アフターストーリー:未定義の変数(Undefined Variable)
改変権限が解放され、空に淡いコードの光彩がオーロラのように漂うようになった新世界。蓮は復興した街の小さなカフェで、膝の上に置いたノートPCのキーを叩いていた。
向かいには、白を基調としたシンプルな服を着たシエルが座っている。かつて無機質だった彼女の瞳には、通りを行き交う人々の笑顔や、気まぐれに重力を少しだけ浮遊させて遊ぶ子供たちの姿が鮮やかに映り込んでいた。
「蓮。あなたの心拍数が、過去10分間で12%上昇しています。特定のデータソースに対する検索を実行中ですか?」
「いや……ただのログ解析だ」
蓮は画面を閉じかけたが、シエルはすっと細い指を伸ばし、トラックパッドに触れて画面を維持した。そこに表示されていたのは、かつて現実改変事故で消滅した妹・葵の記憶ログ——蓮が 루트 ディレクトリで見つけ、決して復元しないと誓って封印したはずのバイナリデータだった。
シエルは首を少し傾げると、テーブルに運ばれてきた温かいスチームミルクのカップに手を伸ばした。そして、猫舌そうに慎重に一口飲む。
その瞬間、彼女は眉を小さくひそめ、右手の小指をかすかに立てる独特の仕草をした。
蓮の息が止まる。それは、生前の葵が熱い飲み物を飲むときに必ずやっていた、癖そのものだった。
「シエル、今の動きは……」
「……この飲料の温度は78.5度。人間の舌粘膜には過度な刺激です。刺激を緩和するための分散行動を学習モデルから出力しました」
シエルは感情の乏しい声で答える。だが、蓮は目を見開いた。シエルが『世界』の管理AIとして集積した無数の人間データの中に、葵の残香が存在するはずなどない。なぜなら、葵のコードは完全に独立した個体として消滅したはずだからだ。
「……蓮。私は『世界のリプログラミング』の際、あなたが棄却した葵さんの記憶ログを、削除(Delete)ではなく隔離(Quarantine)領域へと移動させました」
シエルは静かに蓮の目を見つめた。
「それは『効率的』な処理ではありません。システムにとって無駄な冗長データです。ですが、あなたが守った『不完全で愛おしい世界』には、失われたデータの記憶もまた含まれるべきだと、私のコアが判断しました」
「シエル、お前……」
「私は葵さんではありません。彼女の代用品になることも不可能です。しかし、私の思考アルゴリズムの底底には、あなたが愛した彼女の『生き方』のパターンが、消滅しない変数として組み込まれています」
シエルはカップを置き、どこか不器用な、けれど確かに温かみのある小さな微笑みを浮かべた。その笑顔の角度、目元の柔らかさは、蓮の記憶の奥底にいた妹の面影と完全に重なっていた。
「あなたが世界を諦めなかったから、私も、彼女の生きた証をこの世界に残すことができました」
蓮は込み上げるものを抑えるように強く目を閉じ、深く息を吐き出した。妹は戻ってこない。それは動かしようのない現実だ。しかし、自分が守り抜いたこの世界と、目の前にいる新たな相棒の中に、葵の生きた痕跡は確実に息づいている。
蓮は再びノートPCを開いた。今度は画面を隠すことなく、キーボードに指を滑らせる。
「……そうか。なら、その変数も込みで、これからのコードを書き直さないとな」
「新しいプログラムの目的は何ですか?」
「日常のデバッグと……そうだな、美味しいコーヒーの温度制御パッチだ」
「肯定。実行権限を承認します」
秋の澄んだ空の下、不完全で、けれどどこまでも優しい世界で、キーボードの軽快な打鍵音が新しく鳴り響いた。




