保科正之の死
ふわりと匂ったのは、土埃の匂い。
だがついで正之の鼻腔をくすぐったのは懐かしい匂いで。
ゆっくりと目を開ければ、覗き込む真紀の顔だった。
うっすらと土埃で汚れているのは、馬を駆けに駆けてきたのだろう。
「正之どの」
「……おお、間に合うたか」
絞り出すかのような声に、真紀の大きな双眸が潤む。
枕元に集う家臣たちに席を外せと促せば、幾分異様な様子の真紀にちらりと目をやりながら、重臣たちは姿を消した。
「わが命、いつ尽きても最早悔いはない」
正之が自嘲ぎみに笑めば、真紀は笑み返す。
真紀が自分の全てを語ったのが一昨年。それ以降訪れはなかったが、先を知るという真紀ならば、自分の死期には敏かろうと思うていた。
夏を過ぎて、食が細る一方となり臥せたままの日々が続いて、正之は覚悟を決めた。
「今年の冬は越せぬであろうよ」
「正之どの」
「間に合うて、まことよかった」
穏やかに微笑む正之だったが、真紀の潤んだ双眸から一筋涙がこぼれおちるのを見て、苦笑に変わる。
「何故に泣く」
「……わかりませぬか」
「さてに」
「過日、お話しました。長きにわたり時知らずの身で生きてまいりました。様々なお方と知己になり、知らぬことを知りたいと思い、諸国を放浪しております。したが、正之どのほど長い時を共に過ごしたお方は、おりませぬ」
真紀の頬を、何筋もの涙がこぼれる。
「生まれたばかりの赤子をこの腕に抱いたあの日から今日まで。幾年月、正之どのと共にあったとお思いか」
咳が止まらぬ幼子を背負いて、深更の廊下を歩いた日々。
父母が恋しやと泣く幸松に、内々に渡された秀忠所蔵の笛を届けたこと。
保科家相続御礼で江戸城に向かう正之を笑顔で送り出した日。
「幾星霜生きて参っても、別れは辛い。まして、正之どのとの別れは格別に」
力が入らぬ手をあげて、正之は真紀の頬に触れる。
指で拭っても拭っても、真紀の涙は頬を伝う。
「これ、泣きやまぬか」
「そのような、無体な」
「真紀」
静かな呼ばわりに、真紀は正之を覗き込む。
「はい」
「世話をかける」
その一言が、過日交わされた約定を意味することは真紀にも分かっている。
小さく頷いて。
「正之どの」
「……なんじゃ」
「様々なお方と知り合うて参りましたし、時知らずの身であることは少なからぬお方が存じておいででしょう。ですが、正之どのだけです。この先の末代まで見守ってほしいと言われたのは。そして、正之どのだから私は応じたのですよ」
「そう、か」
「会津は、厳しい道を選ぶやもしれませぬ。宗家の守護者であるには、厳しい道しかないやもしれませぬ。それでも、正之どのは会津にそれをお望みなのですね」
「いかにも……揺らがぬものが、なくてはならぬ」
「わかりました。約定どおり、守護者の守護者をいたしましょうぞ」
冬の最中に、正之は逝った。
最期は、是非にと正之にせがまれて真紀は痩せ衰えた正之の身体を後ろから抱きしめ、障子を開けさせ、空に満月、庭には純白の雪を見た。
幼き頃、同じように真紀に抱かれて、月を見た。
真紀に抱きかかえられると、爽快感を招く香りが真紀から漂った。
『干薄荷を匂い袋に入れております』
薄い薄荷の匂いは、正之にとって真紀の記憶だった。
月と、雪と、真紀の匂いに包まれて、正之は息を引き取った。
正之の葬儀が大々的に執り行われる中、真紀の姿は忽然と消えた。
鶴ヶ城内に設けられた小さな屋敷は、正之の遺言に従い手入れがされる。
名も万喜御殿と名付けられて、その紋として桜枝丸紋が用いられる。
保科家は三代・正容になって、親藩松平家となる。
会津松平家二十三万石の、誕生であった。




