赤い目の怪物.4
酷い夕立に晒された私たちは、ずぶ濡れになりながら寮へと戻った。
体中が濡れていて、べっとりと張り付く衣類がずっしりとしていて気持ち悪い。でもそれ以上に、私の心は自分で考え出した疑惑によって重くなっていた。
「それじゃあ、今日は解散だな」といつもはハリネズミみたいに逆立たせた髪をしんなりとさせたレイジが言う。それに対し、下着とボディラインをくっきりと浮かび上がらせたツヅリとマキナが同調した。
私の返事を待たずして、三人はそれぞれ自分の部屋に戻ろうと歩き出す。
一旦、このままみんな帰したほうがいい。
心の中で、私の声を借りた臆病者がそう呟くも、すぐに妙な使命感に燃えている私がそれを否定した。
(いや、せめて、確認だけでも…!)
私は意を決し、口を開いた。
「マキナ」
「はい、何でしょう」
くるり、とマキナがこちらを振り返る。同時にレイジやツヅリも階段の踊り場からこちらを見下ろしたが、私は気取られないために普段通りの微笑みを浮かべて、二人は先に自室へ戻っておいてくれと伝えた。自分は宿題のことでマキナに聞きたいことがあると嘘を吐いて。
二人ともたいして疑わなかった。マキナだって、いつも通りだ。
だから私は、そのままマキナを連れて二人きりになれるところを探そうとした。だが、生憎の雨のせいか、寮のロビーや談話室には必ずといっていいほど他の生徒がいてそれが叶わなかった。
さて、どうしたものかと困り顔を浮かべる私にマキナが言う。
「誰にも聞かれたくない話なのですね」
私は一瞬躊躇したうえで、こくりと頷いた。そうすればマキナは、「手間ですし、多少濡れてしまうでしょうが、校舎のほうへ参りましょう。今日はどこの教室も空いているはずです」と提案した。無論、反対する理由もないため、私もそれに同調し、校舎へと向かった。
真っ白の傘を広げたマキナは、道中、何も言わなかった。だからというわけではないが、私も口を閉ざしていた。
校舎に到着した私たちは、不気味な静謐に満ちた廊下を抜け、人の気配のない空き教室へと入った。
静かだった。雨の音だけがノイズとなって響いているが、些細な問題だ。この心臓が跳ねる音に比べれば。
「ここで構わないでしょう。…どうされたのですか、アイ?何か悩み事ですか?」
「うん…まぁ…」
解答をぼかすような返事にマキナは小首を傾げる。理解できないときの反応は決まってこうだった。
どう口火を切るべきか迷っているうちに、ぽたぽたと滴が体中から垂れて、教室の床を黒く湿らせていることに気がついた。だから私は、ほとんど無意識的にハンカチをポケットから取り出し、滴を拭き取ろうとしていたのだが、偶然それを部屋に忘れてきてしまっていた。
「どうぞ、アイ」
いつの間にか近寄って来ていたマキナが、そっとハンカチを差し伸べてくる。
彼女は、自分が濡れていることは気にも留めていない。不愉快ではないのだろうか?肌に張り付く布地の感触は、こんなにも嫌悪に満ちているのに。
私の無言をどう受け取ったのか、そのうちマキナは自然な手つきで私の濡れた髪や頬、そして体を拭き始めた。
ある種、煽情的な光景だった。下着の透けた美少女が、私の体を丁寧に拭いてくれているのだ。足元を拭いてくれているときなんかは、しゃがんでいるせいでその純白の太ももが大胆に露出していた。
ぼうっと…私は考える。
もしも、ツヅリと出会っていなかったら、私はこの摩訶不思議で、変わり者で、だけど独特の魅力にあふれた美少女に恋をしていたのだろう、と。彼女の警戒心のない姿にも、劣情を覚えただろうと。
でも…今のこの心にそんなものは浮かばない。
ラッキーだとか、やらしいなぁ、とか、そんな馬鹿なことを感じてほしかった。自分が気にかけていることは、どうってことないんだと思わせてほしかった。
しかし、心がすでに確信を持っていた。
私の直感は、結構当たるから…。
「雨に濡れたときは…よく、こうしてくれてた」
ぼそりと漏れ出た私の言葉に、マキナが顔を上げて返す。
「誰がですか?」
サファイアの瞳が、パチ、と瞬きをする。
1…。
2…。
3…。
パチっ。
「マザーが、だよ」
ルイが大事な懐中時計を片手にして、相手の顔とじっと見比べていたのは…何かの間隔を測っていたのではないか。
ルイは初めから、自分に偽りの知識を植え付けようとしているマザーや先生を疑っていた。だが、頭の良い彼はきっと、さらにその後ろに何者かの存在を予期していたのではないだろうか?そしてその何者かは、私たちの身近にいると。
義体なんていう、いかにも人間とは違う容姿ではなく、最も私たち人間の監視・観察に適した姿で潜んでいると。そう予測を立てた私が最初に目星をつけたのは、呼吸だった。
どんなシチュエーションでも、息一つ乱さず、常に一定間隔でメトロノームみたいに呼吸を行うのであれば、それはもはや人間ではない。『プログラムされた』動きだ。
しかし、その予測は外れた。というよりも、パッと見て、相手の呼吸の間隔を図ることなんてできるはずもないと途中で気づいたのだ。
そのとき、先刻の雷が偶然にも私に閃きを与えた。
呼吸なんかよりも、もっと分かりやすい動きがある。瞬きだ。
レイジやツヅリは、不意に鳴った大きな雷鳴に目を丸くし、瞬きを忘れていたようだったが、彼女は――マキナは違った。
ただ、同じ間隔で瞬きをしていた。
三秒間に一度目蓋が開閉する。プログラムされたコードに沿って。
私はゆっくりと震える息を吐き出した。勇気の助走だった。
マキナはそんな私の様子を見やり、不思議そうに小首を傾げる。
「どうかしましたか、アイ。顔色が…」
「マキナ、もういい。もういいよ」
未だ、自分の足に触れているマキナに対し、私は静かに告げる。
「分かったから、もう。マキナ、人間じゃないんでしょ?義体、なんでしょ?」
心臓がうるさかった。
冗談だとしたら最低で、冗談じゃなかったとしても致命的なその宣告を受けてもなお、マキナは等間隔で瞬きをした。じーっと、こちらを見上げたままで。
それこそ、彼女が人間ではないことの表れだった。
「アイ、面白い冗談ですが――」
「瞬きの間隔。決まって三秒に一回だよね」
刹那、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。不気味で息苦しい静けさだ。そんな中でも、マキナは依然として姿勢も、視線の先も変えなかった。
「ルイ君が、私に時計を遺していった。あれは、自分がやっていたようなやり方で人間の中に紛れている義体を探し出せっていうメッセージだったんだ」
思えば、マキナはあらゆる仕草が機械的ではあった。
声に抑揚がなく、挙手をする腕は天に対してあまりに垂直で、人との距離感も、パーソナルスペースという概念が曖昧すぎたから、普通ではなかった。冗談なんかを真に受けたりするのも、笑いの反応が一歩遅れているのも、全部、人間ではなかったからなのだ。
「なんで…なんで、今まで気がつかなかったんだろ。いや、そうだ、私たちの中に義体が混ざっているなんて考えもしなかったからなんだ。義体のイメージは、マザーや先生みたく、分かりやすくメカニカルだったから」
私は一人後悔した。ルイが生きている間にそれに気がつくことができれば、何か違ったかもしれない。彼は死なずに済んだかもしれなかった。
…あぁ、そうだ。私はなんて馬鹿なんだ。
廃棄物処理区画で見つけた、あの謎の通路。
あれの高さは、マザーや先生用の大きさではなかった。
人間サイズの義体だけが行き来できる、通路だったんだ。
だからきっと、彼女は特別な義体。
そう、このシェルターで行われている実験の黒幕なのではないか。
「マキナ…!」
マキナは、パチ、パチと瞬きをした後、決してこの場にはそぐわない、完璧な微笑みを浮かべたのだが、それはとても不気味で、私の背中をぞっと粟立たせるのには十分すぎるほどであった。
「私が、義体ですか」
パサッ、と私の足を拭いていた白いハンカチが床へと落ちる。それに見向きもしなかったマキナは、そのまま繊細そうな両手の指の先で私のふくらはぎ、太もも、腰…と下から上へと体をなぞり上げる。
「面白い考えです、アイ」
何かを調べられているみたいな手つきに、無意識的に後ずさったものの、マキナはそれに一定間隔で追従してきた。
やがて、私の逃げ場はなくなり、教室の壁に押しつけられたような恰好にさせられる。その頃には彼女の指先も脇腹、脇、首筋へとまわっていた。
「…っ」
このまま首を絞められるのかもしれない、なんて想像が私の心臓の鼓動をさらに加速させるも、マキナの指は滑らかに私の顎をつたい、頬を包んだ。
「ですが、客観的な証拠ではありません。仮に私が“そう”だとしても、瞬きのテンポぐらい、簡単に変えられますよ。――こんなふうに」
そう言うと、マキナはじっと瞬き一つせず、一分ほど私を間近で凝視した。
整った顔立ちが、逆に今は不気味に感じられる。獲物を見つめるだけで石化させてしまえる怪物の話を思い出した。
「さて、それならばどうやって証明してみせますか?私が義体だと。ふふ、マザーの手のひらと同じように、私の手も冷たいですか?」
そんなことはなかった。マキナの手は温かい。
マキナは、無言ながらに自分のことを睨みつけてくる私のことをどう思ったのか、欠けのない満月みたいな美しさで微笑み、こう呟いた。
「真偽を定かにするのに、ちょうど良い方法があります。アイ」
「良い、方法…?」
こつん、とマキナが自分の額と私の額をくっつけた。近すぎる顔にドキッとしたが、直後彼女の口から飛び出してきた、温もりとは裏腹の冷血な言葉に耳を疑う。
「私の首を絞めるのです、アイ」
「え…!?」
そっと、マキナの指が私の手を取る。得も言われぬ感覚で痺れた私の頭は、彼女の成すままにされていた。
「酸素が脳に行き渡らずとも私が平気な顔をしていたなら、それは生き物ではない証。顔が真っ赤になって、苦しそうにしているのであれば、生き物の証」
触れさせられる、マキナの首筋。
「さあ、アイ。確かめなければなりません」
脈動しているような、そうではないような…。
「ルイや貴方が持つ、探究の光。それが指し示すほうへ、進むためにも」
徐々に、徐々にマキナが指先に力を入れ始める。それに伴って、私の指先も彼女の白い首筋に埋没していく。
「…っ、はぁ、っ…!」
鼓動の加速に従って、私の呼吸が激しく乱れる。
緊張か、不安か、それとも別の何かしらかが、私の心臓を締め上げた。
確かめることができれば。
そうすれば、おそらく、いや、ほぼ確実に、誰の目から見ても黒幕の正体を突き止めることができたと言えるだろう。レイジやツヅリも私の言葉を疑うまい。
(…でも)
この指先に力を入れれば…。
(…だけど…!)
ふと脳裏に、マキナと過ごした時間のいくつかが泡沫の如く浮かんだ。
図書館で、友だちにしてくれと頼んできた彼女のこと。
廃棄物処理区画で、雑談を楽しいと微笑んだ彼女のこと。
喫茶店で私を案じてくれたこと、感謝している、と真剣に言ってくれたこと、レイジとルイと四人で過ごした、奇妙な…でも、微笑ましいひとときのこと。
それら全てがまやかしだったとは思えない。少なくとも私にとっては。
義体に心がなく、二人の間に絆もなかったのだとすれば――今、私が感じている痛みは、幻肢痛みたいなものだとでもいうのか。
私は…マキナの首にかかる指先に力を込め、離れようと抵抗した。
「マキナ…」
真っすぐに、マキナの瞳を覗き込む。
青い深淵は、感情の読めない色で私を覗いている。
「…無理、だよ…」
「どうしてでしょう。確かめずにはいられない。それが貴方たち人間では?」
「理屈、じゃないよ」
ふるふると、首を左右に振る。
「…親友じゃん、私たち…!」
一瞬だけ。
一瞬だけ、マキナの動きが止まった。
それはまるで、何かに驚きを覚えているように。
でも、すぐに彼女は動き出した。淡々と作業を繰り返す義体たちと同じ無表情で。
「では、私のほうが確かめさせて頂きます」
マキナの細い白無垢の如き指先が、私の首筋に這い寄る。
そのとき、マキナの青い瞳が真っ赤に色づいた。
まるで、怪物のようだった。
人の姿をして、人を食らう――あの物語の中の…。
「自らが『親友』と設定した貴方を失うことで、何かしらを得るのか」
直後、すさまじい力で首を絞められる。
「っ」
数秒で耳鳴りだけが響き、視界は黒ずみ、世界が遠くなる。
マキナ、と口の形だけが変容するも、『怪物』に変わってしまった彼女には何も届かない。
気を失う刹那、私は見た。
教室の入口からバット片手を構えて飛び込んでくるレイジを、青い顔で動けなくなっているツヅリを。
そして…、不安から左右に揺れる、人間の瞳そっくりに作り上げられた美しいルビーを。
…いや、分からない。私がそう見たかっただけなのかもしれない。
ルイやツヅリと違って…見たいものだけを見て、与えられたものだけを与えられ慣れてきた私が最期に見た、都合の良い…。
これにて五章は終了です。
残すは六章だけなので、今後もよろしくお願いします!




