第6話 小さな特別
雨だった。
夕方から降り始めたそれは、夜になる頃には本降りになっていて、オフィスの窓を絶えず叩いている。
フロアにはもうほとんど人がいなかった。
山本は画面を見つめたまま、小さく息を吐く。
……終わらない。
いや、正確には終わる。終わるけど、今日中に片付けたい作業が細かく積み上がっているだけだ。
「まだ帰らないんですか?」
不意に声をかけられて肩が跳ねた。
顔を上げると、朝倉がいた。
バッグを肩にかけたまま、こちらを見ている。
「あ……いや、もうちょっと」
「また残業」
「朝倉さんこそ」
「私は今から帰ります」
そう言いながら、彼女は山本のデスクの横に立ったまま動かない。
沈黙。
雨音だけがやけに近い。
山本は居心地が悪くなって、キーボードに視線を戻した。
朝倉は、自分のことが好きだと言った。
あの日から、変に意識してしまう。
冗談みたいに軽く言ったくせに、本人はたぶん、本気だった。
だから困る。
自分はそういう対象じゃないと思って生きてきたから。
「山本さん」
「……はい」
「コーヒー飲みます?」
「え」
「コンビニ行くのでついでに買ってきますよ」
「いや、悪いです」
「じゃあ私が飲みたいので付き合ってください」
その言い方がずるい。
断りづらいのを分かっている顔だった。
◇
外に出ると、空気が冷えていた。
朝倉が傘を開く。
当然のように山本の方を見た。
「入ります?」
「いや、コンビニすぐそこですし」
「一緒に行くのに」
「……」
「濡れますよ」
結局、同じ傘に入った。
近い。
肩が触れそうで触れない距離。
柔らかいシャンプーの匂いがして、山本は妙に落ち着かなくなる。
「寒くないですか」
「……まあ」
「顔色悪いですよ、今日」
「普通ですよ」
「普通の人は三回連続で飲み物をこぼしません」
「見てたんですか」
「見てました」
少し笑う声。
山本は視線を逸らした。
こういう距離感に慣れていない。
優しくされるのも。
気にかけられるのも。
自分に向けられる好意も。
コンビニで朝倉はホットコーヒーを二つ買った。
「はい」
「……いいですよ、自分で」
「ご褒美です」
「何の」
「今日もちゃんと働いていたのでって、何か偉そうですね。とにかく、ご褒美なんです」
思わず笑いそうになる。
そんなことで褒める人がいるのか。
「朝倉さんって、変ですよね」
「知ってます」
彼女は平然と言った。
店を出ると、雨は少し弱くなっていた。
傘の下、また距離が近づく。
山本は手の中の温かい缶コーヒーを見る。
ただのコンビニ。
ただの帰り道。
なのに。
不思議なくらい、悪くなかった。
朝倉が隣で小さく笑う。
「……山本さん」
「はい」
「また残業の日、付き合ってくださいね」
断ればいいのに、と思った。
なのに。
「……気が向いたら」
口から出たのはそんな言葉だった。
朝倉が嬉しそうに笑う。
その顔を見て、山本は少しだけ困る。
――この距離が、少しだけ心地いい。




