帽子のない敬礼
「違う! 腰が浮いている!」
板張りの稽古場に、教官の鋭い怒声が鞭のように響いた。
大きな鏡の前に並ぶ少女たちの身体が、びくりと強張る。
「澄!」
「日本男児の突撃は、そんな生易しいものではない!」
「へっぴり腰で大和魂が見せられるか! もう一度、構え!」
澄は、ずしりと重い木銃を握り直した。
汗の染み込んだ国防色の作業服が、じっとりと背中に張り付いている。すり足の稽古で酷使した足の裏は、冷え切った床板との摩擦でとうに感覚がなかった。
「はい!」
腹の底から声を張り、木銃を前に突き出す。
けれど、何が「正解」なのか、もうずっと分からないままだ。
もっと眉間に皺を寄せればいいのか。
もっと歯を食いしばり、狂暴な顔をすればいいのか。
もっと、人を殺しそうな強さを見せればいいのか。
曇った鏡の中に映る自分を見る。
短い髪も、鋭く引いた眉も、国策の盾として舞台に立つ自分の姿も――なんだか全部、安っぽい借り物みたいだった。
**
夜。劇団の生徒寮の一室。
窓という窓は遮光用の黒いカーテンで覆われ、天井から吊るされた裸電球には、光が外に漏れないよう黒い布が被せられていた。
薄暗い部屋の片隅で、千鶴はかじかむ指先を動かし、支給されたもんぺの綻びを木綿糸でせっせと縫い合わせている。
澄は、煎餅布団の上に寝転がったまま、シミの浮いた天井をじっと見つめていた。昼間の猛稽古で酷使した肩が、じくじくと熱を持って痛む。
遠くで防空演習のサイレンが微かに響く中、澄はぽつりと言った。
「……最近、同じようなお芝居ばかりね」
千鶴の運針が、ぴたりと止まった。
「え?」
澄は天井を見つめたまま、言葉をこぼす。
「舞台の上に兵隊さんがいて、天皇陛下のために万歳をして。みんな、最後は潔く死んでいって……」
重苦しい沈黙が、ふたりの間に落ちる。
「私、ああいう男になりたくて、男役になったんじゃないのにな」
千鶴が勢いよく振り向いた。その拍子に、裁縫箱のハサミが畳の上に小さな音を立てる。
「澄!」
鋭い声が出た。千鶴はハッとして、自分の口を手で覆う。そして、声を限界まで潜めた。
「滅多なこと言わないで!」
澄がのそりと起き上がる。
「そんな、お国を悪く言うつもりじゃ──」
「違う、そうじゃなくて!」
電球の細い光に照らされた千鶴の顔は、幽霊のように青ざめていた。
「今、誰が壁の向こうで聞いてるか分からないのよ。舎監さんや、他の部屋の子が通りかかったらどうするの」
ふたりは息を潜めた。外の廊下を、カツン、カツンと、誰かの歩く不穏な下駄の音だけが通り過ぎていく。それが遠ざかるのを待って、千鶴は深くため息をついた。
「……非国民って言われて、憲兵に引っ張られたらおしまいよ」
部屋は再び、しんと静まり返った。千鶴はまだ震える手で、もんぺの布地をきつく握りしめている。
「今はね、心の中で何を好きでいるかまで、気をつけなきゃいけない時代なのよ」
**
澄はしばらく黙っていた。それから、自嘲気味に小さく笑う。
「……そんなこと、わかってるわよ」
のそりと立ち上がると、きしむ音を立てないよう慎重にタンスの前へ歩いていく。千鶴が怪訝そうに眉をひそめた。
「何してるの?」
澄は答えない。タンスを開け、煤けた着替えの奥へと手を伸ばす。お仕着せのもんぺのさらに下、もう何年も袖を通していない、かつての華やかなレビュー時代のベルベット衣装――その古びた布地の隙間に手を滑り込ませた。
カサリ、と乾いた紙の音がして、一冊の薄い雑誌が引っ張り出される。
千鶴が息を呑んで固まった。
煤けた表紙には、見慣れない外国人の男が印刷されていた。ソフト帽を少し傾けて被り、タバコの煙の向こうで不敵に笑っている。口元はほんの少し上がっているだけなのに、その奥にある瞳が、悪戯っぽく先に笑っていた。
数秒の、張り詰めた沈黙。そして――
「……澄」
さらに沈黙。
「あんた、本物の馬鹿なの!?」
澄が弾かれたように飛び上がる。
「しーっ! 声が大きい!」
「しーっじゃないわよ!」
千鶴は慌てて薄い障子の方を振り返り、廊下に人影がないかを凝視してから、消え入りそうな声で捲し立てた。
澄の手から、ひったくるようにして雑誌を奪い取る。米英の雑誌を所持しているだけでスパイ扱いされかねない時代だ。千鶴の顔がみるみる血の気を失っていく。
「澄」
地を這うような、嫌な予感しかしない声だった。
「……これ、誰。どこの国の男よ」
「ケーリー・グラント。アメリカの映画スター」
淀みのない即答だった。千鶴が「信じられない」とばかりに頭を抱える。
「名前まで、そんなはっきりと……!」
澄がむっとしたように唇を尖らせた。
「私の、一番好きな俳優だもの」
「好きな俳優だもの、じゃない!」
千鶴は居ても立ってもいられず立ち上がり、狭い畳の上をうろうろと往復し始めた。
「もしこれが見つかったらどうなるか、分かってるの!?」
震える指を一本ずつ折り始める。
「敵性文化に染まった非国民って言われて!」
一本。
「教官に竹箆で殴られて!」
二本。
「実家の親まで呼び出されて!」
三本。
「劇団を不名誉除名になって、毎日毎日、憲兵に反省文書かされて!」
四本。
「それで、それで――」
澄が首を傾げる。
「それで?」
千鶴は完全に恐怖の勢いだけで捲し立てていた。その先を必死に考える。
「……わかんないけど、とにかく、特高警察に連れて行かれて大変なことになるのよ!」
澄が思わずぷっと吹き出した。千鶴は頬を真っ赤にして怒る。
「笑い事じゃない!」
「だから、あんたにだけ見せたの」
千鶴が、返す言葉を失って口をぐっと結んだ。
「……なんで、私なのよ。巻き込まないでよ」
澄は少しだけ目を細め、悪戯っぽく笑う。
「だって、千鶴は絶対に秘密を守ってくれるもの」
澄は畳の上に膝をつき、目の前の親友の顔を覗き込むようにして、限界まで声を落とした。
「子供の頃、お父さんに洋画専門の映画館へ連れて行ってもらったの」
千鶴は奪い取った雑誌を胸に抱え込んだまま、まだ半分怒った顔で澄を睨んでいる。
「だからって、なんでわざわざ敵国の、アメリカの俳優なんか好きになるのよ」
澄は苦笑いしながら、千鶴の腕の中からそっと雑誌を引き戻した。そして、色褪せた表紙を愛おしそうに指先でなぞる。
「その頃はまだ、戦争なんて始まってなかったもの」
遮光カーテンの向こう、夜の闇に沈む寮の庭から、消火バケツを運ぶようなガシャガシャという金属音が聞こえ、また静寂が戻る。
澄は遠い目をして、小さく笑った。
「実はね、映画の詳しい筋書きはあんまり覚えてないの。お話がどうなって、どんな結末だったかも」
少し首を傾げ、記憶の引き出しをひっくり返すようにして続ける。
「でもね……その人が笑ったところだけは、今でも昨日のことみたいに思い出せるのよ」
**
まだ「洋画」がハイカラな娯楽だった頃。幼い澄は、上等な外套を着た父の隣に座っていた。
劇場の中は、息が詰まるほど暗い。
大人が燻らす煙草の煙、ベルベットの椅子が吸い込んだ古い埃の匂い、そして背後から響く、映写機がカタカタとフィルムを回す熱を帯びた機械音。
光の束が頭上を貫き、巨大な銀幕に、モノクロームの異国が映し出されていた。
映画は『新婚道中記』。
銀幕の中では、仕立てのいいスーツを着た背の高い男――ケーリー・グラントが、贅沢なドレスをまとったアイリーン・ダンのために、流れるような動作で車のドアを開けていた。
大げさに跪くわけでもなく、これみよがしに気取っているわけでもない。まるで呼吸をするのと同じくらい、それが当たり前だという顔で。
それから彼は、美しいアイリーンに向かって、眉をちょっと動かして何かお洒落な冗談を言う。
日本語の字幕を追うより早く、劇場の大人たちがどっと笑い声に包まれた。
すると、銀幕の中の男も、つられるようにして微笑むのだ。
その笑い方が、幼い澄にはひどく不思議に思えた。
日本の男たちのように豪快に口を開けて笑うのではない。
唇の端をほんの少しだけ緩め、けれどその上にある瞳が、悪戯っぽく先に優しく笑う。
幼い澄は、映画の物語なんてどうでもよくなっていた。暗闇の中で身を乗り出し、ただひたすらに、その男の仕草だけを見つめていた。
帰り道。夜の阪急電車の窓に揺られながら、父が可笑しそうに言った。
「澄も、大きくなったらああいう素敵な旦那さんをもらうか?」
幼い澄は、きっぱりと首を振った。
少し考えてから、座席から飛び降りて父の前に立つ。
まだおカッパ頭のくせに、妙に背筋をピンと伸ばし、帽子もないのに帽子のつばを指先でちょんと摘まむ真似をした。
「お嬢さん」
父が吹き出す。
「なんだい、それは」
澄はあくまで真面目な、澄ました顔で右手を差し出した。
「お手をどうぞ」
その、異国の映画スターを真似た小さな手のひらこそが、後に宝塚の舞台で何千人もの観客を魅了することになる、「男役・澄」のすべての始まりだった。
**
千鶴はもんぺを膝に置いたまま、不満げに腕を組んだ。
「で? そのアメリカ人の、何がそんなにいいのよ」
澄は千鶴の膝から雑誌を素早く取り返すと、畳の上に広げた。その瞳に、隠しきれない熱が灯る。
「ここよ、この写真。この場面で、彼がアイリーン・ダンをダンスに誘うの」
千鶴は眉をひそめ、あからさまに嫌そうな顔をしてみせた。
「まさか、また真似する気じゃないでしょうね」
答えの代わりに、澄はすっと立ち上がった。
その瞬間、寝不足と猛稽古で疲れ切っていたはずの背筋が、見えない糸で引かれたように美しく伸びる。さっきまで布団の上で無防備に寝転がっていた少女とは、まるでもう、肉体そのものが入れ替わってしまったかのようだった。
澄は、長い指先を千鶴の前に差し出した。
「お嬢さん」
千鶴は深いため息をつく。
「……はいはい。お付き合いすればいいんでしょ」
ぶつぶつ文句を言いながら、嫌々といった風に右手を重ねた。
澄が軽く頭を下げる。頭上には帽子などない。それでも、そこにあるはずの極上のソフト帽のつばを、優雅に指先で触る仕草。
そして、少しだけ微笑んだ。唇の端がほんのり緩み、それよりも早く、切れ上がった瞳が柔らかく笑う。
重なった千鶴の手が、ぴくりと跳ねた。千鶴の呼吸が、一瞬だけ止まる。
「……」
澄は声のトーンをわずかに落とし、耳元に滑り込ませるように囁いた。
「さあ。私と踊っていただけますか」
数秒の、濃密な沈黙。
突然、千鶴の身体から「もんぺ姿の同級生」の気配が綺麗に消え去った。
重ねられた手のひらが、ふわりと上を向く。ツンと顎をそらし、首筋を優美に傾けた。電球の薄暗い影さえ、まるで劇場のピンスポットライトのように味方につけた、完璧な「娘役」の顔だった。
「まあ」
千鶴の声は、鈴を転がすように高らかだった。
「こんな夜更けに、淑女をダンスに誘うなんて。なんて不作法で、失礼な方なのかしら」
澄が思わず目を丸くする。
「千鶴……?」
「静かになさい、男役さん」
千鶴の視線は、もう澄の向こうにある架空のカメラや、満員の客席を捉えているようだった。完全に役に入り込んでいる。
「私は今、ハリウッドで一番美しい女優なの。……さあ、続けて」
**
それからひとしきり、足音を立てない静かな即興劇を楽しんだ二人は、ようやくそれぞれの布団に潜り込んだ。
電球の紐を引き、部屋が本当の闇に包まれる。
遮光カーテンの隙間から、冷たい夜風がかすかに吹き込んでいた。
二人は並んで天井を見上げたまま、しばらく何も言わなかった。
昼間の厳しい軍隊式の訓練、重い木銃の感触、教官の怒声。それらが、さっきのほんの数分間のダンスで、綺麗に洗い流されたような気がしていた。
ふと、澄が闇に向かってぽつりと言った。
「……ねえ、千鶴」
「なに?」
「さっきのアイリーン・ダンの演技、すごく上手だったわよ。本物かと思っちゃった」
隣の布団が、バサッと乱暴に音を立てた。千鶴が背を向けるように寝返りを打ったのが、気配でわかった。
「ち、違うわよ! ただの研究よ! 娘役として、どんな役でも引き出しを持っておくのは当然でしょ」
闇の中でも、千鶴が耳まで真っ赤にして照れているのが手取るように分かった。
澄は布団の中で、声を殺してくすくすと笑った。
「そうね。さすが優秀な娘役さん」
「もう、うるさいわね。早く寝なさい、明日も朝から突撃の稽古なんだから」
ぶっきらぼうに言い放たれた言葉の奥には、確かな温もりがあった。
澄はもう一度、見えない天井を見つめる。
敵国の映画、隠された雑誌。
それでも、自分たちの心の中にある「表現したい」という火までは、誰にも消せやしないのだと、澄は確信していた。




