33.従ってやるさ、お前の筋書き通りに──壊すためにな(ヘクター視点)
その日、王宮に届いた急報は、舞台の幕が静かに上がったことを告げる鐘の音のようだった。
『ファーレスト公爵、兵を挙げる』
ライラは、その知らせを聞いた瞬間、心の中でそっと目を伏せた。
喜びでも、安堵でもない。
ただひとつ、確信だけが、胸の内に静かに広がっていく。
──始まった。
ライラの知る『物語』は、確かにこの道を通っていた。
王女が毒に倒れ、公爵が挙兵する。
そして、それを討つ正義が現れる。
その流れが、いま、まさに形となろうとしている。
謁見の間で玉座に座る王妃は、どこか上機嫌に見えた。
昨夜から仕立て直させたのか、赤と金の刺繍が施されたドレスは豪奢そのものだった。
「ファーレスト公爵が、兵を挙げました。皆さま、これは明らかな反逆ですわ」
ざわめく廷臣たちを見渡しながら、王妃は扇をぱたりと閉じた。
「……さて。反逆者を討つにあたり、誰を先陣に立てるべきかしら?」
その言葉を待っていたように、ライラはすっと前へ出る。
王妃の問いは演出であり、すでに答えは決まっていた。
「──ヘクターを、討伐隊の先発に」
その名を口にするだけで、体の奥がざわめくような感覚があった。
あの夜、鉱山で共に歩いた背中。
剣を抜き、誰かを守ろうとする意思。
愚かで、迷っていて、それでも真っ直ぐで。
彼なら、成し遂げられる。
この『物語』を、予定通りに動かすことができる。
そう、信じていた。
──いいえ、違う。
信じているのは、彼ではない。
ライラが見ているのは、未来そのものだった。
彼が勝つと知っている。
だからこそ、彼を選んだ。
彼が正義の剣となり、公爵を討つ瞬間が、すでに見えている。
「鉱山での功績もあります。討伐の名誉にふさわしい人材かと」
王妃は少しだけ目を細めて言った。
「……あの、神殿出の騎士ね。たしかに、ファーレスト領のことも知っている。利用価値はあるわ」
ライラは何も言わず、再び頭を下げた。
王妃は扇の影からうっすらと笑い、そのまま命じる。
「将軍を立てて、彼には実動指揮官を任せなさい。先発隊として動かすには十分でしょう」
「かしこまりました。責任は表向き、将軍に持たせておきます。……本当に勝たせたいのは、彼なのですから」
それは、誰に向けた言葉でもなかった。
ただ、舞台の幕が上がり、筋書きが進行するその音を聞いて、ライラは静かに笑った。
(さあ、行って。あなたは、物語の通りに勝つの)
その未来に、ひと筋の疑いもなかった。
彼がどう思おうと、誰を守ろうと──その結末は変わらない。
ライラが見るのは、すべてが定められた通りに進む世界だった。
✧・━・✧
王妃の命が下ったのは、朝の謁見のすぐあとだった。
「ファーレスト公爵が兵を挙げた。あなたには、その鎮圧の先陣を任せます」
玉座の間で受けたその言葉は、まるで褒美でも与えるように淡々と放たれた。
だがヘクターは、それが名誉などではないことをすぐに悟った。
(先発……? それも、俺が?)
王都に呼ばれてから、まだ日も浅い。
鉱山の件で多少の功績があったとはいえ、階級も地位もまだ若い一介の騎士に、討伐軍の指揮など本来は任されるはずがない。
実際の責任者として名を連ねたのは、王都防衛軍の将軍だった。
老練で表情の読めない男──その目が、一度だけヘクターを鋭く射抜いた。
「君が前に出ろ、と王妃殿下は仰っている。公爵領の地理を知る者が先に立つべきだとな」
謁見の間には、王妃の配下と思しき廷臣や侍従の姿もある。
将軍の声音は端正で、言葉には曇りひとつなかったが──その眼差しだけが、わずかに揺れていた。
(……王妃に従え。名誉ある任務と受け止め、黙って命令を果たせ)
その裏にある本音は、あまりにも明白だった。
そして出陣の直前、将軍はほんの一瞬、誰の目も耳も届かぬ場所で、ヘクターにそっと声をかけた。
「……王は、君を見ておられる」
その短い言葉だけを残して、彼は歩き去った。
(王が……?)
思わず、鼻先で笑いそうになる。
何を今さら。
あの夜、自分を『息子だ』と呼んだ男が──今になって『見ていた』などと。
あれは、病に伏して朦朧とする中で出た、ただの思いつきではなかったのか。
(俺が王の子? オリアナの双子? ……どこまで、都合のいい話だ)
そして今また、『見ておられる』などと。
何の力もないと思っていたくせに。
その言葉が、まるで『認めてやろう』という上からの宣言に聞こえて、腹の底がざらりとした感情で満たされる。
(何も知らなかったくせに。何もしてこなかったくせに)
──遅すぎる。
もう誰の手柄でも、誰かの許しでも、この人生は語れない。
(俺は──俺の意志で生きる)
ヘクターは、自室へ戻る途中、王宮の廊下でひとりの影とすれ違った。
白衣の女。
仮面のように整った微笑み。
長い睫毛の奥に、どこか別の世界を映すような光を湛えた、あの女。
──ライラ。
「いってらっしゃいませ。……未来を、切り開いてきてね」
その言葉は、まるで慈愛に満ちた祈りのようだった。
だが、ヘクターはもう知っている。
この女が見ているのは、自分ではない。
信じているのでも、託しているのでもない。
(……こいつは、俺を見てない)
ライラが信じているのは『物語』。
彼女の言う『物語』とやらに従って、自分が勝つと、そう決まっているから信じているだけだ。
(お前の筋書きの中で……俺は勝つことになっているから、だろう?)
それが、たまらなく不気味で、寂しくて、腹立たしかった。
「一つ、お願いがあるの」
「……何をだ?」
「オリアナさまの形見……星輝石を、忘れずに持ち帰ってきて」
その言葉に、ヘクターの中で何かが凍りついた。
「……まだ、亡くなったとは……」
「危篤なのは、事実でしょう?」
ライラは微笑んだまま、首を傾げる。
「形見は、早いうちに保管したほうがいいの。あの石は国の宝になるわ」
言葉は優しいのに、その声の奥には、どこか墓碑の冷たさがあった。
(──もう、死んだものとして扱っている)
ヘクターは、ぞっとした。
まだ息がある人間を、死んだことにして語る。
まるでそれが、当然であるかのように。
ヘクターは何も言わず、ライラの言葉に頷いた。
けれど、胸の奥には冷たい決意が根を下ろしていた。
(従ってやる。従うふりは、してやる)
その時、ふと胸の奥に思い浮かんだのは、あの人の顔だった。
公爵夫人──オリアナ。
気高く、美しく、どこか影をまといながらも、あの目だけは決して揺るがなかった人。
姉と呼ぶには、まだ確信を持てない。
だが、何かが繋がっているのは、もう否定できなかった。
(あの人を殺すなんて、させるものか)
準備は淡々と進められ、軍勢は小規模ながら整えられた。
士気は……高くなかった。
討伐の名のもとに集められた兵の多くが、ファーレスト公爵の名を恐れている。
「噂じゃ、剣と魔術の達人だってさ……」
「奥方を毒殺しようとしたって話も……本当かね……?」
誰もがうつむき加減で、それでも命じられるまま、装備を整えている。
その中で、ただ一人。
ヘクターだけが、前を向いていた。
(俺は……あいつの信じる未来なんて壊してやる。そして──俺の信じるものを守る)
──やがて、出発の刻が迫る。
小さな旗が風に翻る。
これは討伐ではない。
これは、未来を変えるための戦いだ。
その想いだけを胸に、ヘクターは、静かに馬へと跨った。




