四
ある晴れた日の、昼下がり。日差しが出ても冬の爽亭は客足が少なく、つい今しがた一人のお客が出て行ったら、誰もいなくなってしまった。
わたしがまた読本でも読もうか掃除でもはじめようか迷っていたところ、父さんが突飛な事を言い出した。
「決めた。優月。出前、やるぞ」
あんまりにも唐突だったので、わたしは反応が遅れてしまった。それも、父さんの言葉の意味を半分も理解しないままで。
「……何、急に」
「だから、出前だ。近所だけでいい。届ける料理も店で出すもんより種類は減らす」
じわじわと、わたしの中に父さんの考えが染みこんできた。普通はお客さんには店に出向いてもらって料理を味わってもらうが、今度はこちらから料理を持ってお客さんの家で楽しんでもらおう、っていう話らしい。それは分かった。
「でも父さん、今の爽亭じゃ新しいこと始める余裕なんてないって、前から言ってたのに。人もいないし」
料理を作る人がいなければ店は回らない、そうなると出前を持って行くのはわたししかいない。普段から爽亭は人手不足で、新しい何かをする余裕はないと父さんはぼやいていたはずなのに。一体、どうしてそんな話になったのだろうか。
「冬の間だけだ。どうにも、冬は年々売り上げが下がっていけねェ」
それはわたしも分かっている。ここ最近は胡桃ちゃんたち三人組も顔を見せてくれないし、近所の長屋に住んでいる政さんはともかく、長さんの朝一番の訪れも減っている。現に今だって誰一人としてお客がいない。
食事処では時間帯によって人が来なくなるのは普通の事だ。人が食事をしたいと思うのは個人差があっても、やはりいくらか時間がかぶるし、その逆もあり得る。どうしてそこまで気にするのだろうか。そもそも急にそういう事を言い出すのはおかしいように思える。
ふっと、わたしの中で一つの予想が持ち上がる。
「もしかして、母さんから出前の相談してた返事が来たの?」
先日、母さんからの手紙がうちに届いたばっかりだ。母さんはいつも、わたしと父さん二人に宛てて別に内容を書いている。さすがに父さんが母さんに何一つ相談しないで店の事を決めるのは不自然だ。母さんが江戸にいた頃からそうしてやって来ていたんだから。
「やるって言ったらやるんだよ。なんなら時間も昼からって決めてもいい」
「母さんには相談したの? わたしは何も聞いてなかったのに?」
図星のようだ。父さんは否定する事がない時はあえて何も口にしない時がある。嘘をつくのも得意ではない。
仮にも一緒に店を切り盛りする従業員相手に、相談一つしないなんておかしい。確かにわたしは父さんみたいに調理場に立てないし、まだ子供といえるほどの若輩者かもしれない。でも、何も言ってくれないなんて。わたしは出前に反対なのではなく、父さんの態度に不満を抱いた。
父さんはこの時以来、わたしの疑問には答えてくれなかった。
苛立ちがにわかに立ち込めてくる。じんわりと浸透していったそれは、わたしに父さんと会話をさせなくする力を持っていた。
こうして、自分自身はのり気のしない出前をわたしが始めることになった。
父さんが出前開始の張り紙をし、お客が来れば一言声をかけたりしたが、わたしはほとんど何もしなかった。変わらず父さんは何も言ってはこないし、わたしも抗議はしない。でも、全身で不満を表現した。朝「おはよう」と言われても「うん」とだけ返したり、仕事に差し障りのない範囲では声もかけなかったり。
わたしはただ怒っているだけじゃない。納得出来ない事に不満があるだけだ。父さんは自分が決めた事はやり通す人だけど、だからってわたしに何の説明もなしにそれを続けていいとは思えない。
なんとなく、ため息が増えていった。
はじめての出前は本当に近所で五軒先の家宛だった。わたしは帰ってきてからきちんとお客さんに渡した事だけは父さんに伝えていつもの仕事に戻った。届け先が本当に近くなら、そんなに手間でもない。
それでもこの季節、冷え込んだ外に出るのは楽しい事ではない。だから客足が遠のくのだろうけど、わたしにそのしわ寄せが来るなんて。やっぱり、出前自体も好きになれそうにない。またため息が出る。
二件目は天丼二つを、とある家へと届ける事になった。今度は近所じゃなかった。武家屋敷が目的地だと気づいたのは、そこにたどり着いてからの事だった。尾形町を出て繁華街を過ぎた頃から勘づいてはいたけれど、まさか江戸城が間近に見える武家のお屋敷までやって来るなんて。父さんは近所だけに出前をするとは言っていたけど、武士が相手で断りきれなかったのかもしれない。近所の人だけではなく広く客層に恵まれるのはもちろんいい事だけれど、やっぱり武家屋敷の立ち並ぶこの辺りは、爽邸からはちょっと遠すぎると思うんだ……。
まあ、とにかく仕事だから仕方ない。疲れた顔をしないように気をつけて、わたしは営業用の表情を作る。
目的の屋敷には居住のための場所以外にも、道場のようなものがあるらしく、わたしはどちらに顔を出せばいいのか迷った。武家屋敷に来たのは初めてなのだ、いきなりお屋敷に入るよりも道場に姿を見せた方が緊張しないだろう。ただ、道場からは誰かが稽古をするような声が聞こえてこなかった。
屋敷の周りをうろうろしているのも怪しく見えるだろうし、とりあえず一番近くの入り口を見つけて、扉を少し開けてみる。わたしが覗きこんだのは道場の方だった。隙間から見える広い空間には、誰もいない様子だ。
「すみませーん、爽亭の者ですが、出前の料理お届けに来ましたー」
これだけでは返事がなかった。今度は少し声を大きくして呼びかけてみる。
遠くで物音がした後、「はい、只今」と建物の奥から鈴の音のような声が聞こえてきた。少しして、足音が近づいてくる。足音を止め扉を開いて出てきたのは、袴姿で小柄の生真面目そうな男の子。ぬばたまの黒髪は、一瞬顎までの短い髪のように見えたけど、背の向こうに結われた長い髪が隠れていた。
何よりわたしの気になったのは、その顔立ち。
この子、誰かに似てる――?
最近何度か見た顔だ。その誰かまでは思い出せない。喉に引っ掛かった小骨のようなそれを追い出せもせず、わたしを見上げてくる鶯色の瞳に促され自分の任務を思い出す。
「爽邸の者です。出前を届けに来ました」
持ってきた料理の入った木箱を持ち上げて、わたしは自分がここに何をしにきたのかを告げる。すると彼にも思い当たる事があったようで、一つ頷いた。屋敷を間違えたのではないと内心で安堵しながら、わたしは木箱を持つ腕を下げる。
「天丼二つで、間違いないかな」
安堵もあったし、相手が自分より年下のようなのでつい言葉遣いを砕けたものにしてしまった。少年は気分を害した様子ではないが、少し眉を寄せる。
「えっと……自分は頼んでないので、たぶん、としか……」
おそらく間違いはないと思うのだけど、出来れば注文主が出てきて天丼を頼んだと認めてもらえた方が安心出来る。そんなわたしと同じ事をあちらも思ったのか、男の子はくるりと振り返って、声を張った。
「居待、ちょっと来てくれないか」
どうやらこの男の子の呼ぼうとしている相手は遠くにいるらしい。そうだろう、何しろ広い稽古場のような空間には目の前の男の子しかいないのだから。稽古場の奥には扉があるが閉まっている。
ふと気づいて、あんまりじろじろ他所の家を覗き見るものではないなと、わたしは視線を外す。なんとなく天丼の入った木箱を眺めるうちに、人の気配が近づいてきた。
「なんでしょうか」
そう言ってやって来たのは、躑躅色の着物をまとった、二つの三つ編みの女の子。鶯色の瞳が、男の子を見た後わたしを一瞥する。
『もし、そこのお二方? いささか声が大きいですわよ?』
初めて目にした時の姿と、その後も爽亭に来てくれた時の事が脳裏に蘇る。
「あ……」
誰かに似てる、その“誰か”がこんなにも早く現れるなんて。名前も知らない、いつか声の大きな二人組の女の子を諌めた爽亭のお客さんの女の子だ。
目前の男の子も、その隣にやって来た女の子も、わずかに幼さの残る、少年とも少女とも言えそうな顔立ちをしている。服装や髪型、表情や居住まいは違っても、黒い髪や鶯色の瞳は同じだ。この二人に血のつながりがあることは明らかだった。
わたしの視線が躑躅色の着物の女の子に向けられたまま動かないと気づいて、あっちもわたしを見上げる。訝しげだが警戒の見える瞳がこちらを見据える。
そっか、この子にはわたしのことが分からないんだ。店員にとって常連客の顔は覚えるのが自然でも、お客さんからしてみれば店員の顔なんて食べ物ほど夢中になって見ないだろう。見知らぬ人に注視されて、怪訝にならないはずがない。わたしは一度、持ってきた料理に視線を落とす。天丼を入れた木箱には爽亭の文字が刻まれている。
「あなた、たまにうちの店に来てくれてるよね? 爽亭って、分かる?」
「ああ、居待がたまに行くっていう……。自分も一二度行った事があります」
先に反応したのは袴姿の男の子だったけど、女の子の方も改めてわたしを眺めるようにして、合点のいった様子になる。
「あなた、爽亭の方でしたの? それはまあ……気づきませんで、失礼をば」
ご飯を目当てに食事処に来るならば、店員がどんな顔かなんて関係はないし覚えはしないだろう。胡桃ちゃんたちみたいな例外もいるけれど、長さんたちだって爽亭の味をこそ評価している。この女の子も爽邸の味を楽しみにしてくれているらしい。だからこそ、出前を頼まれたのだ。
父さんとは未だ普通の会話が出来ていないけれど、爽亭の料理が認められているのを感じると、やっぱりうれしいものだ。その事もあって、相手に気を使わないでほしいと訴える意味も含めて、わたしは表情を和らげた。
「気にしないで。それより今日は、出前を届けに来ただけだから」
「あ、そうですよね。お代を」
「わたくしが持ってきます」
袴の男の子を遮って、女の子が踵を返した。ひらりと舞う躑躅色に既視感を覚え、わたしは彼女が戸の向こうに消えるまでしばし見つめてしまった。
あの子が戻ってくるまでの間、わたしは袴の男の子としばし沈黙を共有することになる。
「……天丼頼んだか、聞きそびれたね」
黙ってるのが気まずくて、ってわけじゃないけど言ってみる。聞きそびれたのは事実だ。
「戻ってきたら、聞きましょう」
頷いた後に相手は提案した。肌なきれいな男の子だ。少し身体の線が細いようだけど、その眼差しには心にしっかりした芯のある気概の欠片が見える気がした。
「わたし、優月って言うんだ。爽亭に来てもらってたみたいで……よろしくね」
せっかくなので爽亭の話をしてみる。わたしは覚えていなかったけど、この子もうちの店に訪れた事があると言っていたし、やっぱりあの女の子は何度も足を運んでくれているのだ。二人は兄弟みたいだし、女の子の分も含めてそんな事を言ってみる。
「自分は、浅葱立待と申します。お代を取りに行ったのは居待です」
「兄弟なんだ。いいね、わたしは一人っ子だから」
他に話題も思いつかなくて、相手は興味がないだろう事を口にしてしまった。
「それでは、もしかして将来は次期板前さんに?」
それでも立待くんはわたしの話にのってくれるようだった。ただ彼の言葉をわたしは否定しなければならない。
「ううん、違うよ。板前は男の仕事だから、わたしには無理だと思う」
女の料理人はごくまれにいるが、基本的には調理場は男の領域だ。もちろん家庭でご飯を作る分には女がすべきとされている。しかし職業にするとなると、やっぱりどこも男社会、男性優位の世界なのだ。それでなくともわたしは、あんまり料理が得意ではない。
「え……それじゃあ、」
驚いたような声の立待くんだったが、彼が何かを言う前に姿を見せたあの女の子が声を上げる。
「持って参りました」
目前の立待くんによく似た顔の、柔和そうだけどどこか蠱惑的な瞳がこちらを向く。
なんだろう。あの眼差し――少し、苦手だ。常連さんが減らなくてよかったと思ったのは確かだけど、こうして正面で顔をあわせるといつもの偏見を思い出してしまう。それを隠すようにしてわたしは話を仕事に戻す。
「そうだ、注文したのって天丼二つで間違いないよね?」
「はい。確かに天丼を二つ頼みました」
持ってきた料理が誤ったものではないと確認をすると、わたしは男の子の方に木箱を手渡して、代金を女の子からもらった。
「それじゃ、空いた器は外に出してかまわないから」
注文の確認もしたしお代ももらったし、わたしがここでするべき事はもう他にはない。器は後で取りに来るだけ。木箱を手渡した今、荷物もほとんどないが帰り支度をはじめたわたしに、立待くんは声をかけてくる。
「優月さん、ではまた」
彼は意外にも手を振ってくれたから、うれしくなった。わたしはつい口元をほころばせる。
「じゃあね」
わたしも二人に手を振るが、一人は応じてくれなかった。あっちにしてみればこれが初対面だから、普通の対応だろうけど。
やっぱり、あの子は苦手だ。だって、とっても長いまつげをしていた。かわいらしくって女の子らしくって、あの長いまつげに縁取られた瞳で見上げられたら、女のわたしでもちょっとどきりとしてしまいそうだった。それに、いつまでもあの居待という子のわたしに対する警戒心は解けなかったように感じたのだ――。
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「……素直じゃないねェ、板前さんよ」
「うるせェ、間抜けた伊達男が」
「あん? なんだよ四郎、何が素直じゃねぇってんだ」
「この呉剛さんは、優月ちゃんが自分のせいで店にかかりっきりなのが気に入らねぇのさ。それで少しは外に出したくて、出前をはじめたってわけだ」
「あ、なるほど。それなのに出前の事相談しなかったってんで看板息子にヘソ曲げられたのか。立つ瀬ないねぇ」
「ちゃんと自分の思ってる事言わねえからさ」
「男がべらべら手前の事しゃべれるかってンだよ。野暮天が」
「それで一人娘の機嫌損ねてちゃ意味ねぇだろ。優月ちゃんはお前さんの心情はともかく、出前の話はしてほしかったろうさ」
「だから、うるせェってんだよ。お前らはよ」
「あーあ、もう見てらんねェな。これだから男親は」
「まったくよ、年頃の娘の気持ちなんて分かりゃしねぇんだから」
「……お前らに言われたかねえよ」
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