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従者テオが白い目で出迎えるくらい、その日、私は彼の言うところの「ぽやんぽやんの風船」状態で帰ってきたらしい。サラ様が私をテオに引き渡すときには、すでに彼はいつもの冷ややかな仮面を被りなおしていたけれど、あの夜会の帰り、馬車の中で見せられたサラ様の邪悪な表情は、明らかにあの少年のほんとうの顔だった。

それを思い出すにつけて、あれから二ヶ月も経った今でさえうっとりしてしまうのだ。相変わらずサラ様は三日と空けずに侯爵家にお越しになる。書斎に寄ってから、庭園で一緒に本を読んで、何冊か本を借りて去っていくのは以前と同じ流れだ。まるであの夜会が嘘のように平穏な毎日だった。


結局、パトリック・フィオデニール侯爵令息のスキャンダルは、サラ様が描いたとおりの結末になった、のだと思う。彼は夜会慣れしていないご令嬢、しかもライバルの家である公爵家子息の婚約者予定の少女に不埒なまねをしようとした不届き者として、社交界ではずいぶん苦労しているらしい。私は多少夜会のマナーをわきまえていない女としてのレッテルを貼られはするけれど、基本的には両家の確執に巻き込まれたかわいそうな被害者として処理してもらっているらしく、これもひとえにあの後フォローに回ってくれた公爵様のご尽力のおかげだろう。

ただ、パトリックもただでは転ばない。一応あれでも公爵家に張れるだけの実力を持った家の息子で、それまでは彼の優秀さは何度も耳に入っていた。社交界では、女性にだらしない男性というものはある意味でそれが大きな武器になるのだ。身持ちの固い深窓のご令嬢たちは彼を避けたけれど、一方で社交界で手腕をふるう未亡人や奥様方を味方につけているらしい。あの人のよさそうな姿も、やはりパトリックの一面に過ぎなかったのだろう。これだから貴族というやつは汚い。


「お嬢様にだけは言われたくないと思いますよ」

従者テオはあきれた調子でそう言った。「もうそんな娼婦みたいな真似しちゃ駄目ですよ」

「分かってるわよ、あんなこと何度もやったら私の経歴に傷がつくじゃない。次はもっと別のアプローチをするわ」

「いつか手痛いしっぺ返しを食らいますよ、お嬢様」

私がパトリックを嵌めるために夜会でほんのわずかとはいえ肌を見せたことを知ったときのテオの顔は見ものだった。彼はひとしきり唖然としたあと、どうやら私をものすごくはしたない女だと認識したらしく、こちらを見る目に滲む嫌悪感が増した上にやや過保護になった。


だからだろうか。サラ様はあれ以来、あの暴君のような姿はすっかりなりをひそめて、その後数回あった夜会でもスマートに私をエスコートするだけで、私に何か「お願い」を持ちかけてくることもなく、毎日は非常に穏やかに過ぎ去った。夜会で私を傍に置きたがるのは、「傷心の婚約者を守る公爵令息」としてのデモンストレーションも兼ねているのだろうが、いずれにしても、私としてはサラ様の傍にずっといられるので、パトリック・フィオデニールにはまったく感謝しきりである。



さて、事態が動いたのは、あの日の夜会から季節がひとつ過ぎ、夏の日差しが強くなってきたある日のことだった。いつものように庭園のベンチに並んで座り、難解な本を広げていたサラ様は、私にそっとささやきかけてきた。

「マリー、今度、僕と一緒に街に行かない?」

「街、ですの?」

サラ様は風に遊ばせている私の髪を撫でながらにこりとした。

「マリーはいつもお屋敷の中にいるから、たまには外に出てちょっとしたお忍びでも楽しまないと」

デートのお誘いだ!私はすっかり舞い上がった。街なんてたいして興味はない。だってほしいものがあれば、父に一声頼めばいつだって最高級の品を屋敷まで届けてくれるし、街の石畳は埃っぽいと聞いているし、なにより平民と同じ服を着て彼らの一員を装うなど貴族としての矜持にかかわると思っているからだ。ただ、サラ様にお誘いいただけるのであればその限りではない。

「是非!是非ご一緒させて!」

彼も人ごみに混じって街に出るのなんて嫌いそうなものだけれど、私の快い返事を聞いて満足げだった。彼は広げていた本を閉じて言った。

「この間友人がね、お洒落なカフェを見つけたって言ってたんだ。聞くところによると、貴族の人たちがお忍びでよく使っているところらしいんだけど、僕ひとりで行ってもしょうがないしね。せっかくだから、マリーと一緒に行きたいと思って」

「まあ」

私は腑に落ちて微笑んだ。確かに、友人との話題の中で出た場所なら行ってみる価値はある。案外友人づきあいに律儀なのね、という台詞は胸のうちにしまいこんでおくこととして、私はサラ様とのめくるめくお忍びデートに思いをはせた。




しかし、平民の服というものはいけない。布の質が悪くてゴワゴワしているし、普段着ているドレスと比べるとすっきりと軽いワンピースはまるで裸でいるみたいだ。今日はコルセットもつけていないので、一層心もとない心地で私は鏡を見た。若草色の庶民のワンピースに身をくるんだ私からは、いまいち高貴な印象が拭えない。

「私の有り余る大貴族の気風が隠しきれないわね」

「そりゃ、お洋服を変えたところでお肌や髪のお手入れも立ち居振る舞いも平民とは違うんですから当たり前です」

そう言うテオも護衛のために、今日はいつもの使用人服を脱ぎ捨てて、平民スタイルに身を包んでいる。彼だって一応王族の生まれで、侯爵家令嬢の従者として厳格な教育を受けているというのに、このなじみようは一体なんだ。私は顔をしかめた。

「アンタはずいぶん平民くささを出してるじゃない」

「事実、俺は爵位のない気軽な平民ですから。ま、多少お貴族様のお忍びだって分かるような見た目のほうがいいんですよ。目に付きやすいからお守りしやすいし」

「…納得いかないわ!」

私は地団太を踏んだ。「この私がテオに負けるなんて!納得いかない!もっと平民にまぎれるような見た目にならないと!」

「普段美貌と教養がどうこう言ってるくせに」

失礼な口を利く生意気な従者の足を踏んだが、いつものヒールではなく踵の低いパンプスを履いているため威力は半減だ。それでも痛みにうめいてうずくまりながらテオはなおも言った。

「大丈夫ですよ、どうせご令息が平民の服を着たって、人ごみにまぎれるわけがないんですから。想像してみてください、あのご令息が、平民の衣装なんて似合うと思いますか?」

確かにそれは言えている。彼の淡い金髪も、その端整な面持ちも、どこからどう見ても平民にあんな浮世離れしたうつくしさの少年が存在するとは思えないし、たとえ服を粗末なものに変えたからといって、あの雰囲気が崩れるとは到底思わなかった。

仮に私が完璧な平民スタイルをマスターしたとしても、彼の隣に並ぶにはだいぶ不釣合いだ。私は渋々納得した。

「ま、まあ…それもそうね」

「分かったらさっさとご用意なさってください。そろそろご令息がお迎えにいらっしゃいますよ」


テオの言ったとおり、平民にありがちなちょっと褪せた色のシャツにベストを引っ掛けただけの、身軽な洋服に身を包んだサラ様は、どこからどう見ても一般の平民には見えなかった。私と同じように、彼が身に纏っているのも新品の服のはずなのに、なんだか粗末なボロでも着せているような言いようのない罪悪感を覚える。

「ワンピースもかわいいよ、マリー」

どう考えても私のこの顔と衣装もアンバランスだろうに、そうとは感じさせない柔らかさでサラ様は言った。彼はいつもの硬質な冷たい目で、それが一層彼のいでたちにミステリアスさを感じさせていた。

「本日はよろしくお願い致します、サラ様」

「…今日はそれ、禁止にしようか」

いつもは手袋につつまれたサラ様の手は今日はなにも覆われておらず、だからくちびるに触れた彼のつめたい人差し指の感触がはっきりと伝わってきた。頬が熱く燃え上がった私に何を思ったか、サラ様は温度のない目を細めて言った。

「今日はお忍びだから、敬語もサラ様も禁止。『よろしくね、サラ』って言ってご覧」

「そ、そ、そ」

私は真っ赤になって叫んだ。「そんな失礼な口叩けませんわ!」

「いいから、さん、はい」

「……よ、よろしくね、サラ?」

どんなに淑女にあるまじき言葉遣いだからと言ってもサラ様のお達しだったら従わないわけにはいくまい。もじもじしながら復唱すると、サラ様は私の頭をゆるやかに撫でながら「よくできました」と笑った。そのお言葉だけで悶絶するというものだ。


それから、サラ様はつと顔を上げてテオを見た。私の後ろで待機しているテオに少しばかり笑みを深めて、サラ様は言った。

「テオも。今日はよろしく」

テオはちょっと沈黙した。サラ様のいつもはもやがかったアイスブルーの瞳が、ちょっと悪戯げに光ったからだろう。私は首を傾げたが、テオはふとその目をわずかに細めただけで、いつも私に対するよりも丁寧なしぐさで一礼した。

「…お守りさせていただきますので、どうぞご安心ください」

「ああ」

サラ様は頷くと、私の手を取った。いつものように優雅に手を引くのではなく、彼はその細くて長い指を私のそれに絡めて、きゅっと握った。ぎょっとして思わず腕を引っ込めそうになるのをサラ様が止める。

「平民の恋人たちはこうやって手を繋ぐんだってさ。はぐれると危ないから、今日はこれで、ね?」

「は、はい」

もうこれだけでデートをする甲斐があったが、サラ様がもの言いたげに私をじっと見たので、私はあわてて「うん」と言い直した。幸せすぎて死にそうだ。

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