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1通目 婚約解消の手続き


「ビクター様、こちらにサインをお願いします」


 思っていたより淡々とした声が出た。


 授業が終わった直後の教室で、私は婚約解消の書類を婚約者に差し出す。

 席を立たれては捕まえるのが面倒になる。チャンスは今しかない。


 周りにはまだクラスメートたちが残っている。


 授業中の静けさとは打って変わり、ガヤガヤと賑やかな声が教室を包み込んでいた。


 私たちの間にだけ、静かな空気が流れている。

 外から差し込む春の温かさが冷え込む。


 婚約者のビクター様はだらしなく制服を着崩し、自慢の金髪もワックスで無造作に固めている。

 これをカッコイイと思っているようだから、何度ため息をついたかわからない。貴族として矜持きょうじはないのかしら。


 ビクター様は二枚のうち一枚をつまみ上げる。


「なんだ、これは?」

「婚約解消の書類です。内容はご確認ください」


 私が告げた途端、ビクター様は目をむいた。信じられないと言いたいようだ。


 むしろ、何で今まで出されなかったとか思わないのだろうか。


 私じゃなくて、書類に目を向けてほしいんだけど。


「こ、こ……婚約、解消? 誰に許可を取ってこんなものを作った!?」


 ビクター様がバシッと書類を机に叩きつけた。


 紙が破れたらどうしてくれる。大切な書類なんだからもうちょっと丁寧に扱ってほしい。


 私は自然と目元がつり上がるのを感じた。眼鏡のレンズがわずかに動く。


「すでに両家の許可は取ってあります」

「婚約者である俺を通さないで決めたのか!?」

「私たちの婚約は家同士が決めたこと。解消も家同士が決めて何の問題があるんですか?」


 自分でも驚くほど、心は空っぽだった。彼には何の思い入れも、もうない。

 いや、最初からなかったのかもしれない。


 あるのは、この手続きを完了させるための手順のみ。


 私たちは親同士が決めた婚約だった。私たちの意見など最初から関係ない。


 親同士が婚約解消を決めたら従うしかないことを、ビクター様は理解していないのだろう。


 ビクター様は顔を真っ赤にしてペンを手に取る。文章の中身を確認せず、ガリガリと二枚の書類にサインをする。


「ほらよ!」


 ビクター様は乱暴に書類を叩いた。その勢いで立ち上がり、野次馬の生徒たちをかき分けて教室を出て行った。


 だから、書類は大事に扱ってほしいと、いや、言っても無駄か。


 遠巻きに見ていた友人たちが近づいてくる。


「やったわね!」

「ざまあみろよ」

「破棄されなかっただけマシだと思えってんだ」


 みんな、無事に婚約解消が成されたことを喜んでくれた。


「ありがとう。みんなのおかげでスムーズに進められました」


 私は婚約解消の書類で口元を隠して笑った。乾ききらいないインクの香りが鼻に届く。


 長い亜麻色の髪のフローラ様は一番親身になって心配してくれた。浮気の証拠を一番集めてきてくれたのも彼女だ。

 お嬢様の情報網を駆使した目撃証言の数々を持ってきてくれた。本当にありがたい。


 茶髪のウェンディは婚約者のラスロット様と一緒に、様々な夜会で毎回違う女性を連れてくるビクター様の様子を証言してくれた。


 写真が趣味のランスロット様は証拠写真までばっちり撮ってくれた。


 それらをビクター様のオズボーン子爵家へ叩きつけ、いかにご子息の愚行が激しいかを突きつけてやった。


 ご両親は、それはもう顔面蒼白。平謝りされたが、婚約継続の意思はまるでなかった。



 私は婚約者がいても毎日一人で昼食を食べ、一人で買い物に行き、一人で夜会に出席していた。

 私は婚約者がいても、この三年間ずっと独りだったのだ。


 十五歳で婚約を交わしてから、ずっと。


 ビクター様の女遊びの酷さはクラスのみんな、いや、少なくとも同学年のみんなが知っている。


 誰も彼に味方しない。その証拠に、教室を出ていくビクター様を見るみんなの目は冷たい物だった。

 婚約が白紙になっても当然。そんな顔だ。



 これでようやく、独りでいる後ろめたさがなくなる。


 婚約者に相手にされない可哀想なエイミーはもういない。

 婚約者に放置されているエイミーはもういない。


 なんて、息がしやすいんだろう。


 私は、自由だ。


お読みいただきありがとうございます!

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