五話
エンヴィーはいつもの癖で夜明け前に目を覚ました。
王都では毎朝、使用人より早く起き、帳簿を確認し、父や王家に提出する書類の下書きをしていた。
婚約破棄されてやるべき仕事がなくなった今でも、その習慣は抜けない。
「……少し、歩きましょうか」
身支度を終えて、
誰にも迷惑をかけないよう静かに廊下を歩く。
昨日のうちに、辺境伯邸の中であれば好きに出歩いていいと言われている。
外から慌ただしい声が聞こえてきた。
これでも耳がいい自覚がある。
社交場で生き抜く中で、自然と磨かれたものだ。
「急げ!」
「診療所へ運べ!」
「高熱だ!」
エンヴィーは思わず駆け寄る。
荷馬車には十歳ほどの少年が横たわっていた。
顔は真っ赤に熱を帯び、苦しそうに息をしている。
「どうしたのですか?」
騎士が頭を下げた。
「村で熱病が広がっています」
「毎年この時期になると流行するのですが、今年は特にひどくて……」
その言葉を聞いた瞬間、エンヴィーの表情が変わった。
「熱病……?」
彼女は少年の手首に触れ、瞳を見つめる。
「違います」
「これは熱病、感染症ではありません」
「え?」
「井戸のお水を飲みましたね?」
村人たちが驚いて顔を見合わせる。
「な、なぜ分かったのです?」
「症状が違います」
エンヴィーは静かに立ち上がる。
「井戸を見せてください」
案内された村の井戸を覗き込むと、水面にうっすらと白い膜が浮いていた。
「やっぱり……。」
彼女は井戸のすぐ近くに咲く草を見つめる。
「この花です。」
「毒花の根が井戸まで伸びています」
「今年は雨が多かったので、根から成分が溶け出したのでしょう」
村人たちは息を呑んだ。
医師でさえ原因が分からなかったのに、一目で見抜いてしまった。
「すぐに井戸を封鎖してください、代わりに山の湧き水を使います」
「それと、この薬草を煎じてください」
エンヴィーは迷いなく薬草の絵を描いて、医師に渡す。
その姿を、屋敷の二階からミミクが見つめていた。
「旦那様」
執事が小さく笑う。
「止めなくてもよろしいので?」
ミミクも苦笑する。
「止めても無駄だろう。困っている人を見たら放っておけない。十年前からまるで変わらぬ」
その日の夕方。
診療所に運び込まれた患者の熱は下がり始めた。
村人たちは歓声を上げる。
「助かった!」
「本当に助かった!」
「奥様のおかげだ!」
その呼び方に、エンヴィーは戸惑って首を振る。
「私は奥様ではありません。辺境伯様とは契約で――」
「契約ではありません。」
いつの間にか隣へ来ていたミミクが、穏やかに言う。
「私は本気です。」
「皆にも、そう伝えています。」
「……え?」
「あなたが嫌なら待ちます。」
「ですが。」
「諦めるつもりはありません。」
真っ直ぐな言葉に、エンヴィーは思わず目を逸らした。
心臓が落ち着かない。
こんなにも大切に扱われる理由が、どうしても分からない。
その頃、王都では──。
バーシャは乳母を呼び出していた。
「この紙は何ですか?」
羊皮紙を机へ置く。
乳母の顔色が一瞬で青ざめた。
「お、お嬢様……。」
「日記は、私が書いたものですよね?」
沈黙。
長い沈黙の末、乳母は膝をついた。
「申し訳……ございません。」
「一部は、私が書き直しました。」
バーシャは目を見開く。
「どうして?」
「旦那様から命じられたのです。」
「お姉様を厳しく記録するように、と。」
「お父様が……?」
信じられなかった。
父はいつも公平で、姉にも自分にも同じように接していたはずだ。
だが、その記憶さえ本当に正しいのだろうか。
乳母は震える声で続ける。
「私は命令に従っただけです。」
「ですが……。」
「お嬢様。」
「エンヴィー様は、一度もあなたを憎んでなどおりませんでした。」
その言葉を聞いた瞬間、バーシャの脳裏に、忘れていた光景がよみがえる。
雪の日。
転んで泣いていた幼い自分を、姉が優しく抱き上げてくれたこと。
『バーシャは私が守るからね。』
その声だけが、昨日のことのように鮮明によみがえった。
バーシャは震える唇を押さえながら、小さく呟く。
「……姉様。」
「私は、とんでもないことをしてしまったの……?」




