廃油の匂いはなぜか安心する。
テレビの画面では色とりどりのコスチュームを着た人物が激しい戦闘を繰り広げている。
「まだ、か?」
「日曜の朝は外せねぇんだ、もうちょっと待てよ」
児童向け番組から目を逸らさず、気持ちがはやる有村を抑える。
「ギンちゃんたちは?」
「自由」
有村の声に迷いが混じる。妹たちがどう生きていくのか、人間に溶け込み社会に適応するのか、接点を最小限にしなるべく蟻として生活するのか。それをどう妹たちが選ぶべきかという問いに答えを出せないでいた。擬態が必要な以上、ある程度は人間の世界について知っておくべきだが、そればっかりで蟻としての生活を教えないのは彼女たちから生き方の選択肢を奪うことになる。
その考え方自体が、蟻としての思考から遠いものであり、それが有村を、そして姉を危険分子だと家族に思わせることになった一因であった。
それが解っているからこそ、彼女たちが自主的にしたいことをやる時間を作り、人に近すぎる有村とは切り離して生活するようにしている。蟻にも人にも興味を持つギンや、どちらからも距離を置きつつそれぞれの知識知恵を学びたがるリン、この二匹は自分で答えを見つけていくだろう。だが甘えん坊のリンはとにかく誰かの傍にいたがる、それは非常に蟻的な性質と相性がいいのかもしれないが、その自主性の無さがもっとも不安だった。しかし自主性を育てるということは蟻よりも人間に近づけるということでもあり、それは結局のところ選択肢を奪うことに……と、このことを考えるたびにリンのことで堂々巡りになってしまい、最終的には「なるようにしかならない」と開き直るしかなくなってしまう。
今日も結論を出せぬまま、気がつくと番組が終わって林出が作業着に着替えて工具を揃えていた。
「やる、か?」
「おう待たせたな、いくぞ」
汚れてもいい服で、と言われたので妹たちの巣穴に潜るときに使っているぼろぼろの服を選んで身につける。アパートの駐輪場は比較的余裕があり、停めてあるそのままオイル交換くらいの作業ならできそうだ。
「ええと、まず古いオイルを抜くためにドレンボルトを外すんだけど……ええと、これだな」
24という数字が刻印されたメガネレンチを有村に手渡す。
「どこ?」
「えーと、ここだ、ここ」
シフトペダルの奥に見えるナットを指差す。
「本当は少しエンジンかけて暖めたほうがいーんだけど、まぁこのぐらいの気温ならだいじょう」
「外す、こっち、回す?」
しゃがみこんでナットにレンチを合わせながら有村が腕を右に動かすジェスチャーをする。
「ん? そうそっちで外れる。 で外すと古いオイルが出てくるからそれを処理ボックスで受けおいっ!」
駐輪場の地面に音を立ててドレンプラグが落ち、真っ黒なオイルが流れ出る。
「こう?」
「バカ! 塞げ塞げ、手でいいから!」
「間違い、か?」
「合ってるけど違う! とりあえず止めろって!」
オイルが流れ出る穴に指を突っ込み流れ出るのを阻止する。
「あーあーあーあー、これは……私の説明する順番が悪かったかなー、なー! もー!」
流れ出たオイルがアスファルトに染み込んでしまう。ぼろ布で拭き取るのも限界があり、黒い染みが大きく残ってしまう。
「すまん」
「いや……まぁ仕方無い、ちょっとそのまま待ってろ」
エンジンをかけてオイルを温めていたら、熱い油を手で受け止めるはめになっただろう。暖気しておかなくて良かった、と思いながら廃油処理箱を開けてドレンの下に設置する。
「手、離していいぞ」
有村が恐る恐る指を抜くと、再び流れ出した古いオイルが処理箱の中に溜まってゆく。
「これ、取る、か?」
「そうそう古いオイルはこういうので受け止めて捨てる」
地面に転がったドレンプラグを拾ってスプリングとストレーナーを外し、ふと顔を上げると有村が不安そうに車体を撫でていた。
「ドレンは使うから失くさないようにな……どうした?」
「血、出る、痛い、か?」
外骨格を持つ生き物としてバイクという金属で覆われたものに、何らかの生物的共感を抱きやすいのかもしれない。それは人間が身近にある機械に対して「生きてないけど生き物だ」と感じる感覚よりも強烈なものなのだろう。有村が整備を覚えたいと言い出した理由の一端を見たようで、林出は知らず知らず微笑んでいた。
「大丈夫だよ、瀉血……つってもわかんねぇか。古い血を新しいのに入れ替えるんだ……そうやって言うと確かに痛そうだな」
「やはり、痛い、か?」
「あー、えーと、新しい血を入れるから大丈夫だ。エンジンをかけなればバイクは傷つかない」
「そうか、安心」
妹たちを撫でるのと同じ手つきでバイクの表面をさすり続けている。
「えーと、オイルが抜けるのを待つ間にやることがある。 これ、ここに黒いゴムあるだろ? これを外す」
マイナスドライバーを隙間に入れ、軽くこじるようにしながらゴムパッキンを外して見せる。
「それから全部にパーツクリーナーを……ゴムにも大丈夫なやつしかウチには無いから、そのままぶっかけてからウエスで拭き取る」
クリーナーのスプレーを満遍なく浴びせて汚れを落としていく。
「臭い」
「そういうもんだ、我慢しろ。 キレイになったら拭き取って、そんときこの網々のやつ? ストレーナーだっけかな、これに変なつまりとか破れとかないか確かめる」
「大丈夫、か?」
「とりあえずは問題ないっぽいな。 そしたら新しいパッキンに……そこの缶とってくれ」
交換用のエンジンオイルが入ってる缶を手渡す。それを開けてウエスに少し染みこませると、それで新しいゴムパッキンを磨くように擦る。
「こうやってオイルを塗り込んでおくと良い……らしい」
「らしい」
「比べたことねぇからわかんねーけど……でこれをドレンに付けて」
ドレンボトルにゴムパッキンをはめ込み、スプリングとストレーナーも取り付ける。
「オイル抜けたか?」
「ぽつ、ぽつ、出る」
「うーん……こまめに換えてるし大丈夫か、周りをウエスで拭いてからドレンを戻す……全力で締めるなよ?」
有村にドレンボトルを手渡して、人間よりもはるかに腕力の強い蟻だということを思い出して先に注意を促す。
「戻す、回す? こっち?」
手首を右に回転させるジェスチャーをしてみせる。
「そうそっち、いいか、軽くな、軽く回して止まったら手を離せよ」
ゴム手袋を外してそう言いながらスマホを取り出し、この車種のドレンプラグのトルクを検索する。工具箱からトルクレンチを取り出してビクビクしながら手をドレンから離した有村に手渡す。
「でな、締めるときはこっちを使う。この先端にさっきと同じ24って書いてあるソケットを取り付けて……そうそう、でここを捻って15って数字に合わせる」
「にじゅう、よん、じゅう、ご」
「15の方が大事だ」
「じゅう、ご」
「そう、そしたらこれでドレンを締めていって、レンチがカチッて言ったらそこでストップだ」
「喋る、か?」
「あ? ああ、そうじゃなくて音が鳴ったら……一緒にやるか。ハンドルの真ん中を持て」
トルクレンチをドレンに合わせ、ハンドルを握る有村の手をそっと上からおさえてやる。
「よし、このままぐーっと力をかけて……」
「こう、か?」
「そうそう……」
トルクレンチが設定したトルク量に達したことを音で知らせる。
「これな、この音がしたら締めるのを止める」
「カチ、言う、わかる」
手にしたレンチを見つめていた有村が迷ったように尋ねる。
「カチ、止める、しない、どう、なる?」
「壊れる」
「ひっ」
怯えたようにトルクレンチを地面に放り投げる。
「工具投げんじゃねーよ……締めすぎると壊れる。 お前だと手で締めてもブッ壊れるんじゃねぇか?」
有村は手を伸ばし、さっきよりも優しく車体を撫でる。
「お前、脆い、か? 硬い、のに」
「硬いから脆いんだよ」
「わからない」
「まぁいいや、でもあんまビビんな? 壊す覚悟でいじらないと覚えらんねーんだよ」
自分のバイクからオイルを抜きながら、不可解な顔をしている有村に向けてそう言い放つ。
「壊す、嫌」
「だからバイク屋があんだよ……ほら、これで新しいオイルを900って数字のとこまで測れ」
オイルジョッキに缶から注ぎながら首を捻る。
「なぜ、林田、自分、する」
「なんでだろうなぁ……楽しいから、かな?」
「壊す、楽しい、か?」
「壊してねーし! いや、失敗はあるけど……自分のもんを自分でどうにかできるようになるのが楽しい……んだと思う」
「わからない」
渋い顔をして林出は斜め上に視線を向ける。何かもっと上手く伝える言葉がないか考えるが、自分でも明確に言い切れないことを言語化することは不可能だった。
(ぶっちゃけ金のこともあるし、面倒っちゃあ面倒だし、自分でできるってことが自信になってる? から? 別に自信喪失してるわけじゃあねぇしなぁ……)
「これ、どう、する?」
900mlを測ったオイルジョッキを目の高さに持ち上げ林出に尋ねる。
「その上にある蓋を開けて、そうそれ、そこに注いで」
「全部、か?」
「うん、全部いれちゃっていい。入れたら蓋締めてエンジンかけて……あ、アクセルは絶対回すなよ」
「わかった」
新しいオイルを注ぎいれ、セルを回す。軽快な音とともにエンジンがかかる。
「林出!」
「どうした!?」
車体の下にあるもうひとつのドレンボルトを外そうとしていた林出は慌てて顔を上げる。
「揺れる、軽い! 快適!」
振動に対して敏感な有村にはオイルを換えたことによる変化が如実に感じられるようだ。エンジン部分を指先で触りながら、その動きが明らかに滑らかになっていることを実感している。林出の感覚器官では実際のところそこまでの変化は感じられないのだが、有村の喜びようを見ると確かにそうなのだろうと思う。
「しばらく回したらエンジン切って放置なー」
うっとりとした様子で振動を確かめてる背中に指示をだして自分の作業に戻る。もうひとつのドレンからは大してオイルは出てこないはずだ、すぐに終わるだろう。その間にオイルジョッキで自分の分を2000ml測る。それからトルクレンチで前16n/m後30n/mでワッシャーを交換してドレンボトルを締める。
「エンジン切れよー」
少し名残惜しそうにキーを回してエンジンを停止させる。
「これで、終わり、か?」
「まだだ。そのままちょっと待ってろ」
使った工具をしまいながら、地面にこぼした廃油に改めて顔をしかめる。やってしまったことは仕方無いとして、滑りやすくなるのが少しだけ不安だ。家の駐輪場で立ちゴケなんて間抜けな事態はできるだけ避けたい。
「そろそろかな、さっきの蓋もっかい開けて」
そう言われてオイルタンクのキャップを開ける。
「で、いっかいウエスで拭いてから蓋を回さずに上から差し入れて……うん、そう。 そうすると蓋についてる棒? そこに模様あるだろ?」
「ある」
「それのどこまでオイル付いてる?」
顔を斜めにしたり、光にかざしたりして位置を確かめる。
「先端」
「だったらもう少しオイル入れたほうがいいな、その模様の真ん中くらいになるまでだ」
オイルジョッキを渡す。
「どのくらい?」
「100はいらないかな……それの目盛りで1900手前ぐらいで。 入れたらもっかい確認する」
「わかる」
恐る恐るオイルを注ぎ足し、再びエンジンをかける。林出はそれを見守ると自分のバイクにも新しいオイルを入れ、キックペダルを踏み込んでエンジンをかけた。普段と変わらぬ心地よい振動に安心する。
「これ、いい、か?」
有村がオイルタンクをキャップをこちらに向ける。レベルは真ん中よりすこし上くらい、概ね適正量だろう。
「いいんじゃね? よし、これでオイル交換は完了だ」
「でき、た……」
「バッチリ」
キャップを締めて、有村はバイクに顔を寄せ頬ずりする。
「林出」
「なんだ?」
エンジンを止め、すばやくオイルキャップを外して確認をしながら答える。
「言う、こと、少し、わかる」
「ん?」
オイル量は適正。キャップを締め林出も作業を終えた。
「できる、やる、楽しい」
「だろォ~!」
バイクに跨ったまま有村はそわそわし始める。
「林出……乗る、出かける、いいか?」
「わかるわ~、いじったあと乗りたくなるよなぁ。 いいぜ、行ってこ……っと、ガス無くなったら困るからこれ持ってけ」
ポケットから千円札を取り出して握らせる。
「ありがとう」
もらったお金をしまいながら、ヘルメットを取りに家に戻っていく。
「うわ、小走りになってら……私も走りにいこうかな」
ほとんどスキップするように駆けていく有村の嬉しそうな姿を見て、自分の欲も喚起される。すぐにヘルメットを取ってきた有村に、異常があればすぐに戻ってくるよう言い含めて見送る。
後片付けをしながら、次はなにを教えようか考えてる自分に苦笑し、それから工具をしまいに、そしてヘルメットを取りに家へ戻った。着替えようか迷ったが、遠出するわけでなし作業着として使っているオイルで汚れたジャージで十分だろう。玄関にかけてあるメットを手にいそいそとバイクの元へ向かうと、いましがた帰宅した父親がそこにはいた。小脇に抱えたヘルメットを一瞥する。
「出かける、のか」
「おかえり」
「ただいま……なんだ、その、今日も無理か?」
ほとんどの諦めと一滴の期待が混じったいつもの言葉に、林出は目を伏せた。下に目線を落とすとどうしてもこぼした廃オイルの汚れが気になってしまう。
「親父、悪ぃけど」
「いや、いいんだ。 すまん」
「行く気になったら自分から言うから、ごめん」
毎週日曜に母親の見舞いに誘われ、それを断る。週に一回その決まりきったやり取りを繰り返している。
林出の母親は、自分が子供を産んでから以降の記憶を失ってしまい、当時はその記憶のまま自分の赤子を半狂乱になって探し回ったあげく強制入院となった。それからずっと病室ですごす日々を送っている。
林出もまた衰弱状態で発見され、それまでの記憶を失っていた。育てた子供の記憶がない母と、母の記憶を食われた娘。互いの存在をもちろん教えられて知っている、しかし知っているからといってそれを「娘」と「母」と呼ぶことは難しかった。知らない者を見る目で自分を凝視する女性を、警戒心をむき出しにして近づかない少女を、それぞれに「大切な家族」として受け入れることは難しかった。
全てを忘れまっさらの状態になった林出は、まだ幼かったこともあってわずかな時間で社会に適応することができた。一方で母親は気持ちを落ち着けるのに時間がかかり、一旦治まったあとも頻繁にパニックを起こした。特に林出と長い時間一緒にいると必ず。父親は二人のために一度距離を作ることにした。母親は病院に、自分と娘はいままでとは違う家に。
そうして林出と母親がいっさい顔を会わせなくなって、6年になる。
母親のパニックもほぼ見られなくなり、父親が語る娘であるはずの女の子を話を積極的に聞くようになった。林出も自分に母親がいることを理解し、たぶん今なら上手くやっていける気もしている。
それでも消えないまま記憶に残ってしまった、あの日のあやまりながら逃げていく後姿。それが二の足を踏ませていた。自分の決して届かなかった「助けて」という声が、ずっと頭の中で鳴っている。無視され打ち砕かれた「助けて」という声。それが聞こえている限り、林出にはどうしても母親に会いに行く勇気が湧かなかった。
「ああ、待ってるから無理しないでくれ……出かけるんだろ? 気をつけて」
「うん……行ってきます」
父親の気持ちもわかる、それだけに後ろめたさを感じずにはいられず逃げるようにバイクにエンジンをかけ走り出した。
つづく(04/13 20:00アップ予定)




