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銀幕の王子  作者: 神井


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2/2

焦土に広がるステップ

申し訳ありません。

ミスでこちらのエピソードを先に投稿してしまいました。今修正しました。(2026.5.23.12時59分)


 慰問先の陸軍病院。

 広い病棟には、擦り切れた白いシーツの敷かれたベッドが整然と並び、鼻を突くクレゾール消毒液の匂いが立ち込めていた。

 澄と千鶴は、即席の舞台で戦意高揚の寸劇と軍歌の斉唱を終えたばかりだった。

 拍手はあった。包帯に巻かれた手で必死に音を鳴らし、涙を流して感激してくれる傷病兵もいた。

 けれど、澄の胸は鉛を呑んだように重かった。拍手を受ければ受けるほど、彼らを再び戦場へ、あるいは死へと駆り立てる手伝いをしているような、ひどい自己嫌悪がせり上がってくる。

 病室を出て、薄暗い長い廊下を歩きながら、澄は押し殺した声で呟いた。

「……ねえ、千鶴」

 並んで歩いていた千鶴が、心配そうに振り向く。

「え?」

 澄は国策の芝居しか許されない自身の手のひらを見つめた。

「あの方たちの傷や、失ったものを見たらね……私、自分の好きなお芝居がしたいだなんて、そんな我が儘を思っちゃいけないのかもしれないって、分からなくなるの」

 千鶴が痛ましそうに眉を寄せ、何かを言いかけた。

 その時だった。

「お嬢さん」

 背後から、低く掠れた声が掛けられた。

 二人がハッとして振り返ると、そこには車椅子に乗り、片足の裾をピンで留めた若い兵士が佇んでいた。

 廊下で本心を漏らしていたのを聞かれたかと思い、澄は慌てて頭を下げた。

「す、すみません! お騒がせしてしまいました」

 しかし、兵士は咎める風でもなく、穏やかに首を振った。

「いや、違うんだ。謝らないでくれ」

 彼は顔を上げ、少しだけ照れくさそうに笑った。

「昔な……俺も、宝塚を見に行ったことがあるんだよ」

 澄は目を丸くした。

「え……?」

「軍人になる前、まだほんの子供だった頃だ。確か、フランスかどこか、外国のきらびやかな街が舞台の芝居でさ」

 兵士は虚空を見つめ、記憶の糸をたぐるように少し視線を彷徨わせる。

「お恥ずかしい話、お話の内容や結末なんかは、もうすっかり忘れちまった」

 そして、ふっと白い歯を見せて笑った。

「でもな、大階段から降りてきた男役が、胸がすくほど格好良かったことだけは、今でも強烈に覚えてる。何て自由で、胸を張って生きてる男なんだろうって」

 澄の身体が、凍りついたように固まった。いつか、父の隣でケーリー・グラントを見上げていた幼い自分の姿が、目の前の兵士の記憶と完全に重なった。

 兵士は、澄の美しい立ち姿を眩しそうに見上げながら続けた。

「ああいう男になりたかったな、ってずっと思ってたんだ。……まあ、俺じゃあ背が全然足りなかったけどさ」

 自嘲気味に笑う彼の言葉に、澄は喉の奥が熱くなって、何も言葉を返せなかった。

 静寂が廊下に満ちる。澄は、隣に立つ千鶴を見た。

 千鶴は何も言わなかった。ただ、優しく目を細め、静かに澄を見つめ返している。

 夜の寮で、もんぺ姿で完璧な女優を演じてみせた時のように。

『ほらね。私たちの信じているものは、間違っていないでしょう?』

 と言いたげな、誇らしげな笑顔だった。



**



 終戦から数か月。焦土と化した街に冬が近づいていたが、宝塚の大劇場がファンの元へ戻る気配はまだなかった。

 空襲で無残に焼け落ちた洋画専門劇場の跡地には、煤けたレンガの壁の一部だけが、墓標のようにぽつんと残されている。

 かつて、父の大きな手に引かれてやってきた場所。

 初めて、あの銀幕の王子の笑顔に出会った場所。

 澄は、足元に転がる黒く焦げた瓦礫を見つめた。剥き出しの空からは、遮光カーテンに遮られない、眩しいほどの秋の陽光が降り注いでいる。

 隣に立つ千鶴が、ふふっと小さく笑って肩を突いた。

「で? 今日はこんな掃き溜めみたいなところで、何をするつもり?」

 澄は振り返り、悪戯っぽく唇を緩める。

「決まってるじゃない」

 懐から、あの一冊の雑誌を取り出した。何度もめくられ、角の折れた表紙のケーリー・グラントは、煤けた街の中でも変わらず洒落た笑みを浮かべている。

 千鶴が驚いて目を丸くした。

「えっ、まさか……!」

 澄は雑誌を仕舞うと、すっと背筋を伸ばした。お仕着せのもんぺ姿のはずなのに、一瞬で上質な紳士のスーツをまとっているかのような錯覚を周囲に抱かせる。

 帽子もないのに、そこにある極上のソフト帽のつばを指先でちょんと摘まんだ。

「お嬢さん」

 千鶴が思わず吹き出す。

「ふふっ、またそれ? 懲りないわねえ」

「今日は、待ちに待った『新婚道中記』の上映日よ」

「はいはい、お付き合いしますよ、マイ・ディア(私の愛しい人)」

 二人の即興劇が始まった。

 最初は、瓦礫の陰で繰り広げられる二人だけの秘密の遊びだった。しかし、声を出さずに大胆な身振りを交わす二人の姿に、芋を買い出しに行く途中の主婦が立ち止まる。バケツを抱えた浮浪児たちが目を輝かせて近寄ってくる。

 気づけば、何十人もの人々が遠巻きに彼らを取り囲んでいた。

 澄は、全身で「男」を演じた。

 もう、木銃を抱えて突撃する軍人ではない。お国のために潔く散る英雄でもない。

 くだらない冗談で愛する人を笑わせ、隣を歩く女性を何よりも大切に扱う、優雅で不敵な、あの銀幕の男だ。

 千鶴もまた、もんぺの裾をイブニングドレスのように翻し、高飛車でチャーミングなハリウッド女優として澄の腕に飛び込んでいく。

 

 物語のクライマックス。

 澄は、これ以上ないほど優しい眼差しで、千鶴へ右手を差し出した。

「お手をどうぞ」

 その瞬間、背後から小気味よい、大きな拍手が響き渡った。

 ハッとして振り返ると、瓦礫の路地に停まったジープの横で、カーキ色の制服を着た大柄な進駐軍(米兵)の男が立っていた。男は眩しいほどの白い歯を見せ、満面の笑顔で歓声をあげる。


“Amazing! You two are born performers!”

(素晴らしい! 君たちは生まれながらの役者だ!)


 澄は反射的に、指先まで硬直した。

 ほんの数ヶ月前まで、その名前を口にすることすら許されなかった、敵国の人間。自分たちの街を焼き払った、憎むべきアメリカの兵隊。

 隠し続けた憧れを、その張本人に見つかってしまった。恐怖か、あるいは怒りか。一瞬、焦土の空気が凍りついたように静まり返る。

 しかし――男の叩く拍手は、どこまでも純粋で、温かい賞賛に満ちていた。

 すると、その拍手につられるようにして、別の場所からも音が聞こえ始めた。

 洗濯物を抱えたおばさん。目を輝かせた子供たち。復員服を着た傷だらけの男たち。

 一人、また一人。気づけば、焼け跡の広場を埋め尽くすほどの大きな拍手の渦が、澄と千鶴を包み込んでいた。誰もが飢えや寒さを忘れ、その顔に心からの「笑み」を浮かべている。

 澄は、隣を見る。

 千鶴が、涙の浮かんだ目で誇らしげに笑っていた。

 あの薄暗い寮の部屋で。あの冷たい陸軍病院の廊下で、自分を見つめてくれた時と同じように。

『ほらね』

 と言いたそうな顔で。

 澄の胸の奥で、張り詰めていた何かが、音を立てて解けていった。

 澄もまた、笑った。

 豪快に声をあげるのではない。口元をほんの少しだけ緩め、けれど何よりも早く、瞳の奥を優しく悪戯っぽくにじませて。

 二人はしっかりと手を繋ぎ、顔を見合わせた。

 そして、かつての大劇場のスポットライトを浴びているかのように、焼け跡の客席に向かって、美しく、深く、気高くお辞儀をした。



fin.


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