第16話 届かない祈り
村は、静かすぎた。
風もなく、鳥の声もない。空気そのものが凪いでいるかのようだった。
エルフスリスが足を踏み入れたその村は、数十戸ほどの小さな集落だったが、どの家にも不安の影が漂っていた。
「来てくださって感謝します。……状況については、把握されていますか?」
出迎えた祈祷師は、目の下に深い隈を浮かべ、ひどくやつれて見えた。
「ギルドからおおよその説明は受けています」
頷きながら答えたエルフスリスは、案内された家で眠る子どもの傍らに膝をついた。
子どもは目を閉じ、白い顔で微かに呼吸をしていた。肌の艶は失われ、まるで命の光が内側から抜け落ちてしまったようだった。
「体温は平熱より少し高いくらい。脈は微弱ですが、一定しています。ただ……呼びかけにも、触れても反応がありません。まるで、魂だけがどこかへ行ってしまったみたいで……」
祈祷師は、しぼるような声でそう言った。
同じ症状の者が他にもいるという。最初は微熱から始まり、やがて昏睡へと至る。それは、まるで静かに忍び寄る“死”だった。
◇ ◇ ◇
祈るしかない——そう思い、エルフスリスは子どもの額にそっと手をかざした。
深く息を吸い、祈りの心を整える。神殿でも、ヘズレアでも、何度も繰り返してきた癒しの行い。
だが——
光は、湧かなかった。
いや、湧いたはずの光は、どこにも届かず、まるで空中に霧散してしまったかのように、指先から滑り落ちていった。
(……どうして?)
手応えがない。届くはずのものが、空間のどこにも引き寄せられず、ただ消えた。
(……また?)
ヴァリンの谷で出会った老女に続いて、これが二度目だった。
どちらも、瘴気による症状とは異なっていた。
「届いていない……?」
呟いたその声に、祈祷師が顔を上げた。
「やはり、そうなりますか。私も、祈りや祝詞の類いはすべて試しました。でも、まるで何かが“遮っている”ようで……。そこにいるのに、そこにいないような。意識が、この世界と微妙に“ずれている”ような……」
言葉を選びながらも、祈祷師は苦しげにそう語った。
◇ ◇ ◇
その夜、祈祷所の離れで明かりを落とし、エルフスリスは寝具の中で目を閉じていた。
(私の祈りが、届かなかった)
“聖女”としての役割を失って以降、祈りが届かなかったのはヴァリンの谷での一度きりだと思っていた。それは偶然だったのか、力の揺らぎか……。
けれど、今回で二度目だ。
(……“聖女”でなくなったから?)
けれど、それはただの肩書きに過ぎないと思っていた。人として癒したいと願う気持ちは、むしろ今の方が強く、純粋なはずだった。
それでも、届かなかった。
そのときだった。
——灰が、舞った。
閉じた瞼の裏に、まるで夢のように現れたその光景。
白く、乾いた灰が、無音のまま空から降ってくる。
遠くに、ぼんやりと“灰色の男”の姿が浮かび上がる。
声はない。ただ、その存在がこちらを見ている。否応なく“見られている”という感覚だけが、冷たく胸を刺した。
(これは、予兆……?)
心が見せた幻想か、それともなんらかの兆しか。
どちらとも言えなかったが、確かなのは、自分が“変わりゆく何か”に足を踏み入れてしまったという感覚だった。
——聖女としての名を失っても、私は私だ。
——祈りが届かなくても、できることはある。
それを続けることでしか、この異変の正体には辿りつけない。
エルフスリスは、ゆっくりと目を開けた。




