14.あのときの少年──私は、あなたの手を忘れなかった
「そんな……本当にサディアスだというの……? セドリック以上じゃない……。どうして、こんな……」
ジュリアナ王女が呆然と呟く。
「かつて私は魔力循環の病を患っておりました。当時の体型や髪も、元をただせばその病の影響です。ですが今は完治しておりますので」
サディアスは淡々と告げる。
その落ち着き払った様子に、ジュリアナが動揺を隠しきれないまま彼を見つめた。
「……本当に、あなたなの? あの冴えない豚が……」
サディアスは、まっすぐにジュリアナを見返した。
「はい。病が完治してからは、ずっと領地の騎士団におりましたので、殿下がご存じないのも当然かと」
サディアスの声はあくまで冷静だったが、その目には静かな怒りが見て取れた。
そして彼の冷たい視線がジュリアナを貫く。
「私を冴えない豚と呼ぶのは構いません。ですが、妻を侮辱することだけは許せません」
その迫力に気圧されながらも、ジュリアナ王女は必死に反論した。
「で、でも……オリアナなんて、本当に地味で、何の取り柄もない女よ? 私みたいに美しくもなければ、賢くもないし……。あなた、騙されていない?」
「いいえ」
サディアスは即座に否定すると、オリアナの腰を引き寄せた。
その仕草に思わず心臓が跳ねる。けれど、不思議と拒む気にはなれなかった。
彼の腕の内にいることが、むしろ心地よく感じられてしまう自分がいた。
「オリアナ姫は私にとって、誰よりも美しく聡明で……そして何よりも大切な女性です。それに……」
サディアスはそこでいったん言葉を切り、ジュリアナを見据えた。
「殿下にとって、私は冴えない豚のようですから」
サディアスはわずかに微笑した。だがその笑みには、侮りでも哀れみでもなく、静かな断罪の色が滲んでいた。
「その御目で判断された結果が、私への侮蔑であり、妻への侮辱であるのなら──なるほど、殿下のお言葉には一貫性がございます」
その声は低く穏やかだったが、言葉の刃は鋭く、ジュリアナ王女の胸元を静かに貫いた。
「つまり、私を見誤ったように、妻の価値もまた、正しくご理解いただけなかったということなのでしょう」
「っ……」
ジュリアナ王女の顔が屈辱に歪んだ。
そして、彼女はそれ以上何も言わずに踵を返した。
(……すごい)
オリアナは胸の奥が熱くなるのを感じた。サディアスが、こんなふうに自分を……。
周囲のざわめきが一層強くなる中、サディアスはオリアナの腰に回した手に力を込める。
「オリアナ姫、気分が優れないようなら、外へ出ましょう」
「あ……はい……」
オリアナは呆然と頷きながら、サディアスに導かれるまま歩き出す。
周囲の貴族たちが道を空ける中、二人はテラスへと出た。
少し冷たい夜風が頬に当たる。オリアナはそこで、やっと安堵の息を吐いた。
「気分はいかがですか」
サディアスの声は相変わらず落ち着いていたが、そこに優しさが滲んでいた。
「……大丈夫です」
そう答えつつも、まだ心臓がどきどきと鳴っていた。
夜風がカーテンを揺らし、微かに薔薇の香りを運んでくる。
オリアナは石造りの手すりに手を添えたまま、ゆっくりと目を閉じた。先ほどのやり取りが、何度も頭の中で反芻されている。
(あのとき、サディアスは……)
──誰よりも美しく聡明で、何よりも大切な女性です。
あの言葉を思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
貴族たちの目がある場で、妻を守るために放たれた言葉。だが、それだけだったのだろうか。
(……本当に、それだけ?)
ふと、横顔に視線を向ける。彼は先ほどと変わらぬ表情で、庭に咲く夜の花を見つめていた。
「サディアスさま……」
思わず呼びかけると、彼はゆっくりとこちらを振り向いた。
「はい」
「その……先ほどのことなのですが……」
どう言葉を継げばいいかわからない。あれはただ、場を収めるための振る舞いだったのか。それとも──。
「……お礼を言いたくて」
言葉を選んだ末、そう口にした。
「私のことを、守ってくださって……ありがとうございました」
サディアスは一瞬だけ目を見開き、それから小さくうなずいた。
「当然のことです。あなたは、私の妻ですから」
静かな声に、また胸が波立つ。
(やっぱり、それは……立場として、という意味なの?)
けれど、聞く勇気が出なかった。
「……ところで」
彼が急に言葉を切り替えた。
「さきほどのジュリアナ殿下の言葉で、少し……混乱されているのではと思いまして」
まるで心を見透かされたようで、思わず目を伏せる。
「……太った少年、のことでしょうか」
小さな声で言うと、サディアスはわずかに目を細めてうなずいた。
「やはり、覚えていなかったのですね。幼いころ、一度だけお会いしました」
あの記憶が、かすかに蘇る。白髪で、ふくよかな少年。どこか寂しげで、人の輪の外に立っていた。
「……まさか、あの子が……」
「当時、私は魔力循環の病で苦しんでいました。誰にも触れられることすら避けられていた中、あなたは……私の手を、握ってくれました」
「……え?」
思いがけない言葉に、オリアナは思わず息をのんだ。
「私が転んで、膝をすりむいたときでした。血が滲んでいたのに、あなたは怖がりもせずに、私の手を握って、大丈夫ですかと……」
それは、オリアナの記憶にはうっすらと残っているだけの出来事だった。けれど、彼の声音から、その一瞬がどれほど強く心に刻まれていたかが伝わってくる。
「その夜、私は高熱を出して寝込みました。そして……そのまま王都を離れ、領地に戻ることになったのです」
「……」
「不思議なことに、それから病の症状が少しずつ和らぎ、やがて治癒しました。偶然かもしれませんが……私は、あなたが触れてくれたからだと思っています」
静かに語られる回想に、オリアナは胸を押さえた。
自分の知らなかった過去、自分が与えていたかもしれない優しさ──その記憶を、彼は今も抱えて生きていたのだ。
「あなたは……私のことを覚えていませんでした。それでも、私はずっと……忘れていません」
オリアナは何も言えなかった。ただ、彼の眼差しに込められた想いを、まっすぐに受け止めることしかできなかった。
「……サディアスさま」
震える声で彼の名を呼ぶと、彼はかすかに微笑んだ。その笑みは、さきほどのものとは違い、とても柔らかくてあたたかかった。
「私は……今のあなたに、もう一度、触れてもらえたことを、嬉しく思っています」
その言葉に、オリアナの胸がふわりと温かくなった。
(ずっと昔に、たった一度だけ握った手が……こんなふうに、彼の中に残っていたなんて)
夜の静寂の中、ふたりのあいだに流れる空気が、確かに変わっていた。
月明かりが静かに二人を照らす。
オリアナは胸の内にまだ解けきらない疑問を抱えたまま、言葉を探すように唇を噛んだ。
「……あの、サディアスさま」
「はい」
「先ほど……ジュリアナお姉さまに言葉を返されたとき、とても……その、堂々とされていて」
「……そうでしたか」
「はい。まるで、昔から社交の場に慣れておられるような……」
彼は一瞬、きょとんとした表情を見せた。
けれどすぐに視線を逸らし、少しだけ肩をすくめるようにして呟いた。
「……慣れてなど、いません」
「でも……」
「正直に言えば、今も場に出るたびに心臓が痛くなる思いです。上手く言葉を選べていたかどうか、自分でもわかりません」
その控えめな告白に、思わずオリアナは言葉を失った。
あれほど貴族的な語り口で、周囲の誰よりも冷静に言葉を返していたのに。
「ただ……」
サディアスは少しだけ目を伏せ、低く言葉を継いだ。
「あなたが侮辱されているのを、黙って見ていることだけは……どうしても、できなかったのです」
オリアナの胸がじんと熱を帯びる。
「うまく言えなかったかもしれない。でも、せめて──私の想いが、あなたを傷つけた人たちに届けばと思いました」
そこまで言って、サディアスは急に顔を伏せた。
「……お恥ずかしい話です。終わった後、震えが止まりませんでした」
「えっ」
「いまも、少し……手が冷たくて」
そう言って見せた指先は、ほんのわずかに震えていた。
(あんなに堂々としていたのに……)
オリアナはそっとその手に自分の手を重ねた。
ふたりの指先が触れ合った瞬間、サディアスがはっと目を見開く。
「……大丈夫です。少しずつ、私も……わかってきました」
「……?」
「あなたのことを、です」
微笑みながら、オリアナは呟く。
『物語』──オリアナが知っている未来。そのなかで、彼は彼女を手にかける悪役だった。
けれど、いま目の前にいる彼は……。
「本当のあなたは、不器用だけれど、まっすぐで、臆病なほど優しい人」
その言葉に、サディアスはふっと目を伏せた。
「……過分なお言葉です」
「いいえ。きっと、もっとあなたを知っていきたいと思ってしまう……それが、いまの私の気持ちです」
サディアスは目を見開いたまま、何も言わなかった。
けれどその頬がかすかに赤く染まったのを、オリアナは見逃さなかった。
夜風はまだ少し冷たい。けれど、二人の間に流れる空気はどこまでもあたたかく、優しく、確かなものだった。




