第五話 女心は難しいと思う
舞台を片付け、急いで公爵邸へ戻ったレナトゥスは、ギネヴィアとイングリットに会う前に、と妹のエスターにかなりきつめに叱られていた。
「お兄ちゃん、馬鹿なの? イヴが笑い転げて呼吸困難になって運ばれたのよ?」
どうやら舞台を見ていたエスターの恋人イヴリースは、レナトゥスの婚約破棄の話を知っていたため、イングリットの乱入に思いっきり笑い、そして息ができなくなって病院へ運ばれたようだ。それもエスターが怒っている理由の一つだった。
しかし、それだけではない。兄のあまりにも女性の心の機微をわきまえない態度は、イングリットにもギネヴィアにも失礼である、とエスターは説く。
「いい? 女性に結婚しようなんて気軽に言っちゃだめなことくらい、分かるでしょ! 劇の中だからって、分けて考えられないくらいイングリットさんは精神的に余裕がなかったの! ギネヴィアさんが急いでうちに連れてきてくれなかったら、取り乱してその場で修羅場になっててもおかしくなかったんだから! 何でこんなことになったの!」
レナトゥスとて、エスターの言い分を否定するつもりはない。だが、イングリットが乱入した気持ちを分からないものは分からず、説明されて頭では分かっても、どうにも心は納得しない。そもそも、レナトゥスの中ではギネヴィアは同じ俳優仲間で魔法の使い手、という枠組みだ。決して、恋人ではない。
だから、なおさら分からない。
「俺も何でこうなったのか分からん」
「え? お兄ちゃんが甲斐性なしだからでしょ?」
「そうなのか!?」
「それ以外何なの? 婚約者……婚約解消したんだっけ? 振られたばっかりなのに、すぐに別の女性とあんなに仲良くしてたら、普通は気に入らないでしょ」
「いや、ヴィーは舞台の相方で」
「周りはそう見ないの!」
「でもイングリットは婚約を破棄するって」
「お兄ちゃんが変なことばっかりするから、堪忍袋の緒が切れたんでしょ!? 謝ってきなさい!」
「ええー……」
エスターに引きずられ、レナトゥスはイングリットが隔離されている客間へ向かう。メイドたちが出入りして、甘いお菓子や紅茶の香りが立ち込める。そして全員、レナトゥスを見る目が厳しかった。いくら女心が分からずとも、今とても非難されていることくらいは分かる。居心地が悪い。
それでもレナトゥスはきちんと居住まいを正し、ソファでダンゴムシのようになって毛布にくるまっている——おそらくイングリット——へと近付く。傍には、毛布に手を当ててなだめているギネヴィアがいた。
レナトゥスはギネヴィアへ感謝の意を伝える。あの場で機転を利かせてくれなければ、エスターが言うように修羅場となっていた。幸いにも、ギネヴィアはレナトゥスへ他の女性のように厳しい目を向けることはなく、むしろ気遣い、憐れんでいるようだった。
「ヴィー、助かった。場を治めてくれて」
「それはいいけど」
レナトゥスはソファとテーブルの隙間に膝を突いて、イングリットのくるまる毛布へ、できるだけ刺激しないように声をかける。近付くと分かる、まだイングリットは泣いており、しゃっくりを上げていた。
「イングリット、泣くなよ」
「うるさい、馬鹿」
「婚約解消、やめるか?」
「私、夫は普通の公爵がいい。舞台俳優は嫌」
「公爵やりながら舞台俳優じゃだめか? あと剣士も」
「どれか一つにしなさいよ!」
「えー、全部やりたい」
「この、馬鹿ー!」
ついにイングリットは毛布から拳を突き出し、レナトゥスへぶつけようと頑張っていた。レナトゥスは軽く避けて、あまりにもひたすら避けるので、腹を立てたエスターに頭を掴まれて無理矢理拳へとぶつけられた。
冬の終わり、もうじき春がやってくる丘を、ギネヴィアは眺めていた。この時期、雪に覆われた故郷ニュクサブルクにはほとんどない、緑の芽吹いてきた草原には、小さい花がすでに咲いていた。
ギネヴィアがド・モラクス公爵領に来て一ヶ月が経つ。最初は不安でたまらなかったが、ド・モラクス公爵家の面々はよくしてくれ、何よりレナトゥスはいつもギネヴィアを舞台に引っ張っていく。おかげで人々に顔を覚えられるのも早く、少し慣れないド・モラクス公爵領の方言も分かるようになってきた。
正直、ギネヴィアはこの土地にここまで親しめるとは、想像もしていなかった。毎日が楽しく、いくら闇魔法を使っても恐れられるどころか喜んでもらえて、満足感がある。ただ、悪役の魔女をやっているせいで、子供たちにはたまにひどく怖がられたり、勝負を挑まれて困ることもあるが、何とかなだめたり闇魔法で撃退したりしている。それもまた、今までなかった経験で、慣れていくことが嬉しかった。
ギネヴィアの横に、一人の男性がやってくる。
「お嬢様、どうですか?」
黒髪にした商人姿のテネブラエだ。ギネヴィアと故郷ニュクサブルクの実家トランヴィーユ家を繋ぎ、連絡役を買って出てくれている密偵だった。
ギネヴィアは無邪気に笑う。
「うん、楽しい。もうちょっとだけ、ここにいたい」
「ええ、お好きなだけどうぞ。トランヴィーユ家の伝手で、そのあたりはどうとでもなります」
腐ってもニュクサブルク建国の三大名家、トランヴィーユ家の影響力は国外にまで波及するし、ギネヴィアへ仕送りをするなどわけはない。それに、ギネヴィアの父母もそれを望んでいる。
ギネヴィアはテネブラエに問いかける。
「ねえ、テネブラエ。どうしてここまでしてくれるの?」
それは真っ当な疑問で、いくらニュクサブルクの密偵だからといって、小娘一人にかかりきりになる理由とはならない。ましてやテネブラエはニュクサブルク一の密偵だ。多忙極まる彼がこの一ヶ月、ド・モラクス公爵領に滞在していることは、ギネヴィアにとっては不思議でたまらない。
しかし、テネブラエは微笑んで、ギネヴィアへ答える。
「あなたのお祖父様にはお世話になりました。その恩を返しているだけですよ」
そう、とギネヴィアはそれ以上は問い詰めない。その内容はギネヴィアが知る必要はなく、テネブラエは密偵としてではなく個人として今回一肌脱いでいる。ただ、それだけなのだ。
「それと、彼を狙うなら、今がチャンスですよ。少しばかり勇気を出して——舞台上のようにね」
ギネヴィアは頬を赤く染める。彼、とは名前を言わなくても誰だか分かる。その彼は今、ギネヴィアと同じく公爵邸に滞在しているイングリットに叱られては泣かれて困り果てている。そのたび、ギネヴィアが仲裁に入って、今ではすっかり仲良くなったイングリットを慰めるのだ。
ギネヴィアとしては、レナトゥスを男性として見ていないわけではない。それ以上に同胞意識が強くて、ギネヴィア自身あまり異性と接してこなかったせいで、いまいち好意の伝え方が分からないのだ。
それでも、一歩進んでみてもいいのではないか。テネブラエは、そう助言してくれている。
「うん。ありがとう」
どういたしまして、とだけ言って、テネブラエはどこかへ去っていった。彼がいつ来たのか、どこへ行くのか、それは誰にも分からない。
ギネヴィアがしばらく風景を眺めていると、レナトゥスが丘を駆け上がってきた。
「ヴィー、稽古しようぜ! もっと複雑な魔法操作で新しい演出を作るぞ! 爆発とか!」
いつも元気なレナトゥスを見ていると、何だかおかしい。ギネヴィアは笑っている口を隠して、頷く。
丘を下り、バルテルヌの街へ向かう途中、ギネヴィアは勇気を出してみた。
「あ、あの、レナトゥス」
「どうした?」
「手、繋いでも、いい? あ、その、転ぶかもしれないから」
「いいぞ。ほら」
レナトゥスはあっさりと、ギネヴィアの右手を握った。大きく、剣を振るうタコでごつごつしている手は、顔立ちや品のよさからは想像もできないほど、努力を続けている証拠だ。
できればずっと一緒にいたい。だけど、レナトゥスの婚約者はまだイングリットだ。両家が破棄の正式な手続きを取っていない以上、効力が続いている。ただし、婚約があるからといって、必ず結婚に繋がるわけではない。
「イングリットとの婚約、まだ続けるんだよね?」
「どうだろうなぁ。あいつのことは嫌いじゃないから、あとは家同士の話でもあるし」
「そんなのだめよ。ちゃんと、レナトゥスが決めなきゃだめ」
「うーんそうか」
「で、でも、もし……わたし、でもよければ」
ギネヴィアはその先の言葉を言おうとして、まごついていたせいか、レナトゥスは突然思い出したように叫ぶ。
「やばい、剣術の稽古、今日だった! すまん、ヴィー! 舞台の稽古はまた明日!」
手を解いたレナトゥスはまたしても走り出し、公爵邸のほうへと駆けていった。
残されたギネヴィアは、ほんの少し残っている温かさと、すぐには上手くいかない苦さを胸に秘めて、空を見上げる。
これから、レナトゥスに好きになってもらえれば。好きだという言葉をいつか伝えられれば。
三人の恋物語は、始まったばかりだ。
これで終わり!
レナトゥスの三角関係はこれからだEND!!!