焦土に広がるステップ
申し訳ありません。
ミスでこちらのエピソードを先に投稿してしまいました。今修正しました。(2026.5.23.12時59分)
慰問先の陸軍病院。
広い病棟には、擦り切れた白いシーツの敷かれたベッドが整然と並び、鼻を突くクレゾール消毒液の匂いが立ち込めていた。
澄と千鶴は、即席の舞台で戦意高揚の寸劇と軍歌の斉唱を終えたばかりだった。
拍手はあった。包帯に巻かれた手で必死に音を鳴らし、涙を流して感激してくれる傷病兵もいた。
けれど、澄の胸は鉛を呑んだように重かった。拍手を受ければ受けるほど、彼らを再び戦場へ、あるいは死へと駆り立てる手伝いをしているような、ひどい自己嫌悪がせり上がってくる。
病室を出て、薄暗い長い廊下を歩きながら、澄は押し殺した声で呟いた。
「……ねえ、千鶴」
並んで歩いていた千鶴が、心配そうに振り向く。
「え?」
澄は国策の芝居しか許されない自身の手のひらを見つめた。
「あの方たちの傷や、失ったものを見たらね……私、自分の好きなお芝居がしたいだなんて、そんな我が儘を思っちゃいけないのかもしれないって、分からなくなるの」
千鶴が痛ましそうに眉を寄せ、何かを言いかけた。
その時だった。
「お嬢さん」
背後から、低く掠れた声が掛けられた。
二人がハッとして振り返ると、そこには車椅子に乗り、片足の裾をピンで留めた若い兵士が佇んでいた。
廊下で本心を漏らしていたのを聞かれたかと思い、澄は慌てて頭を下げた。
「す、すみません! お騒がせしてしまいました」
しかし、兵士は咎める風でもなく、穏やかに首を振った。
「いや、違うんだ。謝らないでくれ」
彼は顔を上げ、少しだけ照れくさそうに笑った。
「昔な……俺も、宝塚を見に行ったことがあるんだよ」
澄は目を丸くした。
「え……?」
「軍人になる前、まだほんの子供だった頃だ。確か、フランスかどこか、外国のきらびやかな街が舞台の芝居でさ」
兵士は虚空を見つめ、記憶の糸をたぐるように少し視線を彷徨わせる。
「お恥ずかしい話、お話の内容や結末なんかは、もうすっかり忘れちまった」
そして、ふっと白い歯を見せて笑った。
「でもな、大階段から降りてきた男役が、胸がすくほど格好良かったことだけは、今でも強烈に覚えてる。何て自由で、胸を張って生きてる男なんだろうって」
澄の身体が、凍りついたように固まった。いつか、父の隣でケーリー・グラントを見上げていた幼い自分の姿が、目の前の兵士の記憶と完全に重なった。
兵士は、澄の美しい立ち姿を眩しそうに見上げながら続けた。
「ああいう男になりたかったな、ってずっと思ってたんだ。……まあ、俺じゃあ背が全然足りなかったけどさ」
自嘲気味に笑う彼の言葉に、澄は喉の奥が熱くなって、何も言葉を返せなかった。
静寂が廊下に満ちる。澄は、隣に立つ千鶴を見た。
千鶴は何も言わなかった。ただ、優しく目を細め、静かに澄を見つめ返している。
夜の寮で、もんぺ姿で完璧な女優を演じてみせた時のように。
『ほらね。私たちの信じているものは、間違っていないでしょう?』
と言いたげな、誇らしげな笑顔だった。
**
終戦から数か月。焦土と化した街に冬が近づいていたが、宝塚の大劇場がファンの元へ戻る気配はまだなかった。
空襲で無残に焼け落ちた洋画専門劇場の跡地には、煤けたレンガの壁の一部だけが、墓標のようにぽつんと残されている。
かつて、父の大きな手に引かれてやってきた場所。
初めて、あの銀幕の王子の笑顔に出会った場所。
澄は、足元に転がる黒く焦げた瓦礫を見つめた。剥き出しの空からは、遮光カーテンに遮られない、眩しいほどの秋の陽光が降り注いでいる。
隣に立つ千鶴が、ふふっと小さく笑って肩を突いた。
「で? 今日はこんな掃き溜めみたいなところで、何をするつもり?」
澄は振り返り、悪戯っぽく唇を緩める。
「決まってるじゃない」
懐から、あの一冊の雑誌を取り出した。何度もめくられ、角の折れた表紙のケーリー・グラントは、煤けた街の中でも変わらず洒落た笑みを浮かべている。
千鶴が驚いて目を丸くした。
「えっ、まさか……!」
澄は雑誌を仕舞うと、すっと背筋を伸ばした。お仕着せのもんぺ姿のはずなのに、一瞬で上質な紳士のスーツをまとっているかのような錯覚を周囲に抱かせる。
帽子もないのに、そこにある極上のソフト帽のつばを指先でちょんと摘まんだ。
「お嬢さん」
千鶴が思わず吹き出す。
「ふふっ、またそれ? 懲りないわねえ」
「今日は、待ちに待った『新婚道中記』の上映日よ」
「はいはい、お付き合いしますよ、マイ・ディア(私の愛しい人)」
二人の即興劇が始まった。
最初は、瓦礫の陰で繰り広げられる二人だけの秘密の遊びだった。しかし、声を出さずに大胆な身振りを交わす二人の姿に、芋を買い出しに行く途中の主婦が立ち止まる。バケツを抱えた浮浪児たちが目を輝かせて近寄ってくる。
気づけば、何十人もの人々が遠巻きに彼らを取り囲んでいた。
澄は、全身で「男」を演じた。
もう、木銃を抱えて突撃する軍人ではない。お国のために潔く散る英雄でもない。
くだらない冗談で愛する人を笑わせ、隣を歩く女性を何よりも大切に扱う、優雅で不敵な、あの銀幕の男だ。
千鶴もまた、もんぺの裾をイブニングドレスのように翻し、高飛車でチャーミングなハリウッド女優として澄の腕に飛び込んでいく。
物語のクライマックス。
澄は、これ以上ないほど優しい眼差しで、千鶴へ右手を差し出した。
「お手をどうぞ」
その瞬間、背後から小気味よい、大きな拍手が響き渡った。
ハッとして振り返ると、瓦礫の路地に停まったジープの横で、カーキ色の制服を着た大柄な進駐軍(米兵)の男が立っていた。男は眩しいほどの白い歯を見せ、満面の笑顔で歓声をあげる。
“Amazing! You two are born performers!”
(素晴らしい! 君たちは生まれながらの役者だ!)
澄は反射的に、指先まで硬直した。
ほんの数ヶ月前まで、その名前を口にすることすら許されなかった、敵国の人間。自分たちの街を焼き払った、憎むべきアメリカの兵隊。
隠し続けた憧れを、その張本人に見つかってしまった。恐怖か、あるいは怒りか。一瞬、焦土の空気が凍りついたように静まり返る。
しかし――男の叩く拍手は、どこまでも純粋で、温かい賞賛に満ちていた。
すると、その拍手につられるようにして、別の場所からも音が聞こえ始めた。
洗濯物を抱えたおばさん。目を輝かせた子供たち。復員服を着た傷だらけの男たち。
一人、また一人。気づけば、焼け跡の広場を埋め尽くすほどの大きな拍手の渦が、澄と千鶴を包み込んでいた。誰もが飢えや寒さを忘れ、その顔に心からの「笑み」を浮かべている。
澄は、隣を見る。
千鶴が、涙の浮かんだ目で誇らしげに笑っていた。
あの薄暗い寮の部屋で。あの冷たい陸軍病院の廊下で、自分を見つめてくれた時と同じように。
『ほらね』
と言いたそうな顔で。
澄の胸の奥で、張り詰めていた何かが、音を立てて解けていった。
澄もまた、笑った。
豪快に声をあげるのではない。口元をほんの少しだけ緩め、けれど何よりも早く、瞳の奥を優しく悪戯っぽくにじませて。
二人はしっかりと手を繋ぎ、顔を見合わせた。
そして、かつての大劇場のスポットライトを浴びているかのように、焼け跡の客席に向かって、美しく、深く、気高くお辞儀をした。
fin.




