アーシャとウリ
風と土埃の匂いが、今度はどこか安堵の混じった、素朴な藁と獣の匂いに変わっていた。
トランスが奇跡の治癒を見せた後、騒然としていた広場は静けさを取り戻した。アーシャは村長宅の奥の部屋に、大猪は村人が急いで用意した大きな藁の寝床へと運ばれた。トランスの治癒魔法は、致命的な危機を脱させたものの、完全に回復させるには至らず、安静が必要だった。
村長の家は、この集落で最も大きく、頑丈に作られた建物だった。その裏手にある、普段は飼料を保管しているらしい小屋で、大猪は休んでいた。
小屋の入口には、ベックが腰を下ろし、短剣の手入れをしながら周囲を警戒している。その傍らでは、サラが、大猪の巨体に体を寄せ、優しく頭を撫でていた。
「なかなか可愛いじゃないですか」
サラは、普段の理知的で冷静な受付嬢の顔ではなく、まるで小さな子供をあやすかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。彼女の露出度の高いローブが、藁の間に落ちた餌の粉で汚れるのも気に留めない。
大猪は、矢傷が癒えたばかりだというのに、サラの撫でる手が心地よいのか、「きゅっ」と短く鳴いて、さらに体を押し付けてきた。
ベックは、その光景を横目で見て、小さく皮肉った。
「冒険者が、森の魔物と戯れているとはな。お前の親父が見たら、卒倒するぞ」
サラは、手を止めずに答えた。
「この子は魔物ではありません、ベックさん。それに、私だって、別に戦闘狂というわけではありません。この子の魔素の流れは非常に穏やかで、ただの巨大な動物です」
「巨大な動物、か。多分森の主かなんかだろう?その辺の山賊よりも厄介な存在になり得る。まあ、あんたの魔力吸収体質には、この辺りの澄んだ魔素は心地よいだろうがな」ベックは、短剣の刃を磨きながら、辺境の現実を突きつける。
サラは、大猪の鼻先に優しく触れた。
「……ええ。だからこそ、私はこの服装が嫌なんです。制御できない魔力を、常にこうして外に逃がさなければ、体内で暴走してしまう。まるで、私が常に不安定な存在であると、周囲に喧伝しているようで」彼女の声には、自己の欠点に対する深いコンプレックスが滲んでいた。
「ふん。生きてりゃ、誰でも何かしら欠点はあるさ」ベックは、空を見上げた。「それより、この村の静けさだ。ロブ殿が言った通り、ここは辺境のさらに辺境。地図にすら載らない集落だ」
サラは真剣な顔に戻った。
「村長の話では、この辺りは特にオークの群れの活動が活発化しているとのこと。アーシャさんの傷も、大猪の牙ではなく、オークの粗雑な刃物によるものだった」
「そうか」ベックは短剣を鞘に納めた。「しかし、あの光……。あれは、並みの治癒魔法ではない。神殿の最高位の神官でも、あそこまで時間を逆行させるような回復は見せられまい。教会との火種になりかねんぞ」
サラは、不安そうにトランスが去った村長宅の方向を振り返った。
「トランスさんの持つ、あの鎧の力なのでしょうか。それとも、彼自身の……。どちらにせよ、私たちだけが知っておくべきことですね」
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村長宅の居間では、ロブが村長から詳しい事情を聞き出していた。トランスは、壁際で直立し、静かに耳を傾けている。背中では、リーゼが再び静かに眠りについている。
村長は、長い白髪を撫でつけながら、深々と頭を下げた。
「トランス様、あなた様と、そのお嬢様のおかげで、アーシャと大猪は助かりました。感謝の言葉もありません」
ロブは、穏やかな笑みを浮かべたまま、村長を促す。
「いえいえ、これは我々の責務です。さて、村長。先ほどの騒動の詳細を、もう一度お聞かせいただけますかな?アーシャ殿と、あの巨大な猪の関係について」
村長は、息を整えた。
「アーシャは、小さい頃から森の動物と心を通わせる、不思議な力を持っておりましてな。あの大猪は、アーシャとは幼い頃からの友達なのです。村人たちは、あの巨体から魔物だと恐れておりました……ですが、アーシャは聞かなかった」
「そして今回、アーシャ殿がオークに襲われ、それを大猪が担いで村まで運んできた、と」ロブは、静かに事実を確認した。
「左様です。村人たちは、大猪がアーシャを襲ったと誤解し、興奮して矢を放ってしまった。なんとも、愚かなことで……」村長は深く後悔の念を滲ませた。
トランスは、静かに口を開いた。
「……理解した。大猪は、アーシャを救うために動いた。その行動に、悪意はない」
トランスの断定的な言葉に、村長は深々と頷いた。
ロブは、懐から目録を取り出し、テーブルに置いた。
「村長。我々は、この村の治安維持と、物資の供給のために王都から派遣されております。今回の騒動で、村に不安が広がったことでしょう。つきましては、私の持ってきた物資を、特別価格で提供させていただきます」
ロブは、一介の行商人とは思えないほど、冷静かつ迅速に、混乱した村の信頼を回復させるための取引を成立させていく。
「それと、トランス殿。夕食の準備を急がせましょう。ベック殿は料理に長けていますからな。トニー殿に道中狩ったフォレストウルフを村におろすよう言ってあります。代金は、私の護衛費用に上乗せしておきますので、ご心配なく」
トランスは、ロブの抜かりのない手配に、ただ一言で返した。
「……完了した」
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トランスは、指示通り、トニーと共に小屋へ向かった。
トニーは、腰に括り付けたロングボウをポンポンと叩きながら、上機嫌だった。
「いやー、それにしてもトランスさん、あんた、すげえな!あの治癒魔法、マジで神様かと思ったぜ。俺、あんなもん初めて見た」
トランスは、小屋の入口で、まだサラに甘えている大猪を一瞥した。
「……私も、初めてだ」
トニーは、トランスの言葉に怪訝な顔をした。
「初めて?いやいや、あんなもん、訓練せずに使えるわけねーだろ。教会じゃ、何年も修行した神官しか使えねえって話だぜ?」
トランスは、重いガントレットを組んだ。
「私は、記憶がない。なぜ、この鎧を着ているのかも。なぜ、あの魔法が使えるのかも。全てが、失われている」
トニーは、トランスの深刻な口調に、一瞬、言葉を失った。トランスの全身を覆うくすんだ鎧、特に胸の穴が、彼の抱える重い不安を象徴しているように見えた。
トランスは続けた。
「あの瞬間、アーシャが倒れているのを見て……動けなかった。魔物に対する恐怖が、私を縛り付けた。だが、リーゼが動いた。その時、守らなければならない、という衝動が、あの魔法を引き出した」
トニーは、トランスの陰鬱な雰囲気を払うように、あっけらかんと笑い、トランスの肩を力強く叩いた。
「まあ、細かいことは気にすんなって!使えるもんは使えばいいんだよ。すげーもんは、すげーんだ。あんたは、命を助けた。それだけで十分だろうが」
トランスは、トニーの素直な賞賛に、心の奥底で張り詰めていた緊張が、わずかに緩むのを感じた。
小屋の中では、サラが大猪の剛毛の中に顔を埋めていた。
「全く、あなたって本当に大きくて可愛い子ね。ベックさん、こんなに穏やかなのに、まだ魔物って言うんですか?」
「わかったわかった、ただの大きい動物だよ」ベックは、呆れたようにため息をついた。「まあ、この辺りでは変わった魔物や動物が現れるのはよくある話だ。辺境の村というのは、名前を持たないことが多い。王都の地図に載れば、それは王国の支配下にあることを意味する。だが、ここは、いつ消えてもおかしくない、不安定な存在だ」
ベックは、トランスとトニーにも聞こえるように続けた。
「だからこそ、ロブ殿のような大商人が、銀級冒険者を護衛につけてまで、定期的に物資を送り込む必要がある。物資の供給も危うい村なんてすぐ消えちまうからな」
サラは、驚いた顔をした。
「父から、そんな話は聞いていませんでした。ただの行商の護衛だとばかり」
トニーが口を挟んだ。
「そりゃ、バラックの旦那が、お前さんにそんな重すぎる話を教えるわけねえだろ。受付嬢として、王都のギルドで安全にいてほしかったんだろうさ」
サラは、俯いた。彼女の父親であるギルドマスター、バラックの深い愛情が伝わってくるようだった。
その時、小屋の藁の寝床で休んでいた大猪が、突然、立ち上がった。巨体が揺れ、サラは驚いて、大猪から離れた。
「きゅっ!」
大猪は、元気を取り戻したことを示すように、力強く鼻を鳴らすと、小屋の入口へ向かって歩き出した。
トランスたちが外へ出ると、驚くべき光景が目に入った。
村の広場の中央で、アーシャが小さな子供たちに囲まれていた。彼女はまだ右足に添え木と包帯を巻いているため、簡素な木の杖をついているが、顔色はずっと良くなっている。
「ウリ!」アーシャが、愛おしそうに大猪の名前を呼んだ。
ウリと呼ばれた大猪は、アーシャの傍まで駆け寄ると、優しく鼻先をアーシャの手に押し付けた。
「きゅきゅっ」
「ほらほら、心配かけてごめんね。もう大丈夫だよ」アーシャは、大猪ーーウリの大きな頭を撫でた。
子供たちが、ウリとアーシャの周りで歓声を上げている。
「騎士様だ!すごい光を出した騎士様だ!」
子供たちの一人が、トランスのくすんだ鎧を見つけ、声を上げた。
子供たちは、一斉にトランスの周りに群がり始めた。
「騎士様、ありがとう!アーシャお姉ちゃんを治してくれて!」
「鎧、触ってもいい?」
トランスは、突然の熱烈な歓迎に、困惑を隠せない様子だった。彼は、子供たちの純粋な好意に、どう対応して良いのか分からない。
トランスの背中にしがみついていたリーゼが、「う、うー」と、不安そうな声を漏らした。彼女もまた、子供たちに囲まれる状況に慣れていない。
トランスは、子供たちに抱きつかれ、鎧によじ登られながらも、彼らの動きに合わせてバランスを保った。彼は、誰にも等しく優しい心を持っているが、それを表現する方法を知らない。
その時、一人の子供が、遊び心でトランスの兜の縁に手をかけ、力任せに引っ張った。
カチャン、という金属音と共に、深く影に覆われていたトランスの兜が、一時的に外れた。
子供は、バランスを崩し地面に落ちそうになるが、。トランスは、反射的に、子供が落ちないよう、両手で子供の体を支えた。
トランスの素顔が、村の澄んだ光の下に晒された。
彼の顔立ちは、記憶を失った騎士という設定からは想像できないほど、端正で整っていた。しかし、その表情は、極度に寡黙な性格を反映し、無表情で、どこか影を帯びている。感情の起伏がほとんど見えないが、子供を支える優しさが、その瞳の奥にわずかに宿っていた。
トランスは、腕の中の子供を優しくそっと地面に降ろした。
広場に、沈黙が訪れた。ロブ、ベック、トニー、そしてサラ。外せない鎧ということを聞いていた誰もが、トランスの素顔、そして兜が外れるという異常な事態に、驚愕して固まっていた。素顔を一度見ていたサラとトニーも、こんなあっさりと兜が外れたことに困惑を隠せない。
彼の素顔は、くすんだ鎧の威圧感からは想像もできないほど、繊細で、苦悩を秘めた美しさを湛えていた。アーシャの頬が、一気に熱を帯び、言葉を失う。
トランスは、子供から手渡された兜を受け取り、冷静に答えた。
「一時的になら、外すことができる」
トランスがそう言い終わるか否か、兜を放り投げると、彼の頭上、空中に、一瞬、鉄色の粒子が凝縮したかのように見えた。次の瞬間、兜は、何事もなかったかのように、トランスの頭部にピタリと装着されいた。
「……!」サラが、微かな呻き声を上げた。
「一定距離、あるいは一定時間、私から離れると、自動的に装着される」トランスは、感情を排した声で説明した。
サラが、頭を押さえながら、苦しそうな声を上げた。
「トランスさん!その、その重要な情報を、なぜ、なぜ今まで共有してくださらなかったのですか!?」
トランスは、感情を排した声で、簡潔に事情を説明した。
「……話す必要性を感じなかった」
「話す必要性……」サラは、頭痛を堪えるように、深く息を吐いた。
トランスは、サラの厳しい表情に、初めて罰が悪そうな態度を見せた。
「……すまない。私の落ち度だ」
くすんだ鉄色の影は、彼の顔を覆い隠す。失われた過去を素顔と共に覆い隠すかのように。
頭痛が痛いサラさん




