若殿、入国
「よいか、来春にはそなたを国許に向かわせる許可を取りつけられよう。心して会津へ向かうがよい」
容敬の言葉に、容保は力強く頷いた。
「まずそちにこれを渡しておこう。会津の者ならば誰もが諳んじる、御家訓だ」
巻き物を渡されて、ゆっくりと広げれば、養父の達筆で書かれた十五カ条が見えた。
「よいか。会津の者ならばそれを諳んじ、心に刻んで生きねばならぬ。そこに、土津公の全ての思いが籠っておる。そなたは、土津公の血を引いてはおらぬが」
養父の言葉に、思わず背筋を伸ばした。
「志を継ぐことはできようぞ」
「はい」
十歳で養嗣縁組が決まり、それから養父となった容敬の毎日厳しい躾が待っていた。武芸はもちろんのこと、文武両道を望まれた。
保科家連枝から養女に来た、姉の照が所作と儀礼作法、有職故実、和歌に至るまで懇切丁寧に教えてくれた。
「それからもうひとつ。そなたに伝えておかねばならぬ話がある」
背筋を伸ばした養父に合わせて再び背筋に意識を向けた。
「何にございましょうか」
「そなた、万喜の御方の話を知っているか」
突然の名前に、容保は一瞬考え込む。
初めて聞く名だった。先代藩主の側室だろうかと思っていたところに、容敬の声を聞く。
「知らぬか。万喜の御方は、知恵者だ。汝の思いを問うてこい。仔細については国許で語ってくれようぞ。家老たちがそなたを待ちかねているであろうよ」
珍しく関所の役人は代変わりをしていなかった。
「万喜の御方さま」
「手数をかけるわね。最近、若殿が国許へいらっしゃったのでは」
「おいでになりやした。それはそれは可愛らしい若武者ぶりで」
三年前と同じように、役人が告げる。
だが以前より満面の笑みを浮かべながら。
「行列を見た者が言うておりやす。なんとも匂い立つような御美しさであられたと」
「なるほど」
容敬以前の藩主は蒲柳の質が多く、馬に乗ることすらままならぬ者も多かった。だが容保は養父と同じく馬上にあって入国したという。
「そういえば、私は当番ではなかったんでやすが、若殿が御下命されておりやす。万喜の御方ご入国の際は、早急にお城にお伝えせよとのことでがす。このような御下命は初めてでごぜえます。何より、お支度の品がすぐに届いておりまして」
「ほう?」
しずしずと役人が差し出した行李には確かに、小袖と馬乗り袴が入っていた。
「すまぬが、髪結を手配してもらいたい。ここまで準備が整っているのなら、こちらも調えて城下に向かうとしましょう」
「はい」
最近ではすっかり真紀のお気に入りになった黒紅に染められた会津木綿は、しかし初めて袖を通した時よりも上質なものになっていた。木綿らしい幾分肌触りの荒かった木綿は、手間暇かけて紡がれ、染められ、織られているため、真紀の肌の上をさらりと覆った。
袖と前身ごろに刺繍で桜枝が二振り三振り。それも真紀のお気に入りの意匠だった。もう何代も前から、同じ会津木綿で、同じ黒紅色、同じ意匠だが毎回工夫を凝らしているのだろう、少しずつ印象は違っていた。
今回用意されたものは、幾分上質すぎる衒いは受けるけれど、袖の刺繍が見事で真紀は思わず笑みをこぼす。
柔らかく染められた若緑と東雲色に染められた木綿糸で刺繍された桜枝は、素朴さを残しつつも可憐な様子を見せる。
藍鼠の馬乗り袴を合わせれば、普段自分に無頓着な真紀も思わず笑み零れた。
「おや。選んだ御仁の、趣味の良いこと」
似合うというより、しっくりと落ち着く。
着付けを手伝う役人の妻が満面の笑みで言う。
「御衣裳を届けになられだお役人が、おっしゃられますた。こたびの御衣裳は照姫様が、自ら糸から紡がれ、刺繍もされだようんでごぜえます」
「照姫様とは、確か一の姫ぎみ」
「はい」
保科家連枝から養女として招かれた照姫。高い教養で容保養育の助けに随分と助力してくれたと、容敬が笑ったのを不意に思い出した。
供も連れず、騎乗の人となった真紀はゆっくりと城下に向かう。
関所から真紀が着いたことは先触れされているので、通りがかる村々の関所では真紀の馬が通れば呼び止めもせず、通してくれる。
馬上から見る会津は、平穏そのものだった。
真紀は不意に思い出した。
『参勤で国許に戻れば、安堵する』
『安堵?』
『江戸から下れば、様々な藩の領地を通るであろう? 騎上から見れば、民の暮らしが見える。行きかう商い人の様子が見える。荒れる藩では、民草の顔が昏い。商い人も早々にその藩を抜けようとする気配が分かる』
『会津は違うと?』
『うむ。わしの目が届かぬところは如何な仕儀かは分からぬ。だが、会津に入ればわしを迎える民草に、年寄りが増えるのは分かる』
『成程』
『困窮すればするほど、民草は涙を飲んで年寄りに惨い扱いをすると聞く』
まだ病み窶れる前の正之は、久しぶりの訪ないだった真紀を連れて、猪苗代湖のもとまで来ていた。
水面がきらきらと輝き、正之の顔を照らす。
穏やかに微笑みながら、正之が言った。
『民草が安堵し、商い人が品を並べ、田に稲穂が垂れる。子らの書を諳んじる声を聞く。それこそ、わしの安堵そのものじゃ』
小さな村でも商い人が村人とやり取りをしているのが見える。
街道を進めば、どこからともなく論語を諳んじる子どもの声が響く。
年寄りがまだ歩くもおぼつかぬ幼子を連れて、行きかう。
田には緑葉が青々しく。
正之が安堵と称した世界が、そこには広がっていた。
翌日。
手配されていた宿で、真紀は客人を迎えた。
「西郷近思でやす」
深々と頭を下げられて、真紀は頭をあげるように促した。
「西郷どの。過日来ですね」
「はい」
ゆっくりと頭をあげた壮年の男は、穏やかに笑って。
「万喜の御方におかれやしては、ご機嫌麗しゅう」
「若殿が国許におられると聞いたので、馳せ参じましたよ。ところでそちらは」
西郷の後に控えるように平伏する者を問うと、西郷が小さな声で促した。
「御挨拶ば」
「は。西郷近思ば嫡男、近悳にごぜえます」
月代も青々とした青年に、真紀は笑み零す。
「西郷どのに、かような跡取りどのがおられたとは。御歳は?」
「は、二十歳ばなりやした」
「一昨年、元服を済ませたばかりにて」
鷹揚に頷けば、西郷が声をあげる。
「万喜の御方」
「はい」
「おそれ多いことですが、若殿は先日、領内巡回に向かわれ、お帰りは五日後でごぜえます」
「あら、それは」
真紀は小首を傾げて、わずかの間逡巡したけれども。
すぐに微笑みながら言った。
「ではこういたしましょう。ここから土津神社に参詣します。そののち、城下に向かうとしましょう」
「申し訳ないことで。ではこの近悳をお供におつけくだせえ」
未だ浅慮の者なれば、万喜の御方のお引き回しのほどを。
西郷の言葉に、真紀は鷹揚に頷いた。
「父上、若殿様をお呼び戻しになっしょった方がよいのでは?」
近悳の言葉に、真紀の部屋を下った西郷が小さく笑う。
「にしもそう思うか」
「はい。万喜の御方といえば、土津公と同格にと言うのが我が藩の習わしでんしょ? 若殿様がお知りになったら」
「よいのだ。先の訪ないの時、殿が予定を変えて藩内巡回から帰られた折、万喜の御方はこう仰った」
藩主の努めは、領民の暮らしを見、行くすえを安堵すること。たかが女人一人の訪ないに応うてその努め、一時とも送らせてはなりませぬよ。
予定を変えるように進言した家老たちの背中に、冷たい汗が浮いたことを西郷は未だに覚えている。
「近悳。あん御方は会津の宝じゃ、あん御方がおらなんだら、今の会津はありゃせん」
父の言葉に、近悳は瞠目する。
「それは如何なる」
「五代容頌公の藩政改革は、にしも知っておろう?」
「はい、日新館で学びました。天明の頃でごぜえやしたか。飢饉からくる危機であったと」
破綻しかけた会津藩の財政を好転させるため、容頌ですら自らの経費を切り詰めたという。一方で荒廃した農村の復興と、殖産興業を推し進めた。
「任地に赴くようになったのは、この頃からでごぜえましょう?」
「うむ。改革の前に訪なわれた際に、万喜の御方が言われたそうじゃ。名誉職でないならば、自らの見聞で領地を判断せよ。自らの血肉となる領地を粗末に扱うべからず」
近悳は再び瞠目する。
西郷は小さく笑って、
「いや、先の訪ないで万喜の御方が何故、巡回をとどめたことを咎められたのかが気になってな。万喜御殿日記なるものがあるのじゃ。御殿で万喜の御方から見聞したことをすべて書き残してある」
「それで」
「それからな。かの藩政改革の折、さまざまなものを新たに栽培するようになったであろう? あれは日新館に時の家老から下命されたそうじゃ。会津に合うた作物を探し、育ててみよと。これも万喜の御方の御助言だったと聞く」
あげれば、きりがないわと父は言葉を切った。
近悳は数度瞬いて。
「万喜の御方とは、まこと知恵者で」
「うむ。土津神社参詣とはいえ、二人で参るのだ。なんぞ御話があるやもしれぬ。心に留めおき、帰ったらわしに聞かせてくなんしょ」
「はい」




