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優しい月と、江戸のまち  作者: 伊那
三幕.月に叢雲
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33/52

 この日、爽亭は休みだったというのに、訪問者が多かった。

 一階の店では、部屋からおりてきたわたしを気遣ってくれる人々の歓待を受けた。わたしに怪我がないのは分かっていたのに、みんなまだ体調を気遣う言葉をかけてくれた。

 とはいえ、こっそり仕事を抜けだしてきた四郎さんや翔くんはしばらくすると帰っていった。火消しの長さんは非番の日だから一杯やっていくと居残った。

 夕方近くには話を聞き付けたらしい胡桃(くるみ)ちゃんあんずちゃんももちゃんという、わたしと同世代のお客であり友人でもある三人娘たちが来てくれた。一体どこから話を聞いたのだろうと訊ねてみると、同じ尾形町に住んでいるももちゃんが昨夜のちょっとした騒ぎを耳にしたそうだ。単に、ある一軒の食事処に意識不明の少年が運びこまれた、という話だったが、まさかとは思ってももちゃんは爽亭の近くまで足を運んだそうだ。するとそのまさか、爽亭の明かりがついているのに暖簾はおろされ、出てきたお客もいる。女の子連絡網は翌日にはまわり、いつもの三人で何があったのか聞きに来た、という訳だった。

 という事で彼女たちは正確にはわたしに何が起こったのかを知らずに来た。わたしの方も、昨夜の爽亭の様子を知る事が出来て、何故か情報交換をする形になったのだった。

 わたしは、昨日の事を出来れば大袈裟に扱ってほしくなかった。人斬りの場面に出くわしたのは事実だが、結果的にはわたし自身に何の損害もない。

 だから、胡桃ちゃんたちにも変に話を広げないでほしいと伝えておいた。実際、被害に遭ったのはあの殺された男の人だけなのだから。

「何かの噂にでもなって、また事件に巻き込まれても、コトだしね」

 あんずちゃんはそんな風に言って、彼女たちも友人の不幸を騒ぎ立てるようなつもりはないと約束してくれた。

 でも心配した、と言ってくれる胡桃ちゃんたちにはうれしかったが、若い娘が集まると話はとどまる事を知らず、ただのおしゃべりになっていた。それを打ち切りにしたのは朝陽で、そろそろ爽亭を出ようとしていたため、胡桃ちゃんたちも他に用がないのならそろそろ出ようと促した。

 彼女たちを見送る時には互いに「気をつけてね」を言い合った。本当に現実的な意味で。


 日暮れ前には、立待ちゃんが一人で爽亭(みせ)にやって来た。彼女も話を聞いて来たのかなと、心配してくれた事がうれしかったのだが、落ち込んだ立待ちゃんの顔を見ればそんな事思っていられなかった。

 わたしの無事を確認したあと、立待ちゃんは暗い顔で俯いた。

「やっぱり、あの時自分が付き添っていれば……」

 昨日は立待ちゃんの屋敷を出た後であの事件を目撃した。しかも、暗くなっていたから送って行く、という立待ちゃんの申し出を断った後で。生真面目で人の好い、素直な性格の立待ちゃんだ。彼女が自分のせいで友人が事件に遭遇したと思いこんでも無理はない。たとえ立待ちゃんには何の非はなくとも、彼女はそういう性格のため自分を責めているのだ。

「えええごめん、そんなに気に病まないで?」

 よどんだ空気のようなものを背負いながら、立待ちゃんは下を向いたまま。

「自分は未熟者ですが、少しは剣術が使えます。優月さんを危ない目に遭わせるようなことにはならなかったはずです」

「別に怪我したわけじゃないんだから……。勝手に道に迷ったのはわたしの方だし」

 そもそもわたしが迷子になったのは、役人たちを避けようとしたからで、元をただせばわたしが悪いのかもしれない。

「それこそ、爽亭からうちまでの道のりが遠いのは分かっていたんですから、道を間違えてしまう可能性も、ちゃんと考えていれば軽々しく出前なんて……」

 どうしようこの子。責任感が強すぎる。

 確かに昨夜は恐ろしいものを目撃した。自分も死ぬかと思った。けれどなんとかそれを逃れ、こうして普段通りに過ごす今は、喉もと過ぎればなんとやら。正直、けっこう気にならなくなっていた。顔見知りが立ち替わり入れ替わり来てくれて話をするうちに、元気をもらえたみたいだ。

 どうしたら立待ちゃんの気が晴れるのだろうか。少し考えて、わたしはひとつ提案する。

「じゃあ今度、また一緒にお出かけしようよ。外に連れ出してくれた方が、気分転換になってうれしいな」

 最近、一日をお出かけに費やす日がなかった。店の買出しに行くついでに少し寄り道する事はあっても、あの秋の日以来友人と出かけてはいない。

「え、でも……」

 それって何か違うんじゃ。そんな立待ちゃんの疑問が透けて見えるけど、わたしは例の恰好よく見える(らしい)笑顔を浮かべてごり押しした。

「それがいいよ。一人になると危ないなら、一緒に遊ぼうよ」

 自分でもちょっと何言ってるか分かんない。予想に反した事を言われたせいか、立待ちゃんはたじろいでいた。

 結局、わたしの様子がほとんど普段通りだったのもあってか、立待ちゃんの表情もだいぶましなものになった。

 けれど彼女は父さんが用意したお茶には少しも手をつけずにいた。

「しばらく出前をお願いするのは控えますね。昨日の食器なども、後日自分が持ってきますから」

「忘れてた。取りに行きたい――けどダメなんだね、分かった」

 爽亭の荷物を爽亭の人間が取りに行く、と言おうとしただけなのにちょっと睨まれた。本当に真面目さんなんだから……。

「居待にも、出前はしない事って伝えておきますね。昨日から出かけているので戻ったらになりますが」

 その名前を聞いた途端、わたしの心臓がひとつ飛び跳ねた。いつも二人でいる事の多い浅葱姉弟が、今日は一人だったのを、わたしはほんの少し残念に思っていた。不謹慎かもしれないが、あの人も、少しは心配してくれたらなんて――浅はかな事を思っていたのかもしれない。

 でも用事があって家をあけているのなら、友人の巻きこまれた事件なんて知らないだけかもしれない。だから特にわたしの事がどうだっていい訳じゃないと信じたい。

 どうだっていいのかもしれないけど。

 わたしは無事だったんだし。

 結果だけ見れば、何も心配するような事はない。

 わたしのような人間の事は、どうだって、いいんじゃないか。

 一人で過分な期待をしていたような気持ちになって、急に恥ずかしくなる。

 やっぱりわたしなんて何とも思われていないんだ。

「……優月さん? 大丈夫ですか、なんだか顔が赤く……やっぱり、お加減よろしくないのでは」

「違うから。大丈夫! 居待くんにもよろしくね!」

 責任感の強い真面目な少女がくもった顔をしたので、慌ててわたしは手をぶんぶん振った。


 立待ちゃんを見送る頃には宵が近く、店先に出ると薄暗かった。それこそ小柄で年若い少女が一人歩きするには心配だったが、彼女の家は剣術道場を持ち、どうやら彼女自身も剣術を扱えるという話だ。たぶん、問題ないんだろうけどちょっと心配になる。何しろ見た目がほとんど中性的な可愛らしい男の子、という容姿なのだから。せめて明かりを、と考えたところで思い出す。

「そういえば、わたし、事件のあったところに立待に借りた提灯落としてきちゃった」

 今もあの場にあるかどうか。立待ちゃんは「構いませんよ」と気にした様子はない。その代わりといってはなんだが、わたしも提灯を貸す事にした。ちなみに希望したお客さんには貸している、営業にもなる店名入り提灯だ。すぐに用意出来るのはそれしかなかった。

「それでは、今度は自分がお伺いしますね」

「うん、それじゃあね」

 来る時はひどく悲観したような顔だった立待ちゃんも、少し笑顔を見せてくれるようになった。うんうん、女の子は笑顔が一番。

 軽く手を振って立待ちゃんを見送る。ほの明るい提灯の光が、ゆっくりと小さくなってゆく。外は寒かったが、なんとなく立待ちゃんの明かりが見えなくなるまで立っていた。

 一瞬、何かの気配を感じたように思えた、わたしは顔を動かす。立待ちゃんの向った方角ではないが、どこかから人の視線をもらったような――。

 宵の頃、まだ人足はある。だから通りすがりの人が意味もなく視線をわたしに移しただけかもしれないが、なんとなく落ち着かない気分になった。どこか覚えのある“それ”は湿り気を帯びてはいなかったか。

 思い出すと、ぶるりと背筋がふるえた。

 気のせいだ。昨日、あんな事があったばかりだから、人の視線に過敏になっているのだろう。

「気のせい、気のせい――」

 努めて明るい声を出すと、わたしは自分に言い聞かせてから店の中に戻った。

 やっぱりまだ、記憶は古くなっていないのだと、わずかに唇を噛んだ。

「自分は未熟者ですが、少しは剣術が使えます」

※立待ちゃんは謙虚。

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