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優しい月と、江戸のまち  作者: 伊那
一幕.はじまりの予感
11/52

十一

 息をする事を思い出したのは、居待ちゃんの一声がきっかけだった。

「橋は、この近くにありますか?」

 しかも、ゆきの言っていた手がかりのうちの最後一つが揃っているか確認をするような内容。問われた屋敷の青年は居待ちゃんの存在にやっと気がついたような顔をして、しばらく後に返事をした。

「あ、ああ……ある、けど」

「……今更、ですけどね」

 居待ちゃんは自分で自分の言葉に呆れたような声を出す。確かに屋敷に駆けつけたゆきの態度を見た後で、橋とか寺とか山茶花だとかは、些細な事にしか思えない。

 そんなゆきも、跡形もなく消えてしまった。

 これは一体どういう事だろう。

「教えてくれないか、何があったんだ……」

 青年の方も同じようで、懇願するような瞳をわたしたちに向けてくる。

 だからわたしはかいつまんで、ゆきと出会った時の事を語り始めた。江戸の町に雪が降り始めた頃に現れた女の子。人を探していると言って、一緒に歩いている時もすぐに見えない場所へ行ってしまうために目が離せなかった。雪がやむと、段々と元気がなくなっていったゆき。思えば、あんなにも世間知らずだったのも、雪うさぎだったから、日が出てすぐに溶けてしまうから、何も知らない赤ん坊のようにまっさらな状態だったのかもしれない。

『はやくしないと……』

 そう言う彼女は、自分の身が何で出来ているのかを、日が出ると溶けてしまう事を、知っていたのだろうか。

 それとも、自分の探していた人を見つけるという念願が叶ったから消えてしまったのだろうか。

 雪なのに、溶けた水も落とさずに、何の名残も残さずに。

「本当に、今でもわけが分からないよ」

 話をすべて聞いた後でも青年は、夢から覚めたばかりのような顔をして、軽く頭を振る。

 彼の方の話も少し聞いた。確かに青年はいつからか冬になって雪が積もると、雪うさぎを作るようになっていたと。最初は何の気なしの行為だったが、つい雪と南天の木の組み合わせを見るとそうするのが当然のように思えたらしい。少しだけ一人言を聞かせた時もあった――彼の表現をそのまま借りるなら一人言らしいが、たぶん雪像に話しかけたとは言いづらかったんだろう――と言う。

 説明をしあって互いにすべてが一致した。それでも理解を超えたような出来事に、当惑は消えてくれなかった。

「……でも……」

 ここではないどこか遠くを見つめる青年の横顔は、何かを懐かしむようなものに見えた。その口の端が、少し上がる。

 それだけで、わたしには充分だった。ゆきは、あの雪うさぎの少女は、何も残さず消えた訳ではないのだと、分かったからだ。


 日暮れ時が近く、わたしたちは屋敷を後にする事になった。屋敷の彼とはなんとなく挨拶らしい別れも注げる事はなかったが、向けられた瞳は穏やかだったから、もしかしたらまたどこかで会う機会もあるかもしれない。例えば、雪の降る冬の日なんかに。

 居待ちゃんと、二人並んで歩く。どちらも何も言わないけど、立待ちゃんの待つ茶屋に向かっているはずだ。しばらく、会話というものはなかった。

 ほう、と居待ちゃんが吐息をもらす。

「……世の中、不思議な事もあるものですね……」

 何と言って答えたらいいのか。分からなくてわたしはただ肯定だけをする。

「うん……」

 夕暮れの日差しは弱々しくて、江戸の町を照らすには充分じゃなかった。ゆきの事が未だにわたしの頭の中を占めていて、なんだか薄暗くなってくる事すらさびしく思えてきた。

「もうすぐで、姉上との待ち合わせの場所に着きますわ」

 そう言った居待ちゃんの声も遠くに聞こえる。

 本当に彼女は雪そのもので、たった少しの間しか一緒にいられなかった。もっとわたしが早くに行動に出ていたら、風邪なんて引いていなかったら、ゆきはあの青年と長く一緒にいられたのかもしれない。そう思うと、余計に切なくなる。

 なんて考え込みながら歩いていたからだろうか――半端に溶けた雪の塊を踏んで、足を滑らせてしまった。

「っわ!」

 咄嗟に掴んだのは、居待ちゃんの片腕。なんとか均衡(バランス)を保って、わたしは転ぶ事なく済んだ。いつか光琳橋でした失態とほとんど似たようなもの。またか、と自分が情けなくなる。

「……大丈夫ですか?」

 転びかけたために前かがみになったわたしは顔を上げると、間近になった居待ちゃんの鶯色の瞳と出会う。わたしが居待ちゃんの腕にしがみついている形になったから、声にはやっぱり呆れたようなものが含まれているような気がする。必死だったとはいえ、腕と言わず肩のあたりまで居待ちゃんに密着しているのを思い出す。

「ご、ごめん」

 慌てて姿勢を正して両手を引っ込めた。わたしの方が居待ちゃんより年上なのに、居待ちゃんより背が高いのに、杖のようになってもらうなんて。間抜けな姿を見せてしまった。

「案外、そそっかしいんですね」

 とどめのようなため息に、わたしはこっそりと肩を落とした。


 茶屋に着いた頃にはすっかり日は落ちていた。立待ちゃんとは無事に合流出来て、わたしはこの日あった不思議な出来事について話さずにはいられなかった。

 話が終わると、立待ちゃんはなんとも複雑そうな顔をしていた。自分の目で見た事がないから、おとぎ話のような語りについていけないのかもしれない。

 話し終わったわたしは喉を潤そうと頼んだお茶に手を伸ばす。お茶が出されてから随分時間がたったので、お茶はぬるくなってしまっていた。

「本当に……なんていうか、不思議としかいいようのない話ですね……」

「そうだよね……」

「でも、自分も会ってみたかったです、その方に」

 妹の居待ちゃんも見たものだから、立待ちゃんも信じてくれる気になったらのだろうか。

「あ。そうだ。ちょうどこのお店で“雪うさぎまんじゅう”っていうものを出しているそうなんですよ。持ち帰りも出来るみたいだから、頼んでこようかと」

 そう言って立待ちゃんは立ち上がった。わたしもついて行こうとしたけれど、お茶と一緒に頼んだお団子にまだ少しも口をつけていないのを思い出す。ご飯処の娘として、出されたものを少しも食べないで席を立つという事には抵抗がある。それを言うなら団子に手をつけずにずっとしゃべっていたのもどうかと思うけど。もちろんこのまま帰る訳じゃないからまた戻ってこればいいだけなんだけど。

 立待ちゃんの隣に座っていた居待ちゃんも座ったままだったから、わたしもしばらくは席から離れない事にした。お団子を食べてからだ。白いお団子の上につぶあんの載っただけのもので、半日歩き通しだったからとっても美味しそうに見える。居待ちゃんも同じものを頼んでいたけど――

「……居待ちゃん、あんこ、ついてるよ?」

「本当ですか」

 ほっぺたにあんこの粒がくっついてしまった居待ちゃん。困ったように眉を寄せて口元に手をやるけど、なかなかあんこが拭えていない。なんとなく、普段の凛とした空気や隙のなさそうな雰囲気からは遠く離れたかわいらしい姿だったから、わたしは微笑みながら手を伸ばした。一瞬、居待ちゃんが身構えたようだったけど、わたしの伸ばした手は彼女ではなく彼女の湯のみにぶつかってしまう。

 あっと思った時には、お茶が居待ちゃんの着物にこぼれてしまった。

 わたしは開いた口がふさがらなくて、悲鳴を上げる事すら忘れてしまった。

 居待ちゃんの湯のみの中身はわたしのお茶と一緒で高い温度ではなかったはずだから、火傷の心配はないけど、なんて事をしてしまったのだろうか!

 机の上にあった布巾を掴んで、慌てて居待ちゃんに駆け寄る。

「ごめんなさいっ!」

 転びかけた時といい、今といい、なんて失敗ばかりを繰り返してしまうんだろう。床に膝をついて居待ちゃんの着物のお茶の染みに布巾を当てる。

「ちょっ……やめ、」

 ぎょっとしたような声がした。お茶は躑躅色の着物だけじゃなく、きれいな帯留めのしてある帯まで侵食していた。ああもう、本当にわたしってどうしようもない。

「あの、離れて」

「火傷はないよね? 熱くなかった? 着物脱いだ方がいいんじゃない? あっでも女の子なんだからこんなところで薄着なんてよくないし」

 うろたえるあまりに頭の中がごちゃごちゃになっていた。言ってる事も考えての言葉ではなく、反射的に言っているようなもの。居待ちゃんの胸元に布巾をあてた時に、どこか逼迫(ひっぱく)した声が上がる。

「いいから離れてください!」

 どこからどう見ても若い男が若い女の子に跪いてすがりつく構図にしか見えないと気づかないまま、わたしは居待ちゃんから手を放した。

「どうしたんですか?」

 騒ぎを聞きつけたのか戻ってくるところだったのか、立待ちゃんがやって来た。

「立待……」

 机の上に転んだままの湯のみとそこから伝うお茶、それから居待ちゃんの着物の染み、布巾を片手に居待ちゃんに迫るわたし。これらを見ればなんとなく事態を察する事が出来るだろう。立待ちゃんは机の上、居待ちゃん、わたしの順番で視線を移し、転がった湯のみに手を伸ばし立たせてやった。

「落ち着いてください優月さん。居待はお茶をかけられたぐらいじゃ怒りませんよ。故意ではないんでしょうし」

 でも、顔を上げればぶつかる鶯色の瞳はどこか苛立ったように見えるし、わたしの事が迷惑そうだ。床にうずくまるようなわたしの元に、立待ちゃんの冷静な声が落ちる。

「それより居待は男ですから、優月さんにあちこち体を触られるのは苦手だと思いますよ」

 その言葉がわたしの頭に行き着くには、たっぷり時間が必要だった。

「……………………はい?」

「ですから。腕とかならまだしも、胴体は……」

 淡々とした立待ちゃんの応対。表情もきりりとした普段のまま、何の問題もどこにもないと信じきっている顔。

 でもおかしい。わたしは今、聞き捨てならない事を耳にしてしまったような気がする。

「そっちじゃなくて。その前」

 立待ちゃんは少し考えるように眉を寄せて、小首を傾げる。

「……居待は男ですよ?」

 立待ちゃんはなんと言った?

 意味が分からない。

 イマチハ、オトコデスヨ?

 だって居待ちゃんはとっても可愛らしくって小柄で女の子で――

 せめて本人が否定してくれれば、わたしは立待ちゃんの言葉を信じたりはしなかっただろうに。

 隣からは不機嫌そうな気配がするだけ。

「え、え、え」

 横を向くには、多大な勇気が必要で、わたしにはそれがなかった。

「ええええええぇぇぇえっ?!」

 わたしの大声が、茶屋の外にまで響き渡った。

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