第1話「婚約破棄と泥水ポーション」
登場人物紹介
◇ルリア
若くして宮廷錬金術師に登り詰めた天才少女。
彼女の作るポーションは泥水のように濁っているが、瀕死の重傷すら一瞬で治す規格外の代物。
本人は自らの異常性に無自覚。
婚約破棄と追放をあっさり受け入れ、憧れの辺境で気ままなスローライフを満喫し始める。
◇ジル
辺境の森で行き倒れていた謎の青年。
その正体は強大な力を持つ伝説の古竜。
ルリアの規格外のポーションで命を救われ、彼女の無自覚な規格外さに呆れつつも強く惹かれ、相棒として行動を共にするようになる。
◇レオンハルト
王国の第一王子でルリアの元婚約者。
見た目の美しさや権威ばかりを重んじる傲慢な性格。
ルリアを無能と見下して追放し、マリアベルを重用するが、後に国家の危機を招き、無様な手のひら返しをすることになる。
◇マリアベル
ルリアの代わりに重用された新進気鋭の錬金術師。
色鮮やかで美しいポーションを作るが、効果はただの色水に毛が生えた程度。
権力と名声に執着している。
冷たい石造りの壁に囲まれた王城の謁見の間は、息が詰まるような静寂に支配されていた。
天井高くから吊るされた巨大なシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に冷やりとした光の模様を描き出している。
部屋の中央に敷かれた豪華な赤絨毯の上に立つルリアは、両手を体の前で軽く組み、静かに視線を落としていた。
彼女の細い体を包む灰色のローブからは、染み付いた薬草の青臭い匂いが微かに漂っている。
「ルリア。貴様との婚約は、本日この場をもって破棄する」
第一王子レオンハルトの低く冷酷な声が、広い空間に冷たく響き渡った。
『ついにこの時が来た』
ルリアの胸の奥で、長年張り詰めていた見えない糸がふつりと切れる音がした。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
ルリアはゆっくりと顔を上げ、正面に立つレオンハルトを真っ直ぐに見据えた。
金糸の刺繍が施された純白の軍服を着こなす彼は、見下すような視線をルリアに向けている。
その隣には、鮮やかなピンク色のドレスをまとった宮廷錬金術師のマリアベルが、彼の腕にぴったりとすがりついていた。
「理由だと。自分の胸に手を当てて考えてみるがいい」
レオンハルトは鼻で笑い、傍らに控えていた従者に顎で合図を送った。
従者が恭しく運び込んできた銀の盆の上には、二つのガラス瓶が並べられている。
レオンハルトは乱暴な手つきでその一つを掴み上げ、ルリアの目の前に突きつけた。
透明なガラス瓶の中には、濁った沼の底をかき混ぜたような、深く澱んだ緑色の液体が詰まっている。
「貴様が作ったこのポーションのせいで、我が国の騎士団からどれほどの苦情が寄せられているか知っているか。見た目は泥水のように汚らしく、蓋を開ければ腐った草葉のような悪臭が鼻を突く。これを飲まされる騎士たちは皆、拷問を受けているようだと泣き言を漏らしているのだぞ」
レオンハルトの言葉に、マリアベルが同調するように小さく頷く。
「ルリア先輩のポーションは、とても人間が口にできる代物ではありませんわ。錬金術師としての品格すら疑われます」
マリアベルは甘ったるい声を出しながら、銀の盆に残されたもう一つのガラス瓶をそっと持ち上げた。
彼女の細い指に握られた瓶の中では、透き通るような美しい水色の液体が、シャンデリアの光を受けてきらきらと輝いている。
「見てください、レオンハルト様。これが私の作ったポーションです。見た目も美しく、口に含めば甘い果実の香りが広がります。これなら前線で戦う騎士様たちも、喜んで飲んでくださるはずですわ」
「その通りだ。マリアベルの作るポーションこそ、我が王国の騎士団にふさわしい。貴様のような薄汚い泥水を作る無能な錬金術師は、この美しい王宮には不要だ」
レオンハルトはルリアの作ったポーションを床に投げ捨てるように乱暴に置いた。
硬いガラスの底が石の床にぶつかり、鋭い音を立てる。
ルリアは床に置かれた自分のポーションと、マリアベルが手にする美しい色水を見比べた。
『見た目や味なんてどうでもいいのに』
ルリアの心の中に、冷めた感情が渦巻いた。
確かにルリアのポーションは見た目が悪く、味も強烈に苦い。
だがその治癒効果は、千切れた腕や脚の骨すら一瞬で繋ぎ止め、失われた血肉を瞬時に再生させるほどの力を持っていた。
瀕死の重傷を負った者でも、その泥水のような液体を一滴喉の奥に流し込めば、翌日には剣を振って走り回ることができる。
一方で、マリアベルの手にある美しいポーションは、ただの砂糖水に微量の魔力を溶かしただけのものでしかない。
擦り傷の痛みを少し和らげる程度の効果しかなく、深い切り傷には全くの無意味だった。
しかし、戦場の過酷さを知らないレオンハルトには、その真価を理解することはできない。
彼はただ、目に見える表面的な美しさと、周囲からの耳障りの良い賞賛だけを求めていた。
「言い訳はないようだな。貴様を宮廷錬金術師の任から解任し、この国から永久に追放する。明日の夜明けまでに王都を出て行け。行く当てがないのなら、北の果てにある辺境の土地にでも身を隠すことだ。二度と私の前にその薄汚い顔を見せるな」
レオンハルトは冷たく吐き捨て、マリアベルの肩を抱き寄せて背を向けた。
ルリアは彼らの遠ざかる背中を見送りながら、静かに深く息を吸い込んだ。
「謹んで、お受けいたします」
ルリアの声は震えることなく、静寂の間に静かに溶け込んでいった。
レオンハルトは一瞬だけ足を止めたが、振り返ることなく足早に扉の奥へと消えていく。
重い木製の扉が閉まる鈍い音が響き、広間にはルリアただ一人が取り残された。
『これで、やっと自由になれる』
ルリアの唇の端が、自然と小さな弧を描いた。
幼い頃から錬金術の才能を見出され、王宮という鳥籠の中に閉じ込められてきた日々。
毎日毎日、終わりが見えないほど大量のポーション作りを強要され、自由な研究をすることも許されなかった。
婚約者であるレオンハルトも、ルリアの才能を利用するためだけに近づいてきただけであり、彼との間に愛情など最初から存在していなかった。
追放という言葉の響きは、今のルリアにとっては何よりも甘美な解放の合図だった。
ルリアは足元に転がっていた自分のポーションを拾い上げ、ローブのポケットに大切にしまい込んだ。
◆ ◆ ◆
王城の裏手にある薄暗い私室に戻ったルリアは、古びた革製の鞄を広げた。
部屋の中には高価なドレスや宝石箱が並んでいるが、ルリアはそれらには目もくれなかった。
彼女が鞄に詰めたのは、使い込まれて持ち手が黒ずんだ小さな錬金釜と、すり鉢、そして数本の試験管だけだった。
どれもルリアが錬金術を始めた頃から使い続けている、手足の一部のように馴染んだ道具たちだ。
最後に、引き出しの奥に隠しておいた少しばかりの銀貨を財布に収める。
『これだけあれば、しばらくは生活できるはず』
ルリアは革鞄の口をしっかりと紐で縛り、肩に掛けた。
ずしりとした重みが肩に食い込むが、その重さすらも今のルリアには心地よかった。
部屋を振り返ることはせず、ルリアは迷いのない足取りで王城の裏門へと向かった。
警備の兵士たちはルリアの姿を見ると、露骨に嫌な顔をして道を空けた。
すでに彼女が追放されたという噂は、城の隅々まで知れ渡っているらしい。
背中に突き刺さる嘲笑の視線を浴びながらも、ルリアの足取りは軽かった。
高い城壁のアーチをくぐり抜け、冷たい石畳の道を歩き続ける。
やがて王都を取り囲む巨大な正門が見えてきた。
門を抜けた瞬間、生暖かい夜風がルリアの頬を撫でた。
振り返ると、巨大な壁の向こうに、シャンデリアの光で不自然に明るく照らされた王城がそびえ立っている。
「さようなら、窮屈な鳥籠」
ルリアは静かにつぶやく。
彼女の視線の先には、闇に沈む果てしない平原が広がっていた。
ルリアが目指すのは、レオンハルトが皮肉交じりに口にした北の果て、辺境の土地だ。
そこには、王都の人間が誰も知らない珍しい薬草や、強力な魔力を持つ素材が眠っているという。
誰にも縛られず、自分の好きなように錬金術の実験ができる場所。
ルリアは深く息を吸い込み、夜の闇が広がる街道へと真っ直ぐに歩き出した。




