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中年サラリーマンの俺だけど、会社の斜め向かいの席のギャルになぜか懐かれている  作者: 只野 唯
第2章

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第1話 同じ席、違う距離


 昼が近づくと、フロアの空気がわずかに緩む。

 キーボードの音は続いているが、どこか間延びしているように聞こえた。

 集中できていないのは、自分だけかもしれない。

 視線をモニターに落としたまま、意識だけが斜め向かいへ向く。


 見なくても分かる。そこに、朝倉さんがいる。

 ――好きです。

 この間の夜の言葉が、まだ残っている。


 カーソルが点滅している。

 打ちかけの文章の先に進めない。

 視線を上げそうになって、やめた。


 目が合う気がしたからだ。

 何を意識してるんだ、と思う。

 前と同じ席で、前と同じ距離だ。


 それなのに。


「山本さん」


 名前を呼ばれて、指が止まった。

 ほんの一拍遅れて、顔を上げる。

 やっぱり、目が合った。


 朝倉さんが椅子をくるりと回して、こちらを見ている。

 いつも通りの明るい顔。けれど、その奥にほんの少しだけ緊張が混じっている気がした。


「今日、お昼どうします?」


 軽い調子。

 まるで何もなかったみたいに。

 それが逆に、逃げ場をなくす。


「……どうします、とは」


 わざと少し遅らせて返す。

 声が、少しだけ固い。


「ランチですよ」


 小さく笑う。

 その笑いに、胸の奥がわずかに緩む。


「定食屋、行きません?」


 あの店だ。

 路地の奥の、小さな店。焼き魚の匂いがする場所。

 何度か一緒に行った。


 特別でも何でもない、ただの昼休み。

 ――本当に、そうだったか。

 一瞬だけ考える。


 行かない理由なら、いくらでも出てくる。

 仕事がある。

 急ぎの資料がある。

 今日はやめておこう。


 どれも嘘じゃない。

 でも。

 朝倉さんの視線が、まっすぐこっちを見ている。


「……行きます」


 結局、そう言っていた。

 自分でも、少し驚くくらい自然に。


「ほんとですか?」


 ぱっと表情が明るくなる。

 その変化が、思っていたよりも近くで見えて、少しだけ視線を逸らした。


「嘘つく理由もないでしょう」

「嬉しいです」


 その一言で、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。

 困るな、と思う。

 こういうのは、困る。


 昼休み。

 二人で会社を出る。

 春とは名ばかりの暑さに汗が滲む。


 並んで歩く距離が、妙に近い。

 腕が触れそうで触れない。

 そんな位置。


 前も、こうして歩いていたはずなのに。


「暑いですね」

「そうですね」


 それだけの会話なのに、妙に意識してしまう。

 隣にいるのが、ただの同僚じゃない気がして。

 店に入ると、出汁の匂いがふわりと広がる。


 その瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。

 席に案内されて、向かい合う。

 メニューを開く。

 視線を落とすと、ようやく呼吸が整う。


「今日は何にします?」

「……サバかな」

「いいですね。私、本日の焼き魚定食にします」


 いつも通りのやり取り。

 でも、声の温度を少しだけ探ってしまう。


 注文を終えると、短い沈黙が落ちる。

 気まずいわけじゃない。

 でも、前とは違う。


「山本さん」


 呼ばれて、顔を上げる。


「この間のこと」


 心臓が、一瞬だけ強く鳴った。


「……はい」

「変に気まずくしなくていいですからね」


 あっさりと言う。

 その言い方が、どこか優しくて。

 同時に、少しだけ残酷だと思った。

 なかったことには、できないのに。


「前と同じでいいです」


 そう言って、笑う。

 前と同じ。

 それができるなら、どれだけ楽だろう。


「……そうですね」


 うなずく。

 けれど、分かっている。

 もう同じじゃない。


 料理が運ばれてくる。

 焼きサバの香ばしい匂いが立ち上る。


「いただきます」

「いただきます」


 箸を取る。

 同時に伸びた箸が、一瞬だけ触れた。


「あ」

「……すみません」


 どちらともなく、少し引く。

 ほんの一瞬。

 それだけなのに、妙に意識が残る。

 一口食べると、ほっとする味だった。


「やっぱり美味しいですね」

「そうですね」


 少しずつ、会話が戻ってくる。

 仕事の話。

 どうでもいい雑談。


 笑うタイミングも、だいたい同じだ。

 気づけば、肩の力が抜けていた。

 ――この時間は、やっぱり嫌いじゃない。


 いや。

 むしろ、好きだ。


 食事を終えて、店を出る。

 来たときよりも、少しだけ距離が自然になっている気がした。


「また来ましょうね」


 朝倉さんが言う。

 一瞬、言葉を選ぶ。


 「いいですよ」と言えば、それでいいはずなのに。

 なぜか、少しだけ迷った。


「……そうですね」


 結局、それだけを返す。

 それ以上は、言わない。

 言えない、の方が正しいかもしれない。


 会社に戻る道すがら、ふと思う。

 前と同じでいい、と言われた。

 確かに、その通りかもしれない。

 でも。


 前と同じでいようとするほど、違いが浮き上がる。

 斜め向かいの席。

 変わらない距離。


 それなのに。

 その距離は、ほんの少しだけ近くて、

 そして、前より遠かった。


 前と同じはずなのに。

 前と違う。

 その違いだけが、静かに胸の奥に残っていた。


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