三
夢かもしれないと、忘れようとしたものがよみがえって、頭が重くなった。
あの血の量。暗がりの中でも分かるくらいに大量の血が大地にまかれていた。
どちらがそうしたのか分からないが、あの場に男は二人いた。
一人の男を殺した、二人の男。
吐き気にも似たものがこみあげてきて、わたしは床に座り込んだ。
「だ、大丈夫?」
朝陽のうろたえたような声。
気持ちが悪い。
わたしはまだ、親しい身内や知人の死にだって立ち会った事はない。お葬式だって出てもいない。
見知らぬ人の、しかし生々しい死。
けれど幸い、夜の事で記憶は鮮明には浮かんでこない。
「だいじょう、ぶ……」
わたしに落ちる影に顔を上げると、父さんが渋い顔をして羽織を肩にかけてくれた。そういえばわたしは、いつ着替えたのか夜着だ。誰かが着替えさせてくれたのか。
そうだ、あれからどうなった?
わたしはどうやら気を失ってしまったみたいだけど、何者か分からない男たちが二人、刀を構えてわたしに向けたのまでは覚えている。その後、どうなってしまったんだろう。 まだ記憶は完全ではない。何が起きたのだろうか。どうしてわたしはあの場所から脱出する事が出来たのだろうか。
「お前ら、騒ぐなら下に戻ってろ。朝ちゃんは優月の面倒見てやってくれねえかな」
家族である父さんも、わたしの部屋に遠慮はしない。けれど男性陣にそう告げると自分も部屋から出て行った。
「何か食うもん、作ってくる」
背中で言うと父さんは階段をおりていった。その他の男性陣はまだそこに残りたそうな顔をしていたけれど、朝陽に睨まれて視線を泳がせる。
「優月ちゃん、おじさんたち下にいるからな? 何かあったら言えよ?」
四朗さんはやや強張った笑顔で優しい声を出し、長さんは四朗さんに同意するようにぶんぶんと首を縦に振る。それから翔くんは――ちょっと涙目になっていた。
男性陣が立ち去ると、朝陽はわたしの部屋の戸を閉めた。
「……どのくらい、覚えてる? 昨日の事」
振り返らないまま、朝陽は尋ねた。
わたしはまだすべてを思い出した訳ではない。思い出したくもないが、あの男たちが――殺人鬼たちがまだ捕まっていないのなら、思い出す必要があるだろう。
羽織を胸の前に引き寄せて、わたしは座ったままで記憶をたぐる。
「たしか、あの時……」
見知らぬ場所に来てしまい、人に道を聞こうとしただけだった。
「男の人が、倒れてた。襲った方が二人で、わたしにも刀を向けてきて、それで――」
わたしは言いよどむ。
「つらいなら、言わなくていいの」
振り返った朝陽が痛みをこらえるような顔をしていた。気づかいはうれしいけど、ちょっと違う。わたしは首を横に振る。
「ううん、覚えてないんだ。誰か他の人が来たような気がするけど、上手く思い出せなくて」
男の一人がわたしに刀を振りかぶったあたりまでは覚えている。そこからは意識もおぼつかなかった。
わたしの隣にすとんと座ると、朝陽は鞄から手帳を取り出した。
「……それはあってると思うわ。現場にかけつけた狼士組によると、たぶん下手人じゃない人が、狼士組のたどり着く寸前までいたって話だから」
いつ朝陽が、わたしの身に起こった事を知ったのか。既に事件の調査をはじめているようだ。
「その第三者が介入した事で下手人は逃げ出したんじゃないかって。そもそも、狼士組が駆け付けたのも、仲間同士で呼び合う時に使う笛の音みたいな音が聞こえたから。もし同じ狼士組なら仲間を呼んでおいて逃げ出すはずはないし、下手人なら笛を吹いたりはしないわよね」
それもそうだ。もしその人がわたしを助けてくれたのだとしたら、どうしてそのまま狼士組に事情を話さなかったのだろうか。何か事情でもあるのだろうか。下手人、あるいは殺された人と面識があった、とか?
「あの……亡くなった、男の人は、一体誰だったんだろう……?」
「……さあ。あたしには、教えてくれなかったわ」
自分の手帳をめくるまでもなく、朝陽はどこか不満げに言った。
「でも、少なくともただの町人じゃないからこそ、教えられなかったのかもしれないの」
あえて隠すには、理由がある。朝陽はそう言いたいのだろう。殺された人が身分ある人だから、とか。
「下手人の正体も分かってないの」
「そっか……。じゃあ、はっきりしている事は少ないんだね」
そうなのと続けた朝陽は、はたと口を閉ざしてしまった。障子戸からもれる冬のやわらかな日差しを眺めるようにして、朝陽はつぶやく。
「ごめん。昨日の今日でこんな話、したくないわよね」
ひどく深刻な顔をしている訳ではなかったが、朝陽は少し申し訳なさそうだった。
「気にしないで。頭の中整理した方が、なんか楽っていうか……」
そう告げると、朝陽は「そっか」と小さく苦笑した。ずっと座っていたら足がしびれてきたので、全身の筋をのばすため立ち上がる。両腕を伸ばして体をほぐすと、肩にかけていた羽織が床に落ちた。自分の考えに没頭していたらしい朝陽が一拍遅れて、わたしの羽織に手を伸ばしたが先にわたしが拾った。
朝陽はまた、障子戸に視線を向け、目を細めた。
「まさか……下手人は羅刹……ってわけじゃ、ないわよね」
羅刹との和平が結ばれた後に起きた事件だ。関連付けて考えてしまうのも無理もない。それに、朝陽は母親を羅刹に殺されている。それでさっきも肩を震わせていたのだろうか。母の事件を思い出して――。
この話を、このまま続けてしまっていいのだろうか。親友の傷をえぐる事になるのではないか。朝陽まで、危ない目に遭うような事にならないか。
それでも自分なりに考えてみた。羅刹とヒトは、ぱっと見ただけではすぐには違いが分からない。江戸にはほとんど羅刹がいない事になっているが、身を隠している者もいないとは限らない。
「……どうだろう。逆に殺された人は羅刹だったりして」
「あ、それはないみたい。そこは調べたって」
すぐに朝陽は否定する。
羅刹との和平に反対する者がいるから、羅刹をよく思わない人によって殺されてしまったのではないか――そんな風に推測してみたが、外れたようだ。
「まだ一日しかたってないし、何かが分かるのはこれからかもしれないわね」
ぱたん、と自分の手帳を閉じると朝陽は立ちあがった。
「あんたもお腹へったでしょ。人間体が資本よ、何か食べないと」
どうやらこの話はここで終わり、という事らしい。
そういえば父さんが階下で料理を用意すると言っていた。いろいろな事がありすぎて忘れていた飲食だが、確かに少しは何か食べたい。簡単に着替えると、わたしは朝陽を伴って部屋を出た。
「ところでもうお昼近く? わたしどのくらい寝てたんだろ」
「昼九つの鐘はとっくに鳴ったわ。当然お店は今日一日臨時休業よ」
数少ない従業員がいないのだから、それは当然の事。とはいえわたしは別に病人ではないのだし、お店を休みにさせてしまったのが申し訳ないくらいだった。
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「ちょっ、お前それ泣いてんの?」
「なななな、泣いてねーし! 心の汗だし! 目から鼻水だし!」
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昼九つ……正午。昼十二時。




