声が上がる。
「花火、はじまっちゃった……」
わたしの居る場所は打ち上げ場所である荒川河川敷からは離れているから、花火はやや遠い。それでも夜空に燦然と輝く花火は大きくて、見ごたえがある。
どおん、とまた音がして花火が空を見上げる人々の顔を照らす。このまま少し、花火を見てから店に戻るのでもいいかもしれない。花火がはじまると飲み食いするお客も激減するから、今頃父さんたちも休憩しているところだろう。屋台の中から花火を見上げているかもしれない。
「きれいねー」
「去年は来れなかったけど、見れてよかったわ」
歓声を上げる中にも、同行者とささやき合う声が混じる。花火を見上げる人たちのほとんどが、誰かと連れ合っていて、時折空ではなく隣を向いていた。
続けざまに上がる大輪の花と打ち上げる音が、少し遠く感じた。わたしも、どうせなら朝陽と一緒に花火を見ればよかった。花が煙に変わって、風に撫ぜられていくのを見るのは、一人では少し物足りない。
またひとつあげられる花火に、美しいと目を奪われるものの――あっという間に消える姿に心もとなくなる。訳もなく片手でシャツの胸元を握る。
夜の空気が、なんだか肌寒くなってきた。
やっぱりもう戻ろうか、思った頃。
「また迷子になったんですの?」
凛とした声と共に、腰掛けがかすかにきしむ音が背後からした。
まさか。思ってもいなかった声にわたしは瞠目する。
けれどこの少女のような声と、どこかからかうような口調はまぎれもなく居待くんのもの。
何故かわたしは背後を振りかえる事が出来なかった。ただひとつ訂正しなくちゃならない箇所がある。
「ま、迷子じゃないし」
人ごみに流されてしまったけれど道が分からない訳ではない。
「そうですか? あなたは迷子になるのが得意だと思ってましたけど」
まったく否定しきれないのが悲しい。冬に辻斬りの現場を見てしまったのも道に迷ったからだった。それだけじゃなく、ちょうど今と同じような季節の頃にも、似た事があった。
「……確かに、去年の夏もちょっとはぐれたけど……あれは、驚いたからで」
「そういえば、そんな事もありましたわね」
幽霊騒動を思い出したのか、居待くんがくすくす笑う。
たぶん、居待くんは正方形の腰掛けの、わたしの反対側に座っている。顔を合わせていないせいか、気恥ずかしさがあまりなかった。
「一昨年の冬も、迷子になってるところを柄の悪いのにからまれていたんですっけ」
「あれはほんとに違うよ。ゆきが、一緒にいた子がからまれてたから……」
まだ居待くんと会ったばかりの頃。雪うさぎの化身のような女の子とも一緒に歩いたっけ。
「秋にはわたくしたちも置き去りにされましたわね。最後はあなた一人にしましたけど」
「……う、うん……みんなけっこう自由だよね」
未だに居待くんを怒らせてしまった事はちょっと後ろめたい。だけど、言われてみれば小間物屋に置いてけぼりにされたのは、最初は居待くんとわたしだった。ひと声かけてくれればいいのに、先に行ってしまった人たちの事をなんと評したらよいのか。
けれど今ではもう、懐かしい思い出となっている。
思い返せばこの人といろいろなところに行った。この間の冬の事もまだ記憶に新しいはずなのに、春の間ずっと会えなかったせいか――夏の今もあまり顔を見れていないが――ぜんぶ遠いものに感じる。打ち上げ花火の煙のように、薄れていって、いつか色褪せてしまうのだろうか。
「いろんな事がありましたわね……」
どおん、花火が打ち上げられる。わたしはそれを見上げてはいなかった。
「うん……」
膝の上に載せた指を組んで、意味もなく崩してみたりする。
ふいに、会話が途切れた。
何か言わなくちゃと思うのに、何も浮かんでこない。さっきみたいに過去に出かけた時の話をすればいいのか。それとも、もう一度賽ノ地で何をしていたか訊ねてもいいだろうか。まだ他に何か言わなくてはいけない事があるだろうか――。
「そういえば、い……居待は、お祭り、まわった?」
まだ話題はあった。最初から祭りに出かけていたのか少し気になっていたのだ。
「いえ、その予定はなかったのですけど、思わぬ時間が出来て」
後ろの方で、また少し腰掛けのきしむような音がする。居待くんが姿勢でも変えたのかもしれない。
「そっか」
夜空は時折明るくなるのに、わたしは自分の指先ばかり見つめていた。
わたしはその後、爽亭も出店を出している話や、立待ちゃんはどうしているか訊ねたりした。立待ちゃんは祭りには来てないけど元気にしてるそうだ。ぽつぽつと話して、相槌を打って、ゆっくりとした時間が流れた。
空には大輪の花火、人垣から楽しそうな声。いつもより明るい空なのに、後ろには会いたいと思っていた人がいるのに、何故だか何かが足りないような気がした。居待くんが過去の事を語るのも珍しく、なんだか奇妙な心地だった。
「花火が終わって混む前に、行きますわ」
何回目かの会話が途切れたその後に、居待くんは一息吸うと、言った。
確かに花火の終わりは祭りの終わり、帰ろうとする人でまた道はごった返す。「では、また」との挨拶に一拍遅れてわたしは振り返る。居待くんはもう立ち上がって、腰掛けから離れていた。
行ってしまう。せっかく会えたのに。
いくらか話したけれど、短い間でしかなかった。
遠ざかる背中、韓紅のリボンがひるがえる。
待って。
我知らず体が動いていた。
背中を押すのは花火の明かりかその音か。
居待くんが座っていたあたりに来た時点で、もうあの背中が小さくなっていた。
いくらか行くと、居待くんは石段をおりていた。こんなところに石段があったなんて知らなかった。見知らぬ道に少しだけ意識を奪われていたら、あっという間に居待くんは離れていく。
「ま、待って」
急いで石段を駆け下りようとしたのだが、それがいけなかった。わたしの声に振り返った居待くんの姿が見えたような気がしたが、その瞬間わたしは足をすべらせていた。
落ちる、と思ったが咄嗟に近くにある木の枝に手を伸ばした。手の平に痛みを感じたが、支えがあった事でなんとか均衡を保てた。二段下に片足をおろし、わたしは転ぶ事を免れた。そのままゆっくり石段をおりると、居待くんが待っていた。彼は少し怪訝そうな表情だった。
「転びそうになっちゃった」
見られていたかもしれないけれど説明した。なんでもない風を装って、少し痛む左手を見る。さっき掴んだ木の枝は先がとがっていたようで、手の平から血が出ていた。傷は深くないのに、血がだらだら流れている。
軽傷だという事を証明しようと左手を振ろうとした時、長いため息が聞こえた。一瞬出会ったのは、鶯色の瞳。呆れたような、物分かりの悪い子供を見るような、苦笑のような表情。
思考の間も与えられず、手をとられていた。
遠くで、花火が盛大な音を上げる。
「何気にドジだよな、お前」
わたしの手を掴んでいない方の手で、居待くんは自分の頭のリボンをほどく。わたしの左手の上に韓紅の色が落ちる。二度三度とリボンが巻かれ、包帯のように端を結ばれる。
その手が触れたのは少しの間だけ。
「応急処置だ、あとでちゃんと直せ」
少しだけ。
「ほら出来たぞ」
近づいた距離で分かった事は、彼の韓紅のリボンは前髪もまとめていたのだという事。それを失った今、長いまつげに前髪がかかる。普段はない前髪がおりている事で、彼が見知らぬ人のようにも見えた。
軽傷、なのに。手当てしてくれるなんて。
やさしい。その優しさが、ひどくわたしの心をしめつける。
どうして、この人はこんなにわたしを惑わすんだろう。
「あ……ありがとう……」
どぉん……花火の音も今ではひどく遠い。
声はふるえずに済んだだろうか。
触れられた手が熱を持つ。
韓紅色のリボンを巻かれた左手を、右手でそっと支えた。
心臓がどくどくと強く脈打つのは、肌寒かったはずの体がかすかに熱いのは、手の怪我のせいだろうか。
怪我のせいだろう……。
結局、もう少し居待くんはつきあってくれるらしかった。爽亭の出店のある方角に向かって、歩く。
今度はずっと、言葉が出てこなかった。いつかのように少し前を歩く居待くん。なんとなくその視線の先を追う。そう長い間ではないけど、居待くんは道行く人を時々眺めていた。特に女性を。顔を少し向けた相手は、髪型が見事な長い髪の女性だった。それに気づくと、なんとなく髪の長い女性を見ているような気がする。
居待くんって、髪が長い子が好きなのかな……?
自分と正反対だという事に気づき、心臓がずんと重くなる。
今更だけど、居待くんは好きな人がいるのだろうか。自分の気持ちに気づいたあとでも考えてこなかった。そんな自分の迂闊さに気づくと同時にうろたえる。好みのタイプが髪の長い子、なのではなくて、好きな相手が髪の長い子、だったとしたら。どうしたらいいんだろう。
まだ見ぬ恋敵のせいでわたしは内心慌てる事になる。
どうしよう。急に絶望的な気分になる。
何か取り返しのつかない事をしてしまったような焦燥感。
居待くんは普段はそっけないけど、親しくなった相手には誰でも優しいだけで、さっきの事だって別に何とも思っていないのだ。当たり前だろう、わたしは彼の友人でしかないのだから。でも好きな女の子には違う。髪の長いきれいでかわいい女の子にはもっと違う態度を――
顔も思い描けぬ少女と寄り添う居待くんの姿を想像してしまい、わたしはぎゅっと両手を握った。
血の出た左手が痛かった。
「……あっ、あのっ!」
手遅れに、なる前に。見たくないものを見せられる前に。
いっそ、すべて伝えてしまって。
こちらをずっと向いていてくれなくてもいいから。
せめて少しの間だけ。
今だけは。
こちらを向いて。
「わ、わたし……」
行かないで。
こちらを向いてと願いが叶ったのに。
その鶯色の瞳とぶつかった瞬間に、わたしの意気込みはしぼんでしまう。
ああ、自分の気持ちは分かっているのに。
どうすればいいかも知っているはずなのに。
「こ……今度会ったら、聞いてほしい話があるんだ……」
たった少しの言葉が、言えなくて。
何かが足りない、何か言わなくてはと思っていた事は、これだと気がついたのに。
「なんだそれ」
小さく笑う声がする。
いつぶりだろう、彼が笑うのを見たのは。澄まし顔ばかりの彼の貴重な表情。
どうしても、このひとには勝てない。
今度。いつ会えるかも分からない。けれどきっと、わたしたちはまたすぐに会う事になるだろう。同じ江戸に住んでいるのだから。
その時にはきっと、勇気を出そう。
東の空の端に下弦の月がのぼるのが見える。花火ももう終盤だ。
人の作った花はひと夏で終わるけれど、月はまたのぼる。どの季節も、どの年も、変わらずに。
変わるものもあれば、変わらないものもある。
月はいつも姿を変えるけれど――
繰り返す月の出と月の入りと同じように、わたしたちはまた出会うだろう。
同じような日常を繰り返しながら、昨日とはまた違う日々を過ごす。
そう、ずっと、穏やかな日々を。
ずっと、こんな日が続くと思っていた――
わたしが望んだ“今度”は訪れる事がなかった。




