第15話 北から吹く風
ヘズレアから西の山を越え、さらに谷をひとつ下った先にある村で、数日前から異変が起きていた。
最初に倒れたのは、一頭の羊だった。
まだ若く、前日まで元気に草を食んでいたその羊が、翌朝、餌の桶にも顔を寄せず、畜舎の片隅で静かに横たわっていた。
柵は破られておらず、外傷もない。獣に襲われた痕跡はなく、病の兆しもなかった。ただ、まるで眠るように、息をしていなかった。
次に異変があらわれたのは、村の子供だった。
夜に微熱を訴えたあと、朝になっても目を覚まさなくなった。
羊の件が一度きりで終わっていれば、あるいは子供の症状が一人だけだったなら、村人たちは大ごとと受け止めなかっただろう。けれど、日を置かずして似た症状が繰り返され、異変はゆっくりと村を侵し始めていた。
◇ ◇ ◇
その報せは、ヘズレアの冒険者ギルドへと届いた。
貼り出された依頼書には簡潔にこう記されていた。
《瘴気による原因不明の衰弱症例、治癒士を要請》
ミルドギフ・アイアンハンドは、その裏に添えられた詳細な聞き取り記録を読み終えると、眉根を寄せたまま依頼書を片手に診療所へと向かった。
◇ ◇ ◇
「……あたしに行けってこと?」
エルフスリスの問いかけに、ミルドギフは深く頷いた。
「本来なら、戻ってきてるはずのウィンフレズに任せるつもりだったんだが、今回は長引いてるらしい。村で起きてることが瘴気なのか、あるいはまったく別の病なのか、ちゃんと見極められる人間に頼みたかったんだよ」
「長くは無理ですけど、数日間なら行けます」
エルフスリスの返答は迷いのないものだった。
ウィンフレズが二、三日で戻ると言い残して出ていってから、もうかなりの日が経っていた。
いま動けるのは、自分しかいない。
そして——“祈りが届かなかった”あの日の感覚が、胸の奥にくすぶっている。
「私が行きます。力になれるのなら」
「助かるよ。……まあ、あんたが行くだけで村の空気もだいぶ落ち着くだろうしね」
◇ ◇ ◇
出発の朝。
荷馬車の前で、ブリュンヒルドは明らかに不満そうに唇を尖らせていた。
「……なんで、あたしが留守番なの」
「様子を見るだけだし、大げさに考えなくても大丈夫よ」
「でもさ、あんたが行くってことは、それなりに危ないってことじゃないの? 一人で行かせたくないに決まってるでしょ」
言いかけて、ブリュンヒルドの手を、エルフスリスがそっと握った。
「ありがとう。でも、聖なる力を使う人は病にかかりにくいって言われてるの。あなたが行くより、私の方がずっと安全だから」
ブリュンヒルドは、渋々ながらも頷いた。
「ちゃんと、無事に戻ってくるんだよ。……ほら、お守り、持ってきな」
エルフスリスは笑みを浮かべて、それを受け取った。
◇ ◇ ◇
馬車が山道を進む中、風が北から吹いてきた。
それはいつもより冷たく、乾いていた。
体に刺さるほどの鋭さではないけれど、肌の奥底に残るような、妙に記憶に引っかかる風だった。
エルフスリスは目を閉じる。
その風は、遠い昔に何かを思い出させるようでいて、けれど何を思い出そうとしているのか分からない。
記憶の端をかすめるだけの、音のしないざわめき。
——何かが、少しずつ、世界の底で変わりはじめていた。
誰にも見えないところで、しかし確実に。




