近悳の思い、真紀の思い
のんびりとした、道行きだった。
馬上の真紀と近悳、荷運びの下男の3人はまるで物見遊山のような体で土津神社に向かっていた。
道すがら、真紀は折々に近悳に問う。
「この辺りの魚は何が取れる?」
「鮎は美味ですが、時折鮭も迷いこみやす」
「鮭」
西京焼きにすると美味しいわねぇ。
本当に物見遊山のようだ。
近悳は小さく溜息をついて、それから思い出したように声を上げた。
「あの、御方さま」
「なに?」
「失礼かと思えまずが、御方さまのお名前はどのような漢字をお書きになるので」
「ん?」
馬上から首だけ振り返り、真紀が首を傾げた。
「どうして?」
「いや、父が申しておりやした。万喜御殿日記というものがあって、そったらものを見せていただいたのですが、中のお名前が真の紀とお書きしてやって」
「ああ」
真紀は小さく笑った。
「正之どのの所為ね」
一瞬、近悳には誰の名前か理解できなかった。数回瞬いて、瞠目する。
「は、土津公」
「うん。私はもともと真の紀だけれど、万の喜びの方が福を呼びそうだって。今更変えるのも面倒だからって言ったら、会津だけでも変えるって聞かなくて」
まるで兄弟の話をしているようだと思いながら、近悳は思った。
近悳の妹弟は多い。西郷邸に帰ればにぎやかだ。すぐ下の妹が末の弟のことを話す時、同じように話しているなと思いつつ、近悳は続けた。
「では、重ねて」
「はい?」
「日記には、御方さまの名字がごぜいませぬ」
「うん。一つの柳と書いて、いちりゅう」
聞き慣れぬ名字に、近悳が瞬く。
「一柳とは珍しい御名でごぜいますな」
「そうかな。私の周りには、普通に親戚でもないけど同姓がいたけれどね」
馬の蹄の、ゆっくりとした音を聞きながら、真紀が言う。
「近悳どの」
「はい」
「会津は、いいところだね」
「……はい」
「でも会津は、自分に厳しすぎる」
言葉の意味を判じかねて、近悳が小首を傾げる。
「厳しすぎる、とはねじょって」
「什の掟」
ぽつりと告げるその言葉を、今度は正確に読み取った。
「あれは武士としての、礎となるべき考えにて」
「うん。でも、他藩ではそんなことしないけれど?」
他藩。
近悳は一瞬迷って。
だがすぐに答えを導く。
「他藩は他藩、会津は会津と思えまずが」
「そうね。だから厳しすぎる、と言ったの。自分に厳しすぎる。その愚直なまでの純粋さは、見ていて気持ちはいいけれど。けれども、それが自分に返って来た時を考えてごらんなさい。ならぬことはならぬと、最初から断ち切られては、立つ瀬がないこともある」
「!」
会津の全てを否定された。
近悳は一瞬、そう思った。
幼いころから、何の迷いもなく口にしてきた、『ならぬことはならぬもの』の文言が、重い。
「言っておくけれど」
真紀は振り返りつつ、穏やかに笑んだ。
「そこまでの、大樹の幹は必要でしょう。自分が立っているという、その信念のために。でも、愚直なまでに掟に縛られてはいけないのよ。近悳どの。あなたが父上の跡をついで、家老となる頃には時代が変わるかもしれない。異国が押し寄せ、江戸や京都が騒乱の時を迎える時、会津だけが知らぬふりはできない」
「そったらこつ!」
「うん。会津は宗家の守護者だから。だから江戸を見捨てない。愚直なまでに。でもそれは本当に会津のため? ならぬことはならぬと、言い切れるのかな?」
「……」
分からない。
この御方が、何を自分に告げようとしているのか分からない。
近悳は混乱していた。
だが、会津だけではだめで、だが会津という大樹はあってもよい。そう言われている気がした。
「御方さま」
「はい」
「我らは、如何すべきか」
「さて」
真紀は小さく唸ってみせて。
「それは、会津が決めること。近悳どのが決めること。いずれ、時は来るゆえに」
望月がかかる空を見上げて、真紀は深くため息を、しかし一つだけ落とした。
昼には土津神社に着いた。
出迎えた宮司に、近悳が『万喜の御方である』と告げると、まだ年若い宮司は平伏する勢いで頭を下げた。
真紀はいつものように穏やかに言った。
『今日は参詣と、もうひとつ』
『は?』
『初代宮司どのにお預けした、銅箱を受け取りに』
今日の宿と定められた部屋でくつろいでいると、先ほどの年若い宮司を引き連れた老年の宮司が姿を見せた。前回、真紀が参詣した時よりも幾分年老い、背を丸めて真紀の前に座った。挨拶のあとに、老年の宮司は年若い宮司を促した。
『御預かりの品にて』
年若い宮司が差し出した箱の上には、桜枝丸の紋。それは真紀が土津神社に持ち込んだ時より幾分変色していたけれど、確かに真紀が預けたものだった。
『長きにわたり、御苦労さまでした』
『いいえ。万喜の御方さまが末代まで残せと仰ったものです。宮司一同、御守りできてよろしゅうごぜいました』
深々と頭を下げられて、真紀も深く頭を下げる。
会津に来る度、思う。
『万喜の御方』は常人ではないけれど、会津の者にとっては身近な存在なのだと。
銅箱の蝋封を解いて、箱を開ければ懐かしいものが入っていた。
完全に封印した銅箱は二百年という歳月を感じさせず、純白の紙の上には墨痕鮮やかな、正之の少しだけ癖の強い文字が躍っているのも、昔と変わらず。
『時知らずの身』でも、記憶は曖昧になることはある。遥か昔、信長公の顔などもう霞みがかかったようにしか思い出せない。それは秀吉公も、家康公も同じ。そして正之の子・二代藩主正経の顔も、幾らか不鮮明になっている。
なのに、正之だけは覚えている。赤子の頃から、死の床にあった時まで。
だから、辛かった。
手元に残ったのは届いた正之からの手紙。
肌身離さず持っていた正之からの手紙と、正之に託されたものをまとめて、土津神社に預けたのは正之の五十年祭の時だった。
もう、百五十年が過ぎた。
それでも、正之の今際の際の言葉が耳に蘇る。
『真紀、すまぬ。先に、逝く。許せ』
背後から抱きかかえる真紀にしか聞こえない、小さな声で。
「御方さま。冷えまする」
不意の呼ばわりに真紀は振り返った。近悳が見つけてきたのだろう羽織を、真紀にかける。
「一枚、羽織ってくなんしょ」
「ありがとう」
「おお、満月にごぜえますな」
「そう、ね」
「月を愛でておられたのでしたら、御邪魔しました」
掛けてくれた羽織の前を掻き合わせて、真紀が言う。
「近悳どの」
「はい?」
「御歳、二十歳でしたか?」
「はい、そうでごぜいます」
「そう。もう、すっかり西郷の総領息子ね」
近悳は苦笑しながら、小さく頭を横に振った。
「いいえ。私はまだまだです」
「そうかしら? 以前訪のうた時、行く末が楽しみな者が多い。その筆頭は西郷家の嫡子と、神保家の嫡子だと容敬どのが申しておりましたよ」
真紀の言葉に、近悳は項垂れる。
「なんとも、恐れ多いお言葉で」
「謙遜しなくてもいいのよ。容敬どのはそう思って、あなたたちの行く末を気にしているんだから」
若殿の御代が来たら、あなたたちが表に出てくる時よ。
真紀の言葉に瞠目する。
齢十四歳の若殿が入国された。
病がちの藩主・容敬は近い内に隠居、若殿の家督相続が認められるというのが、会津の中での見方だった。実際、藩主・容敬は自分の不調と家督相続願いを幕府に出したことを公言している。
隠居が認められる前に、容保が会津の藩政を知る必要があったための、入国だと近悳たちは思っていた。
「若殿はどういう方に見えた?」
真紀の言葉に、近悳は数度瞬いて。
「どういう、お方と問われてやしても……」
入国してすぐ、父に連れられて拝謁している。
元服は既に済ませているのに、なんという線の細さだろうか。と最初は思った。
背筋を凛と伸ばして上座に座っている、小さな未来の主君は。
居並ぶ重鎮たちに、頭を下げたのだ。
至らぬことも多かろうが、よろしく頼むと。
なんという、謙虚さだろう。畏まって一掃頭を下げながら近悳はそれだけを感じた。
家老たちが藩政についての指導や、領内巡回で各地を見せて回る時ですら、若殿は一つ一つ噛み締めるように、問い、学ぼうとしていた。
「謙虚なお方ではないかと」
「謙虚?」
真紀にとっては意外な答えだったのだろう。幾分首を傾げながら、
「若殿が謙虚なお方という意味なのかしら」
「はい。謙虚で、まっすぐで、一生懸命で」
「ふむ……」
「数度、巡回にもお供させていただきやしたが。家老たちから学ぼうとしてらっしゃるようで」
次から次へ課せられる家老たちからの質問や、課題。
近悳から見ても未だ小さな、元服を済ませたとは言え少年としか思えぬほどの細い体躯の容保はそれらに必死についていっているようで。
だが、家老たちの誰もがそれを分かっていてもあえて口にせず、課題を与え続けているようだった。
「……神保修理をご存知でごせいやすか?」
「知っているわよ。日新館開闢以来の秀才と呼ばれている、家老どのの秘蔵っ子」
真紀の言葉は、確かに世間が神保修理のことを評するもので。
近悳は小さく頷いて、
「若殿入国の折から、若殿のお世話をするために公用方として上がっておりやす」
「そう」
「子供の頃から知った仲で。修理が言うには、若殿は城に戻れば殆どお眠りにならずに、夜半は書を読んでいるとか」
「書?」
「学んでいらっしゃるのです。藩政について」
朝は早くから家老たちに藩政について学び、夜は書物を読む。それだけではなく領内巡回もひっきりなしに行われる。
「そう、謙虚に、一生懸命なのね」
「はい。実は、お恥ずかしい話でごぜいますが、自分は西郷の家督を継ぐことを、その、幾分厭うておりやした」
近悳の言葉に、真紀は笑む。
「そうなの?」
「はい。幼き折より、父より何度となく言い含められておりやす。西郷の名は、他の家老職とは違う。西郷の名前に矜持を持て。お前はその家を継ぐのだと」
西郷家は、他の大家と違うど。
ええか、西郷家は保科に続く家じゃ。遡れば、土津公につながるのじゃ。心引締めて、いつでもおるのじゃぞ。
何度聞かされた話だろうか。
矜持をと言われても、何も実感するものはなく。
ただ、確かに西郷家が他の家老職家よりも格段上に扱われていることだけは、幼い近悳にも分かったけれども。
上に扱われるというこどは、それだけ責を持たねばなんねえと言うことだ。
父の話は、いつでも厳しく。
近悳の心の奥底に、反撥を生む。
なして責をば持つことになったのでごぜえますか!
保科に連なる家ということは分かっておろうが。それゆえじゃ。
「西郷の家を継ぐということは、他の家老職とは違う。そう父に言い含められてきやした。時には命を賭して、主君に諫言を申し上げねばならぬ時もあると」
それは主君と同じ血統から生まれた家系であるという矜持と、責任。
それに思い至った時、近悳は内心思った。
自分に務まるのだろうか、と。
「ですが、若殿を見ていて思うのです」
自分より6歳も年少の小さな背中。
十歳の時、初めて背負わされた重き責の重さに耐えながら懸命に学び、望まれる者になろうとする姿に、近悳は身体が震える程の感銘を受けた。
あの小さい、しかし精一杯に背筋を伸ばす姿を支えたいと思った。
「自分が背負う責など、若殿に比べたら、何と小さいものかと思えやした」
「そう……」
「だから、少しだけですが、心が定まりました」
「うん」
「……若殿を支えること。それに相応しい者になること。もし、万が一若殿が過たれし道を歩みし時は、この命賭けても、お諌めすると。それが出来るのは西郷の家の者だけ」
真紀は近悳の言葉を聞きながら、夜半の空を見上げる。
幾分傾いた望月は、しかしその真円から降り注ぐ月光を、見上げる真紀に向かわせる。
小さくため息を吐いて、真紀が呟くように言った。
「近悳どの」
「はい」
「あなたが選ぶ道の先には、何があるのか」
「……え?」
「近悳どのが、良き家老として若殿を支えることが出来たとしても、いつ若殿が道を誤るかもしれない。その時、正しき道を諫言することは、厳しいことでしょう?」
「……その昔、命を賭す覚悟で藩主に諫言した家老を、私は知っている」
それは西郷家の祖でもなく、連なる者でもない。
ただ戦国の動乱の中で、君主の過ちを正そうと声を上げた、家臣の声に、君主は耳を傾けるどころか、その家臣を捕え、その眼前で一族郎党の命を絶った。
それでもなお、その家臣は諫言の声を止めなかった。
妻や子、孫まで処刑の憂き目にあおうとも。
家臣の声が止んだのは、自らの処刑のあと。
そして、その家は滅んだ。
家臣の一族郎党の処刑を命じた君主の代で。
「近悳どのが選ぶのは、厳しく険しい道。あなたの長い生涯の中で、常に心の片隅に家族、一族、郎党の誰もを犠牲にしても諫言せねばならぬと思える時が来るのは、ないかもしれない。だが来るかもしれない」
「…………」
「あなたには、選ぶことが出来る? 近悳どの」
近悳は一瞬瞠目して。
小さく長く息を吐いた。
真紀はゆっくりと目を閉じて。
近悳の応えを待つ。
静かな、時が流れた。
真紀の背中に、近悳は幾分震える声で告げる。
「万喜の御方」
「?」
「わだしの命だけでねく、一族郎党の命すら賭けねばなんねえことがあっても、諫言するがと言うごとですか」
「………そうね、そう思ってもらっていいわ」
「それでも」
それでも、それが自分の役目であるなら、全うしたい。
それが西郷の家に生まれた役目ならば。
幾分掠れた声で応えを告げられて。
真紀は、口の端だけで笑んだ。
「そう」
「へえ」
「……そんな辛い選択が、来ないことを祈っているわ」
既に望月は西空に傾き。
真紀は幾ばくか悴む両指を、互いに擦り合わせた。
まるで何かに祈るような。
不意に思い至り、真紀は小さく苦笑する。
誰に祈ると言うのか。
そして両手を合わせて、建物の屋根の向こうに見える、土津神社の社殿に向かい、手を合わせ、目を閉じた。
正之。
時代は、動いて行く。
私が知る方向へ。
何度となく、会津が巻き込まれないようにと、『私が知る歴史』とは違う方向に選択肢を『選ばせて』みたけれど。
だけど、世界は動く。
私が知る、歴史の通り。
世界は、会津の破滅へと動き出した。
あなたが慈しみ育てた、会津が壊れていくのは見たくない。
だから。
私は、おそらく禁を犯す。
正之。
私は、会津を守る。
もう決めたこと。
時代の流れの歪を、引き受けても。
『守護者』の守護者たる、私が。
会津を守る。
「会津を、守る」
思わず口にして、真紀は苦笑する。
まるで、近悳の思いの熱さに伝染したようだと思いながら、真紀は歩き出す。
だが、先ほどまで心の片隅で蟠っていたものが消えた気がした。
会津を、守る。
そのために、ここまで生きて来た。
既に、考え尽くした。
あとは、動くのみ。
真紀の心が、満月の下で定まった。




