第47話 死体隠し事件
オーストリア帝国のアジア領の辺鄙な街道を時速5kmという人間の速歩きにも満たない速度で移動する大集団があった。
武装をしているにも関わらず余りにのんきなその行進は、戦いに行く者たちとは到底思えない。
そんな列が夜になり目標地点、アクサライの近くに差しかかるとその移動は完全に停止した。
オーストリア帝国軍は敵地で行軍を止め、野営の準備に入ったのだ。
「正気の沙汰とは思えないな こんなのただ襲って下さい、と言ってるようなもんだ」
「僕達もひとまずは様子見だね」
「ああ 下手に奇襲しても何がある分からないからな」
天や玄としては敵が即座に戦闘をしないのが不思議ではあるが好都合なのだ。なぜならそれによって明日来る天夢と旭の第三、四軍を待てるからである。
ただ敵の行動に奇妙さを抱かざる得なかった。
オーストラリア帝国の首都、アテネの大宮殿では二人の男が玉座に向かって拝礼していた。
「準備が整いました。 30万の兵をキシナウに配置し終わり、陛下の命令でいつでも攻勢を開始できます。 陛下、どうかご英断を」
「我が帝室は彼らに、いや「彼女ら」に恩がある。 それにあそこは事実上の独立国で兵もいる。 30万の兵もどこまで減るか......」
「陛下のお気持ちも分かります。 しかしあの国は本来我が国の傀儡国、属国であるべき国なのです。 それなのにあの国は独立国として独自の軍を持ち、外交をしています。 だからこそ懲罰しなければならないのです。つまりこれは苦戦しているトルコの自軍を助ける戦いでもあり、クリミア自治領への懲罰戦争でもあるのです」
「それはそうだが......」
玉座に座るのはまだ成年を迎えたばかりと思われる青年、オーストリア帝国の皇帝だ。ただその青年からは年相応の色彩は失われ、厳格な統治者の顔が窺える。
その彼と対話しているのはオーストラリア帝国の文武百官の頂き、大宰相だ。実力者でもあり皇帝の母方の祖父でもある彼には皇帝も憚らねばならない。その大宰相にいつもの穏やかで冷静な調子は無い。
大宰相を悩ましている議題はクリミア自治領についてである。クリミア半島にあるオーストリア帝国傘下のこの「国家」は数十年前に誕生してから帝国の自治領として歩んできたが、帝国が東洋の超大国、皇国に攻められ窮地なのを見て、遂に独自の道を歩み始めたのだ。
「陛下。 私には時間が残されていません。 だからこそその前に狡猾な女狐を平定しなければならないのです。 だからどうか30万の兵に前進命令を下さい!」
「なぜです。 なぜお祖父様はそこまであの国を気にするのですか?」
皇帝は三人だけの場で自分の心情を切実に吐露する。目の前の人物、それこそ自分の祖父のクリミアへの執着のしかたは、自分が凡才だからかもしれないが異常に見えた。
「大臣。 例の物を」
「御意。 陛下、こちらです」
そうして大臣と呼ばれた壮年の男から分厚い紙の束が提出される。おそらく何かの資料だろう。それを受け取ろうと玉座の皇帝が左手を差し出す。
皇帝の左手は銀色だ。普通の手では無い。その機械の手は皇帝の義手だ。
大臣が目を下に向ける。
「別に君のせいじゃない」
「......」
大臣が苦々しい顔をする。
「それよりこれは前に話していたものですか? セバストポリ死体隠し事件、と見たところ警察のものに見えますが?」
「その通りです。 ただこれは特務機関が、37年前に警察が作った資料を、クリミア国の重要資料保管庫から奪ったものです」
大宰相が言った。
「特務機関がですか? しかしこれが何と」
そう言いながら皇帝は資料をひらひらとめくって読み進める。書いている内容は本当に簡潔な事件の報告書だ。
「不思議な点がございませんか?」
「不思議な点と言えば、そもそも死体が見つかっていないと言う事が不思議です」
「ええ この事件は37年前に住民が血痕を発見したところから始まります。 その血痕は面積が尋常では無かった事から既に被害者は失血死していると思われました。 そうしてクリミア半島の警察総動員で死体探しが行われましたが死体は見つかりませんでした。 そうしている内に地元住民と地元警察が捜査協力を拒否するようになったのです」
大宰相が事件の概要を淡々と説明する。まるで見てきたもののような言い方だ。
「住民と地元警察が捜査協力を拒否した理由は「仙人」と呼ばれる男の不興を買うのを恐れため......?」
「そうです」
「この資料にはよく分からない事が書かれています。 まず「仙人」とは誰ですか?」
「分かりません。 ただセバストポリでは、長く住み町の老人が子供の時からおり、それでいて容姿が美しく16、7歳の少年に見えたと」
「まさか」
複雑なこの事件に皇帝は資料を片手に唖然としている。思考が追いつかない。何を言っているのかが分からない。
「それで最後のページを見て頂けますか?」
その声で皇帝は資料の最後のページに手をかける。そこには更に皇帝を混乱に追い詰める短い事件の概略が書いてあった。
――11月5日、オーストリア帝国 セバストポリで大量の血痕を住民が発見。その量からすでに被害者は死亡していると見られた。即座に警察は事件、事故の両面で捜査を開始するが、近くに長く住み住民から尊敬され崇められている「仙人」の不興を恐れた地元警察、住民が協力を拒否。結果、これは事故として処理された。
またこの「仙人」はこの事故の前、住民に旅に出る、と語っており実際、彼の家に彼の姿は無かった。ただその家には入れ替わるように少女が住み始めた。
――端的に言いこれは事故などでは無い、事件である。
そう締め括られているこの資料からは事件の重みが伝わってくるように皇帝は感じた。これがただの事故や殺人事件に感じられなくなったのだ。
「それでこの「仙人」は分かりましたが、事件の後「仙人」の家に住み始めた少女は何者なのですか?」
「詳しくは分かりませんが特務機関と私はその少女をクリミア国の女王と見ています」
――まさか
皇帝は突拍子も無い言葉に玉座から転げ落ちそうになった。途方も無い話である。なぜなら、
「クリミア国の女王はまだ成人ですら無いですよ。 それに私も何回か見たことがありますが美しかった。 あれで37歳以上は有り得ない」
「あの女はそういう女だということですよ」
「どうすればいい?」
「進軍の許可を頂けますか」
「分かった。 許可する」
「ありがとうございます」
そうして大宰相と大臣は皇帝に向かって一礼して去っていく。彼らが出ていって巨大な扉が閉まったあと皇帝は自らの左手を見つめる。
相変わらずそこには銀色の義手がある。
はあ、と嘆息すると玉座の後ろから一人の女性がやって来る。美しい顔立ちの女性、いや少女と言っていいくらいの年齢の人だ。ただ玉座の後ろから皇帝に近づける者は限られている。祖父である大宰相か、弟のコウ、そして妻である后妃だ。
「どうしたの?」
そう笑顔で言う。微妙に后妃の顔が冷たいのはこれから話すことが重要で湿っぽいだからだろうか。
「今の話だけど......」
いつも明るい皇妃が少し声を小さくして言う。
「ああ さっきの事件の事? それがどうかしたの?」
「いや 似たような話をドイツでも聞いたから」
「ドイツで?」
「うん」
その言葉に皇帝は頭を抱えた。
「どうでしたか陛下への手応えは」
「良かったですよ。 許可も頂けましたし。 ただ帝室はクリミア自治領について悠長すぎる」
「帝室は彼の女王に恩がありますからね」
大臣がを歩きながら大宰相に話す。
「しかし閣下はよくこんな策戦を思いつきましたね。 感服いたします」
「これしかないですからね。 キシナウに兵を配置して黒海を迂回させ、アナトリア半島に向かわせる。 そしてその途上で問題のクリミア自治領を屈服させる。 成功すればクリミア問題を収めて、皇国に二正面作戦を展開できます」
「そうですね 失礼しました」
大宰相には人を寄せ付けないところがあった。
更新めっちゃ遅れました。 すみません




