32.ファーレスト公爵、兵を挙げる
王宮の謁見の間には、すでに十数名の廷臣たちが集められていた。
誰もが薄氷を踏むような面持ちで、中央の玉座を見つめている。
やがて、高らかな名乗りが響き、衣ずれの音とともに王妃が姿を現した。
今日の王妃は、ひときわ華やかな装束をまとっていた。
深紅のドレスには金糸がふんだんに織り込まれ、その一歩ごとに光が踊る。
だが、その豪奢さは祝祭のためのものではない。
──威圧と、裁きの場にふさわしい装いだった。
玉座へと歩み、扇を広げて口元を覆うと、王妃はゆるく微笑んだ。
「皆さま、急な召集に応じてくださり感謝いたします。……本日は、皆さまにも真実をお伝えせねばなりません」
扇の奥の瞳が、鋭く光る。
「王女、オリアナが──命の危機にあります」
間の抜けたような沈黙が広間を支配した。
「……晩餐の最中に、倒れたのです。医師の診立てによれば、何らかの毒が盛られていた可能性が高いと……」
さざ波のようにざわめきが広がる。
「まさか、暗殺未遂……?」
「王家の姫君に……」
王妃はそのざわめきを、ひと呼吸だけ待ってから再び口を開いた。
「皆さまもご存じのとおり、あの子はファーレスト公爵のもとに嫁いでおりました。……毒が盛られたのは、公爵邸の食卓。用意されたワイン、運ばれた食事──すべて、あちら側の管理下にあったものです」
確証はない。だが、王妃はそれを『ある』かのように語る。
それだけで、空気は形を変えていく。
「王家の娘を、誰が傷つけたのか。……知りたいのです」
広間の片隅。王妃の背後に控えていた白衣の女、ライラは黙ったまま目を伏せていた。
その唇の端に浮かぶ笑みは、あまりに小さく、あまりに確信に満ちていた。
(公爵が兵を挙げるまで、あとわずか)
それは『物語』の定める流れ。
毒を盛られた王女。糾弾された公爵。名誉を守るための蜂起。
──そして討伐の名の下に出陣する騎士。
(すべて、計画通り)
ライラの睫毛が、ゆっくりと伏せられた。
王妃の声は、確信を強めながら続いていた。
「事実関係を明らかにするため、ファーレスト公爵には王都へ出頭を命じます。潔白であるならば、逃げる理由などないはずですわ」
その言葉に、何人かの廷臣がうなずく。
けれどそれは、王妃の言葉にうなずいたのではなく、その場の空気に従っただけだった。
真実は、もはや誰の関心でもなかった。
✧・━・✧
陽が落ちる頃、公爵邸の正門に、一騎の使者が姿を現した。
王都の紋章を掲げたその姿は、誰が見ても王命を運ぶ者だった。
応対に出たのは執事のウォルターである。
王家の使者は礼を尽くしながらも、明確な威圧をまとって口を開いた。
「ファーレスト公爵閣下に、王妃殿下よりの召喚状をお届けに参りました。……オリアナ王女に関する、重要な事案について、弁明をお求めになっておられます」
丁寧な物言いの奥にあるのは、明らかな処断の気配だった。
やがて書斎に通された使者は、サディアスの前で恭しく頭を垂れた。
その顔色ひとつ変えずに、サディアスは文書を受け取り、封を切る。
──王妃殿下の命により、王都への出頭を命ず。
──王女毒殺未遂の件について、潔白を証明する場が設けられる。
サディアスの瞳が、わずかに細められる。
「『潔白であるならば、出頭』をと……」
低く呟き、文書を机に置く。
使者は忠実な面持ちで頭を下げるが、その口元にわずかな安堵が見えた。
──やはり、『告げるだけ』が使命なのだ。
追求も逮捕も行わない。
だが、王命に背けば、それはそれで反逆とされる。
仕組まれた袋小路。
夜が更け、書斎には誰の気配もなくなった。
サディアスは一人、書簡を前に沈黙していた。
考えを巡らせるまでもない。これは明らかに処分のための呼び出しだ。
出れば、罪人として晒される。出なければ、反逆者として討たれる。
「……やはり、そう来たか」
低く呟いたとき、不意に扉がノックもなく静かに開いた。
顔を上げると、そこにいたのは──。
「……オリアナ」
姿見もなく、髪もゆるく結んだだけの彼女が、音もなく室内に入り込む。
「驚かせてしまいましたか?」
まるで、ほんの散歩の途中に立ち寄ったような声だった。
けれどその目は、冴え冴えと夜空のように澄んでいた。
「どうか、落ち着いて聞いてください」
椅子に座るサディアスの前まで進み、彼女は静かに言った。
「私も、ご一緒します。……あなたと共に、王都へ」
サディアスの手がわずかに止まる。
だが、反論はしなかった。
彼女がそれを当然のように口にしたことに、すでに答えが含まれていたからだ。
「表に出るつもりはありません。危篤の身であることを、うまく使いましょう」
「……無理をしないでください」
「無理はしません。無謀も、無策も。……でも、私たちの敵は、私の命を奪おうとしました。ならば私にも、声を上げる資格があるはずです」
サディアスは一度、目を閉じる。
「……ならば、準備を整えましょう。あなたの姿が見られぬよう、警護と随行の配置を変えます。……馬車も用意させます」
そして、最後に言った。
「一緒に、乗り越えましょう。すべてを」
──夜の帳が降りる中、出陣の準備は静かに整っていった。
火の一つも灯されない中庭には、鎧の重みをまとった騎士たちが並んでいた。
その誰もが無言で、ただ前を見つめている。
漆黒の外套を羽織ったサディアスが、石段の上に姿を現した。
風がそっと外套をはためかせる中、彼はゆっくりと前に出て、全員を見渡す。
そして、静かに口を開いた。
「我が妻、オリアナが毒を盛られた。……彼女を殺そうとした者がいる。そして今、それを私の犯行だと広めようとしている」
その言葉に、ひとり、またひとりと、騎士たちの目が細められていく。
怒りではない。疑念でもない。
ただ、深く信じる者だけが見せる、確信の眼差しだった。
「これは審問のための召喚ではない。……罪を着せるための断罪の舞台だ」
サディアスの声は静かだった。
けれど、その一言一言が地を這うように、全員の胸に沁み込んでいく。
「私はそれを拒む。彼女を守るため、真実を暴くため、この剣を抜く」
やがて、騎士のひとりが剣を抜いた。
「我らが隊長の正義に、異論はない」
かつて副官を務めた老騎士が、まっすぐに背筋を伸ばして一礼した。
「『ファーレスト公爵』になられても、俺たちにとっては『隊長』です。口数少なくとも、何より信じられる背中でしたからな」
それを皮切りに、次々と剣が抜かれ、掲げられていく。
「命じられたからじゃありません。あんたに従いたいんです」
「俺は、あんたに拾われた命です。戦うなら、最後まで付き合いますよ」
「この剣は、正義のためにある。あんたが抜くなら、俺たちも抜く」
その声の一つひとつが、剣とともに夜空へと響いていく。
サディアスは、しばらく何も言わずにそれを見ていた。
だが、胸の奥では確かに、深い誇りが息づいていた。
幼い頃、兄の影に隠れ、騎士団へと送り出されたあの日。
継ぐはずのなかった家を、急遽背負わねばならなくなったとき。
迷い、孤独の中で道を見失いかけた自分を、信じ、支えてくれた者たちがここにいる。
『隊長』としての自分を、変わらずに認めてくれる彼らが──。
サディアスは、ふと視線を巡らせた。
列の一番外れ、荷馬車の陰に隠れるように、目立たない小さな馬車が一台だけ控えている。
その中に誰が乗っているかを、兵たちは知らない。
(……無理はさせない。けれど、共にある)
サディアスはもう一度、整列する騎士たちを見渡し、静かに頷いた。
「進軍の準備を。夜のうちに出る。目指すは王都だ」
その号令とともに、騎士たちが動き出す。
その夜のうちに、蜂起の報は王都へ届く。
──ファーレスト公爵、兵を挙げる。




