醸される思い
「では二つだけ聞かせてくれ」
「後のことですか」
「うむ」
「応えうる限りでございますけど」
「一つ。徳川宗家はいかがなる」
「……さて。あと数百年は太平の御代が続きましょう。それは徳川宗家によって齎されるものと」
「ふむ。未来永劫とは無理なことであるならば、それも如何ともし難し。では二つ目。会津はどうなる」
正之の問いに、真紀は黙った。
言葉を無くしたというよりも、どう応えてよいものか思案に暮れているようだった。
正之はまっすぐに真紀を見つめる。
幾ばくかの沈黙ののちに、真紀は口を開いた。
「正之どの」
「なんだ」
「正之どのの中で、会津とは如何なる場所ですか」
「……さて、問いの意味がはかりかねるが」
「正之どのは、徳川宗家の安泰を先君にお約束されたと聞いております」
正之は眉を顰めた。
兄と弟だけの席だったはず。
今わの際の苦しい息で、兄が告げた願いを正之は必ず果たすと約した。
「……それは、先の時代で見知ったことか」
「はい」
「……徳川宗家をお守りするのは、わが保科の家訓として、いやわしの遺訓として書き残した」
真紀は小さく息を吐いて。
「これを守らぬ者は、子孫にあらず。でしたね」
「うむ」
朝な夕なに家臣たちが『御家訓』と呼ばれる十五カ条を暗誦しているのに行き合えば、さすがの真紀も覚えたのだが。
「それはまこと、必要なものでしょうか」
「なんと」
真紀の言葉に、正之が眉間の皺を深くする。
「いくら真紀といえども」
「分かっています。正之どのが宗家の守護者となった理由も、意味も。ですが、それは重すぎるほど、末代の会津に残りまする」
眉間の皺は消えない。
真紀は続けた。
「会津はいずれ、親藩となりましょう。それが宗家の守護者たる所以ともなります。したが、重すぎるのです。御家訓は。太平の御代がいずれ終焉の時、新たな御代が始まります。その時、会津は宗家の守護者として、贄となりましょう」
一瞬、背筋を冷たい指で撫でられたような悪寒が走った。
正之は眼を閉じて、一つ息を吐いた。
「贄、か」
「数千のものが死にます。新たな御代に逆らった者たちと長く罵られます。それでも、よいと」
「……そうか」
宗家の守護者たるべし。
正之の思いが幾星霜経て、いずれ来るべき哀しき時を醸すのだと言われて、正之は黙然と座する。
時が、過ぎる。
中空高くあった太陽は、既に西空に沈みつつある。
黙然と座る正之の前で、真紀も静かに座っていた。
「……殿。夕餉の支度が整いましたが」
正之は密やかな侍従の呼びかけにも応えず、真紀がついと立ち上がり、障子を開けて廊下の侍従と何かを話している様子は聞こえていた。
やがて真紀が夕餉の膳を抱えて帰ってくる。
「お食べください。薬も間もなく届きます」
「……いや」
「お食べになりたくなくとも、少しはお食べください。薬を飲むならなおのことです。正之どの。昔、私が申したことを、お忘れですか」
正之が顔をあげると、穏やかな表情の真紀がそこにいた。
蒲柳の質だった正之は、幼い頃よく熱を出した。真紀が薬を処方し、飲ませてくれた。食欲がないから食べたくないとごねれば少しだけでも食べろ、薬を飲むのに空腹は良くないと、叱りつけられたものだった。そして、必ず薬のあとの甘い干菓子。
「……そなたは変わらぬの」
「はい」
夕餉を平らげるまでは無理だったが、なんとか口にして、届けられた薬を飲み、干菓子の甘さを舌に残したまま、正之が言う。
「真紀」
「はい?」
「家訓は、変えぬ」
「……」
真紀が黙って正之の前に座る。夕餉の間に侍従たちが蝋燭を灯してくれたので、夜とはいえ幾分明るいけれど、それでも真紀の表情は昼ほどは読み取れない。
「真紀、近う」
「はい」
促されて、真紀は正之の目前に座った。
「主の言う、贄とは惨いことよの。自らの子子孫孫がそのような憂き目を見ることになろうとは」
「はい」
「かつて、東照大権現様が豊臣様の後見であられた時のことを思い出したわ。結果として大阪城を落城させてしもうたが。その折、大阪の城に集いし、豊臣古参の大名たちは権現様が征夷大将軍になられた折、領地没収の憂き目を見た」
「ええ」
「それに似たことと、思うべきか」
領地没収、蟄居謹慎、家名断絶、一家離散。
真紀は思い出す。関ヶ原から大阪に続いた騒乱の日々を。
「似ている、かもしれませぬ」
「そうか。だがそれを知ってなお、わしは家訓を変えぬ」
「……」
正之は深く深く嘆息する。
「惨い、仕打ちやもしれぬ。だがの、真紀。いずれ親藩になるであろうが、保科は宗家を守護し奉る。そう決しておる。それは先の家光様に遺言された時からじゃ」
「……正之どの」
「真紀、頼みがある」
居住まいを正した正之をまっすぐに見つめて、真紀は小さく頷いた。
「なんなりと」
「ここ鶴ヶ城に、そなたの屋敷をかまえよう。子子孫孫まで桜枝丸紋を使えるようにしておく。気が向いた時でよい。訪のうてくれ。そして、そなたが知る末代の我が子孫に、渡してほしいものがある」