第8話 先送りにして得る『今』
十年前──夏空に響く遠雷のような静寂と衝撃と共に、父の訃報が届いた。遺体には、無数の掻きむしったような傷。爪は割れて剥がれ、頭部には何重にもぐるぐると包帯が巻かれ、血が滲み、赤褐色になって乾いていた。
最後に見たときの笑っていた父の面影はなく、顔はほっそりとして目は落ち窪み、深いシワとクマが残っていた。父の遺体を連れ帰ってくれた騎士は、短く告げた。
『ヴィダルさんは、ずっと一人で思い詰めているようでした。最近は落ち着きもなくなって、人が変わってしまったようで』
母は泣き崩れ、幼い自分はどうしていいかわからず呆然と立ち尽くしていた。母に代わって父の遺品を受け取り、じっと父の遺体を見つめていた。その首筋に、小さな白い薔薇の花のような痣があった。
あんなの、父さんの体にあったっけ?
けれど、傷だらけの体を見て、偶然できた痣だと思い込んでいた。その正体を知ったのは、母が衰弱して亡くなったあと……曾祖母に引き取られてからのことだった。
──カコンッ!
耳に飛び込んできた音にハッとして、体を起こす。テーブルの上には乾燥させた薬草が種類ごとに分けられて置きっぱなしになっている。どうやら袋詰め中に、うたた寝をしてしまったらしい。
小鳥のさえずりと、風に揺れる木々のざわめきしかない森に、また「カコンッ」という小気味良い音が高らかに響く。その音は室内にしっかり届いていた。
窓の外へ目を向けると、秋晴れの空の下、薪割りをしてくれているフォルの姿が見えた。まだ全身真っ黒ではあるものの、下半身も元の姿を取り戻し、丁寧に体の動かし方を確認しながら一本ずつ割っている。
冬までまだ期間はあるが、早めに備えておいて損はない。フォル自身が何か役に立てることはないかと、進んで買って出てくれた。思うようにならない不便な体に甘んじることなく、病人のように振る舞うこともない。彼は本当に勤勉で、感心するほどに働き者だった。
「フォル、そろそろ休憩しようよ」
冷えたハーブ水を準備し、外にいるフォルのもとへ向かう。こうして声をかけなければ休憩も取らず、延々と薪割りをし続けてしまう。フォルは、疲れたり飽きたりしないのだろうか。
「あり……がと……ノ、ルン」
フォルの口も、ようやく戻ってきた。食事や会話で、少しずつ口や舌、息の使い方を練習している。フォルの声は落ち着きがあって、柔らかい印象を受ける。例えるなら、ちょうど今吹いた爽やかな秋のそよ風のようだった。
二人並んで薪割り台の傍に腰を下ろし、ハーブ水のグラスを傾ける。言葉がないのが当たり前だったからだろうか、沈黙が続いても全く苦にならない。むしろホッとひと心地つくような、安らぎに近い感覚がある。
曾祖母が亡くなってからずっと、一人ぼっちで暮らしてきた。人と関わるのは街に出たときくらいで、友人と呼べる人は両親を亡くしてここに移り住むと共にほとんど会わなくなってしまった。
寂しいとは思っていなかった。そんなもんだと諦めたのか、納得していたのかもわからないほどに。
けれど今、この瞬間隣にいてくれるフォルの温かさが沁みてくる。小さな気遣いが、感謝が、労いが、優しさが、いつか終わってしまう日が来ることを……ほんの少しだけ惜しんでいる自分がいる。
フォルは『黒薔薇の呪術師』に呪いを依頼し、呪詛返しを受けたかもしれない人。絆されてはいけないとわかっているのに、相変わらず信じたい心だけが、水面に落ちた葉のようにふらふらと漂っていた。
「フォルはさ、呪いが解けたあとどうするの? 仕事してたんなら、だいぶ穴が開いてるよね……大丈夫そう?」
「うーん……そ、だな……」
これでフォルがどんな仕事をしていた人か、王宮関係者なのか聞き出せるかと思ったが、そう上手く事は運ばないらしい。彼は口を閉ざすと、じっと何かを考え込んでいるようだった。少なくとも即答できるほど、すんなりと帰ることのできる場所は残っていないのかもしれない。
「ごめん、ごめん! 困らせちゃったかな? 焦らなくても、ここを出るのは仕事を見つけてからとかでも良いからね」
それまで俯き気味だったフォルが顔を上げ、ふとこちらへと向く。呆けたように小さく開いていた口がそっと閉じ、少しだけ嬉しそうに弧を描いた。
「助、かる。いつ、も、親切、に、して、くれて、ありが、とう」
「大したことはしてないよ。自分の力が役立ちそうだったからって、それだけ」
フォルはフッと息を漏らして笑うと、こちらへと右手を伸ばす。そのままこちらの頭に触れると、くしゃくしゃと優しく撫でた。
「えっ……え!?」
何が起きたのかわからず、とっさに撫でられたところを両手で押さえる。気恥ずかしさと意味のわからなさに戸惑い、鼓動がけたたましく鳴り響いて体の内側を震わせていた。
「ノルン、は、よく、撫でる。労う、とき、褒める、ときも、全部」
「そ、そうだったね。でも、最近はちゃんとやめてたはずなんだけどな……」
「でも、してた。って、ことは……されて、嬉しい、ことだ、と、思って」
嬉しい……嬉しいからしてたんだっけ?
小さい子を褒めるような感覚だっただけな気が……
「やっぱり、違う、かも。触っても、ノルン、は、嫌、がらない。こんな、黒い、変な手、なのに。それが、ぼ、くは、嬉し、くて。嫌、だった、かな?」
別に特別でもないことなのに、嬉しそうにされてしまうとムズムズとくすぐったくなってしまう。フォルみたいな人なら、瘴気さえなければきっと理解して傍で支えてくれる人もいるはずなのに。
「それはまぁ、伝染るものじゃないし。私は瘴気にも耐性がある体質だから……」
所詮、体質が狡いだけだ。自分だって瘴気が命に関われば、軽率に近づくことはできなくなってしまうのだから。なんだか過剰な感謝を向けられているようで、少しだけ罪悪感を感じてしまう。
「それを、差し、引いて、も、だよ」
そこを引いたら何が残るのか、思わず首を傾げてしまった。『影の隣人』と契約を結んでいるからこそ、この体は瘴気に耐性がある。瘴気耐性以外にフォルを手助けできているのも、結局は契約の産物によって呪術方面に特化しているというだけに過ぎない。そうでない人間は、呪術に関して詳しくもなければ、瘴気に対しても基本的に耐性がない。そう、耐性がないはずなのだ。
フォルは、どうして自分の放つ瘴気に蝕まれなかったの……?
「ノルン、は、すごい。呪い、なんて、みん、な、知らない、のに。どう、して、詳し、い?」
フォルに尋ねられて、浮かび上がった疑問は霧散する。目の前の質問に答えなければと、言葉に窮する。
ただなんとなく、フォルはこちらの正体に気づいているような気がした。呪術や呪術師が淘汰されても、その概念までが消え失せたわけではない。もしかしたらこの人は……そんなふうに思われていてもおかしくはなかった。
「私の曾祖母がこういうのに詳しくて、いろいろ教えてくれたんだよね。あまりいろんな人には話さないで、ここだけの秘密にしてね?」
人差し指を唇に当てて「しーっ」と囁くと、フォルは了承してくれたのか、すんなりと一回頷いた。
嘘ではない。けれど本当のことも話さなかった。言葉にして認めなければ、確証は得られない。憶測を憶測のままにし、「秘密にして」と真実を手渡したような顔をすれば、相手は立ち止まる。
呪術に関することが、世間から良く思われていないことはフォルもきっと知っていることだろう。彼の性格なら、黙っていてくれと頼めばそのまま飲み込んでくれると信じていた。
「ノルン」
「うん?」
言葉を待っていたが、フォルはじっと黙ったままだ。少しだけ口が開いて、閉じて……彼が手に握るグラスの中のハーブ水の水面が不安定に揺らぐ。それから少しして、小さく首を横に振った。
「ごめん。なんで、も……ない」
「そっか」
フォルは何を聞こうとしていたのだろう。気にはなるが、詮索するのはやめた。こちらも、フォルには聞きたいことが山のようにある。けれど、今ではない。呪いが解けて、終わったときに聞こう。全ての清算はこの関係の最後、そこでいい。
今はただ、何も知らない、気づいてないフリをしていよう。難しいことは全部隅に追いやって、フォルと二人で穏やかに暮らしていたかった。




