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優しい月と、江戸のまち  作者: 伊那
三幕.月に叢雲
39/52

「……ますか? 自分の名前は言えますか?」

 女の人の声がする。若い声で、優しそうで穏やかだった。

 また、咳きこんでの目覚めだ。「大丈夫ですか?」という女性の声がして、背中をゆっくりとさする手があった。

「……背中、痛い」

「あぁっ、ごめんなさい!」

 背中は最近打ちつけた記憶がある。白い靄のような意識の中、ゆっくりとわたしが持ちあがる。

「そうだっ、居待く……っ」

 最後に見た時、ひどく眉をしかめていた。あのひとは。

 ここは、どこで、どうなったのか。

 起き上がろうとした瞬間、大きく頭が痛みだした。すぐに誰かの手に助けられ、わたしは重い頭を手で支えた。

「無理しないでください、あなたは大変な目に遭ったんですから」

 女性の気遣うような態度と、気絶する前に見た景色との違いで、ここがもうあの屋敷ではない事が分かった。わたしはまた助かる事が出来たらしい。

「あ、あの、女の子は見ませんでした? 髪を二つに結わえていて、躑躅色の着物の」

 まだ痛む頭と体の節々。屋敷の庭に放り投げられた時には背骨が折れたかと思ったが、大したものではない。

 顔を上げると、そこには空色が広がっていた。思っていたより若い少女が、空色の着物に身を包んでいる。紫紺(しこん)の髪を二つに束ねた十代ぐらいの少女。肩には稲穂と(くわ)、太陽をあしらった隊章が輝いている着物だ。空色の揃いの着物で分かった。彼女は、狼士組だ。

 つまりここは狼士組に守られた場所。周りを見回せば室内にはもう一人空色の羽織を着た者がいて、戸の向こうから人の声や物音がした。

「さあ……救出されたのはあなた一人だって聞きましたけど」

 彼女が首をかしげると、二つにしばった長い紫紺の髪が揺れた。

「え……そんな、そんなはずは」

 最悪の事態が頭をよぎる。

 あの時は分からなかったが、何者かが煙玉を投げ込んで、煙幕をはった。今ではそうと思い当たる。誰か、わたしたちを助けに来てくれた人がいたのだ。

 あの煙幕の中、わたしもしばらくは意識があった。屋敷の男たちのうめき声や悲鳴が上がったような気がする。あれは、誰かに攻撃されていたという事だ。もしかすると内輪もめだったかもしれない。あれほどの混乱の中においては、誰が誰かを認識するのも危うかったはず。その中で、あの華奢で可憐なあの子は――

 体中から、血の気が引いて行く。

 寒い。

 思わず両手で肩を抱くと、自分の体に体温を感じなかった。

「はわわ、ええっと、元気出してください……っ。私、現場には行ってないんでよく知らないんですっ。現場に駆け付けた隊士に話聞いてきますからっ」

 わたしの顔色があまりにもひどかったのか、その女性隊士はうろたえ出した。踵を返して飛び出そうとした彼女は、すぐに何かにぶつかった。

「わぷ」

 正確には、誰かに。紫紺の髪の隊士の進行を阻んだのは、同じく女性隊士だった。橙色の髪と少し長い鉢巻を揺らして、自分にぶつかってきた少女の肩を掴む。

「そんな騒がんとき、こより」

「炯ちゃん」

 勢いよく相手にぶつかった少女は鼻をおさえて同僚を見た。冷静そうな眼差しが、そっけなさそうにも見える美人。しかしわたしは、彼女が情に厚い人物だと知っていた。以前とある事がきっかけで知り合いになった狼士組の、炯さんだ。

「ほんで優月、安心し。あんたと一緒に捕まっとった娘は一人で歩ける状態やったから、先に家に帰したで」

 炯さんの言葉がわたしの頭に染み込むのに、少し時間が要った。

「それじゃ、居待くん、無事なんだ……」

 よかった。

 勝手に出てきた長い吐息と共に、力まで抜け出ていった。しばらくは何も出来そうにない。

 炯さんにこよりと呼ばれていた女性隊士が、わたしにお茶をくれた。寝起きのせいで喉が渇いていたので、ありがたくちょうだいした。わたしがお茶を飲み終えるのを待っていた炯さんが、ばつの悪そうな顔をしている。

「あんな、あんたをゆっくり休ませたいのは山々なんやけど、出来れば話聞かせてもらいたいんよ……調書かかなきゃあかんねん」

「わたしも、あの人たちの事が聞きたいです。わたしたちを閉じ込めてた人たちは、どうなったんですか?」

 途中で気を失ったために屋敷がどうなったのかは分からない。事件に巻き込まれた本人なのだから、少しは事情を聞いたっていいだろう。炯さんは鷹揚に頷いた。

「全員お縄をちょうだいした……ゆえたらよかったんやけど、そない上手くいかんかった。何人かは逃げ出したようやった。首謀者もや」

「……そうなんですか」

 わたしも薄れゆく意識の中で、元や鉄という男たち以外の者が騒いでいる声を聞いた。煙の中の騒乱で、逃げ出そうと思う者がいてもおかしくない。指導者を誰よりも先に脱出させようと思う者もいただろう。

「どうも密偵がおったんちゃうかって話やねん。そいつのせいで屋敷は混乱に陥った。とにかく煙を出してけったいな屋敷をうちら狼士組が見つけて、突入したんよ。元々、狼士組でも呼びあうのに狼煙玉を使っとるし、気づくのには遅れんかった」

 わたしが元に放り出された先は庭だった。煙が屋外に漏れていれば目立っただろう。

「多分、ですけど……わたしは誰かが屋敷に飛び込んできたような、その人が屋敷の人たちと争っていたような気がしたんですが」

 炯さんは少し難しい顔をする。

「それが屋敷に潜り込んどった密偵か、密偵にそそのかされでもして方針を変えた内部の人間なんとちゃうかな。あんたと一緒におった娘も似たような事ゆうとったけど、煙幕で相手の姿までは見えんかったゆうとるし」

 密偵がどこの所属かは知らないが、元たちのやろうとしている事を阻止するためにもぐり込んだ者がいたのかもしれない。

「一体誰だったんですか?」

「分かっとったら話しとるわ。多分、逃げたんちゃうかな。捕まえたやつは騒動に気づくのが遅なって逃げそびれ、だからこそ戦闘に巻き込まれへんかったし、無事やった。戦闘に巻き込まれたやつは……何か知っとっても、意識が戻らんままや。捕まったやつらの中に密偵がおってしらばっくれとる場合もあるかもしれんが……あいつらを吐かせるんは、狼士組(うちら)の仕事やない」

 炯さんが言うには、捕らえた者たちの手当てが済み、簡単な調書が取れ次第、江戸城直参の役人たちに身柄を預ける事になっているのだとか。

 ふと、少し前から江戸城の役人たちが城下をうろついていた事を思い出す。まるで、今回の事件を予想していたかのように現れた男たち。それは正解で、反乱を恐れて配置したのか。

 いずれにせよ、何かが大きく変わる時には警戒が必要だと知っていたのだろう。わたしももっと気を遣うべきだったのかもしれない。

「あんたを助けたやつは相当の手練(てだ)れやな」

 炯さんの声に顔を上げる。彼女は返事を欲していたのではないようで、わたしが何か言わなくても気にした様子はなかった。

 狼士組が駆け付ける前に現れた人物。それはいつかの夜を髣髴とさせる。突然現れて、突然消えてしまう影。似た状況だから思うのかもしれないが――

「また、助けられちゃったのかな……」

 もしかしたらあの夜助けてくれた人が、密偵だったのかもしれない。たとえば以前からあの屋敷の動向を探っていて、だからこそどの現場にも居合わせた。わたしを二度助けたのも、ただの偶然かもしれない。

「なんて?」

「ううん、なんでもないです」

 炯さんが尋ねてきたが、わたしは首を振った。

 たとえ偶然でも、助けてもらったのだ、一度会ってお礼が言いたかった。難しい願いだとは分かっている。密偵だったらのん気に町の往来を歩かないだろうし、もし元たちの仲間だったのなら捕まっているか江戸から遠く離れているはず。

 落胆のような諦めのような、長いため息がこぼれた。

「でも、反乱が未遂に終わってよかったです」

 わたしが安心したように言うと、炯さん少し眉を寄せた。

「……その事なんやけどな、あんた、あんまり具体的な事口外しないでもらえんかな」

「構いませんけど……なんでですか?」

 気絶をしてしまったわたしの知る事など少ない。何かを問われたところで、わたしが答えられる事などあまりないと思うのだけど。

 炯さんはどういったものかと思いあぐねているのか、視線をさまよわせていた。

「新たな争いの火種になるかもしれないから、だ」

 急に見知らぬ男性の声が飛びこんできて、わたしは少し驚いた。

 狼士組揃いの空色をまとっている事で狼士組だと分かった。ぼさぼさの黒髪に、左目の下の傷痕が目立つ、どこか荒っぽい印象の大柄な男性。首には短い鉢巻のようなものを巻いている。表情に覇気は見えず、疲れて見えた。彼も狼士組なら、事件の事後処理に追われて疲労しているのかもしれない。

(とび)さん……」

 炯さんに名を呼ばれ、男性は彼女と目くばせをした。その後、近くにあった椅子にどっかと腰をかけると、腕を組んで口を開く。

「一番隊の鳶彦(とびひこ)だ。大変だったな嬢ちゃん」

 手短に自己紹介をすませると、鳶彦さんは早速切り出してきた。

「瓦版屋ももう嗅ぎつけてるみてえだが、今回の首謀者が誰かまでは知らねえだろう。嬢ちゃんにも知らないままでいてほしい」

 どうやら鳶彦さんは鉢巻の短さからして炯さんよりも立場が上。狼士組では階級によって鉢巻の長さが違う。あえて上の人が釘をさすほどの事があるのだろうか。

「捕らえたやつらから首謀者の名は知れた。かつては江戸城勤めの高名な幕臣だった。今では逃亡中の国賊だがな」

 具体的にその名前までは言わない鳶彦さん。あの物置で、元だったか鉄だったかが口にしていた頭領の名前をわたしは思い出そうとして、やめた。むね……なんとかだったのは覚えているのだが、はっきりとは記憶出来ていないのだ。それに、鳶彦さんは知らないままでいてほしいと言うのだ。このまま思い出さない方がいいのかもしれない。

「捕まらないままの方がいいかもしれねえな。やつは反羅刹派の頭だ、捕まって処刑されれば反羅刹派の怒りを買う。下手すりゃ、大名殺しを旗印にやつらの挙兵の機を作っちまう」

 どこか面倒くさそうに鳶彦さんは嘆息した。

 故あっての事でも処刑してしまえばその者の部下の反感を買う。武装蜂起を企んだ者の集まりだ、泣き寝入りするだけとは思えない。主犯の大名の名が世に知れてしまえば彼らを追いつめる事にもなるかもしれない。

 名前を伏せて、未然に終わったものだと、なかった事にしてしまえば、新たな諍いの種は育たない。もしそうならなかったら――江戸城は逆賊を迎え討たねばならない。やっと羅刹との争いが終わったのだ、また別の戦いの理由を作る事もない。

「……分かりました。今回の事は、わたしの胸のうちだけに留めておきます」

 わたしは平穏に暮らしたい。だからもうおかしな事に巻き込まれるのはごめんだ。以前のように事件の噂話に耳をそばだてるのもやめよう。居待くんとも事件の詳しい話はしない方がよさそうだ。そういえば、彼は今どうしているのだろうか。炯さんは一人で家に帰ったというから、怪我はなかったのだろうけど、それでも心配だ。

 小さく息を吐いたような、かすかに笑ったような音が聞こえてわたしは視線を上にした。そこには苦笑する鳶彦さんの顔があった。

「悪ィな、こっちの都合ばっか押しつけて。だが嬢ちゃんの身を守るためでもあるんだ」

「分かってます。わたしは、知りすぎたから彼らの注意を引いてしまったみたいですし……」

 元が何度かそう言っていた。秘密を抱える者はそれを知られた時に危機に陥る事もある。だから知ってしまった者を消そうとするのだ。自分たちを守るために。

「そういう訳だから、しばらく嬢ちゃんのところには狼士組(うち)のもんをよこす。家に戻る時も炯に送らせる」

 そこまでしてもらわなくても、と思ったが万一に備えたいらしい。

 結局わたしはしばらくして、打ち身以外に不調はないので炯さんと一緒にその詰め所を出た。

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