番外編「古竜の憂鬱」
◇ジル視点
枯葉が敷き詰められた森の地面を、一切の音を立てずに踏みしめる。
冷え切った大気が肺を刺し、吐く息が白く煙となって消えていく。
ジルの金色の瞳は、木々の隙間から差し込む弱い冬の日差しを反射し、冷徹な光を帯びていた。
はるか前方、風下にある茂みの奥で、小さな毛玉のような生き物が動く気配がする。
白ウサギだ。
ジルの視覚は、ウサギの心臓の鼓動すらも正確に捉えていた。
『またこんな小動物か』
ジルは心の中で深いため息をついた。
古竜として何百年もの間、強大な魔獣を狩って生きてきた彼にとって、ウサギなど獲物のうちに入らない。
本気を出せば、森ごと焼き払ってすべてを灰にすることなど造作もないことだ。
しかし、今の彼にはそれができない理由があった。
脳裏に浮かぶのは、あの小柄な人間の少女、ルリアの顔だ。
『ジル、今夜はウサギの肉でシチューにしましょう。あまり大きすぎる獲物だと、解体するだけで日が暮れちゃいますから』
今朝、小屋を出る前に言われた彼女の言葉が、呪いのようにジルの思考を縛り付けていた。
ルリアの錬金術で作られたナイフは恐ろしく切れ味が良いが、彼女自身の腕力が皆無に等しいため、巨大な魔獣の皮を剥ぐだけで一苦労なのだ。
結果として、ジルが解体作業を手伝わされる羽目になる。
それが面倒で、今日はルリアの要望通りに小動物を狙っていた。
ジルは姿勢を低くし、ウサギの背後へと回り込む。
ここで彼を悩ませているのが、力加減という最も厄介な問題だった。
彼の膂力は強大すぎる。
普通に捕まえようと手を伸ばせば、ウサギの小さな体はあっけなくひしゃげ、肉塊と化してしまう。
ルリアは「原型を留めて持ってきてくださいね」と念を押していた。
竜である彼にとって、卵の殻を割らずに中身だけを抜き取るような繊細な作業を要求されているに等しい。
「……面倒なことこの上ない」
ジルはわずかに顔をしかめ、右手の指先に神経を集中させた。
筋肉の動きを極限まで抑え込み、風の抵抗すら計算に入れて腕を伸ばす。
ウサギが気づいて逃げようと後ろ足に力を入れた瞬間、ジルの指先がその首根っこを正確に摘み上げた。
ウサギは宙吊りにされてジタバタと暴れるが、ジルの指は万力のように固定され、しかし毛皮を傷つけることなくその命を捕らえていた。
『これで今日の晩飯の文句は言わせない』
ジルは獲物を麻袋に放り込み、肩に担いだ。
そのまま森を抜け、村へと歩みを進める。
木々の間から、シルバ村の素朴な家々が見えてきた。
煙突からは夕餉の支度を知らせる白い煙が立ち上り、どこからか子供たちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。
ジルは立ち止まり、その平和すぎる景色を静かに見下ろした。
古竜である彼が、なぜこんな人間の集落に入り浸っているのか。
彼自身、明確な答えを持ち合わせていなかった。
最初はただの暇つぶしだった。
致命傷を負って死にかけていたところを、あの泥水のような奇妙な液体で救われた。
ルリアの規格外の魔力と、それに全く無自覚な間の抜けた態度に興味を惹かれただけだ。
少し恩を返して、飽きたら立ち去るつもりだった。
しかし、気付けば季節が一つ巡り、彼は完全にこの村の一部として組み込まれていた。
村の男たちからは「兄ちゃん」と呼ばれて畑の岩砕きを手伝わされ、女たちからは「よく食べるから」と山盛りの料理を押し付けられる。
竜としての威厳など、ここでは欠片も存在しなかった。
「おい、ジル。ちょうどいいところに」
村の入り口で、村長のガランが手を振って駆け寄ってきた。
彼の足元には、巨大な木箱がいくつも積まれている。
「また何か重いものを運ぶのか」
「いや、そうじゃない。ルリア先生が作ってくれた、あの勝手に動く釜のことなんだが……どうも動きがおかしくてな」
ガランが困り果てた顔で木箱の中を指差す。
中にはルリアが術式を組み込んだ肥料用の釜が収められているが、激しい音を立ててガタガタと震え、今にも爆発しそうな勢いで煙を噴き出している。
「あの小娘、また術式に適当な魔力を流し込んだな」
ジルは額に手を当て、深いため息をついた。
ルリアは錬金術の腕は超一流だが、自分の魔力出力を計算するという概念がすっぽり抜け落ちている。
時折こうして、暴走寸前の魔導具を生み出しては周囲を慌てさせていた。
「俺が止める。下がっていろ」
ジルは木箱に近づき、暴れる釜の蓋に手を乗せた。
彼自身の強大な魔力を流し込み、ルリアの編み上げた術式を力技で押さえ込む。
竜の魔力とルリアの魔力が内部で激しく衝突し、釜の表面にバチバチと青白い火花が散った。
数秒の均衡の後、ふっと力が抜け、釜は静かに動きを止めた。
「助かった。兄ちゃんがいなかったら、今頃村の半分が吹き飛んでいたかもしれん」
ガランが冷や汗を拭いながら何度も頭を下げる。
ジルは無言で手を振り、再びルリアの待つ小屋へと歩き出した。
呆れるほどの無防備さと、世界を容易く作り変えるほどの異常な才能。
ルリアという人間は、ジルの長い竜の生において、かつて見たことのないほど歪で魅力的な存在だった。
彼女のそばにいると、毎日が予測不可能な騒動の連続だ。
退屈する暇など一秒たりともない。
『まあ、しばらくはこの窮屈な生活にも付き合ってやるか』
小屋の煙突から立ち上る煙を見上げながら、ジルの唇の端がわずかに吊り上がる。
冷たい風が吹き抜けても、彼の胸の奥には不思議なほどの温もりが宿っていた。
扉を開けると、いつものように強い薬草の匂いと、振り返るルリアの明るい笑顔が待っているはずだ。
古竜の憂鬱な日常は、どうやらまだまだ終わりそうになかった。




