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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第8話 嵐の前の選択


王都の社交界で、私の名前が再び囁かれているらしい。


──今度は「密通」という言葉と共に。



父の書斎に呼ばれたのは、朝食の前だった。


子供たちの耳に入れたくない話がある時、父はいつもこうする。朝食の席ではなく、書斎に。私が入ると、父は既に椅子に座っていた。机の上に開かれた手紙。王都の旧友からの急信。


「読みなさい」


受け取った。目が文面を追う。


『——辺境伯ルートヴィヒが、カタリーナ殿は婚姻中から隣国の技師と密通していたと吹聴し始めた。離縁の原因はカタリーナ殿の不貞であると。例の女性も「可哀想なルートヴィヒ様」を演じて噂を拡散している——』


指先が、冷たくなった。


密通。


私とニコラウスが。


(……馬鹿げている)


五年間の書簡のやり取りと、二年前の一度だけの現地視察。それだけだ。書簡は全て公式の技術相談で、内容は堤防の設計と水門の運用と石材の強度。恋文のような一行すら、ない。


けれど、噂に根拠は要らない。「隣国の技師と頻繁に書簡を交わしていた」「二人きりで視察に行った」——切り取り方次第でどうとでも語れる。


自分の名誉が傷つくことは、耐えられる。十年間、夫の不在を言い訳にせず領地を守ってきた矜持がある。噂ごときで折れはしない。


けれど。


「お父様。この噂は、ヴェーバー技師にも及んでいますか」


「……恐らく」


父の声が重い。


「隣国ザールフェルト公国の主任技師が、他国の人妻と密通していたとなれば、公国での立場に影響する。技師としての信用に関わる」


血が、下がった。


あの人は、国宝級と呼ばれる技師だ。公国の三大河川の整備事業を主導した実績がある。その人の経歴に「密通」の二文字が付けば——


(私のせいだ)


私が書簡を送ったから。私が技術相談を求めたから。私が離縁して、この領地で治水の仕事を始めて、ニコラウスを巻き込んだから。


「カタリーナ。顔色が悪いぞ」


「……大丈夫です。少し、考えさせてください」


書斎を出た。廊下を歩く足が速くなる。マルタが「奥様?」と声をかけたが、答えず通り過ぎた。


やるべきことは、一つだ。



作業場に着いた時、ニコラウスは既にいた。


図面を広げて、導流堤の最終設計に赤を入れている。十時ちょうど。今日も一分の狂いもない。


「おはようございます、カタリーナ殿。昨日の流速データですが——」


「ヴェーバー技師」


遮った。声が硬いことは自覚していた。


ニコラウスのペンが止まった。顔を上げる。


「本日は、お伝えしたいことがあって参りました」


「……何でしょう」


「治水事業の共同作業を、打ち切らせていただきたいのです」


沈黙。


ニコラウスの表情は変わらなかった。驚きも、怒りも見えない。ただ、ペンを置いた手が一瞬だけ止まった。


「王都で、私と貴方が婚姻中から密通していたという噂が流されています」


言葉にすると、喉が焼けるように痛かった。


「事実無根の中傷です。けれど——私と関わることで、ヴェーバー技師の評判に傷がつく。公国での立場に影響が出かねません。これ以上ご迷惑はかけられません」


言い切った。目を伏せなかった。伏せたら、この決断が揺らぎそうだった。


ニコラウスは数秒、黙っていた。


図面の上で、赤いインクが乾き始めている。今朝入れたばかりの修正線。導流堤の角度を〇・五度修正した、あの線。二人で三ヶ月かけて積み上げた設計の、最後の仕上げだった。


「……分かりました」


静かな声だった。


抗議も、説得も、しなかった。「分かりました」。それだけ。


ニコラウスはペンを取り、赤い線の横に小さく数値を書き込んだ。それから図面を丁寧に巻き、私に差し出した。


「この設計図面は、カタリーナ殿のものです。お持ちください」


「……ヴェーバー技師」


「三ヶ月分の設計です。雨の日に守った甲斐がありました」


笑った。あの日と同じ笑い方だった。自分がずぶ濡れになりながら図面を庇った、あの雨の日と。


「では、失礼します」


軽く頭を下げて、ニコラウスは作業場を出ていった。


足音が遠ざかる。扉が閉まる。


図面の筒を胸に抱えたまま、私はしばらく動けなかった。


(これでいい。あの人を巻き込んではいけない)


これでいいはずなのに、指先から温度が消えていく。



三日が過ぎた。


その間、私は一人で導流堤の設計を進めた。ニコラウスの赤い修正線を頼りに、残りの計算を埋めていく。できないことはない。十年間、一人でやってきたのだから。


──一人で、やってきたのだから。


四日目の朝。


父が書斎から出てきて、珍しく廊下で私を呼び止めた。


「カタリーナ。二つ、報せがある」


「はい」


「一つ。王家が辺境伯領への正式査察を決定した。理由は三つ——持参金返還請求に添付された帳簿の不審点、堤防決壊による領地の危機、辺境伯の領地報告と実態の乖離疑惑。貴族院の旧友から確かな筋の情報だ」


査察。


王家が、あの領地に査察官を送る。


「もう一つは——お前に書簡が届いている。ザールフェルト公国から」


マルタが封書を持ってきた。公国河川局の公印。差出人は——


『主任河川技師ニコラウス・ヴェーバー』


封を切った。


公式の書式。公国河川局の便箋。一字一句が、事務的な文体で綴られている。


『カタリーナ殿


ザールフェルト公国河川局より、下記の通り公式調査命令を受けましたのでご報告申し上げます。


調査名:グラーフェンベルク辺境伯領堤防決壊に伴う下流域影響調査

調査範囲:リンデン伯爵領を含むクレン河流域全域

根拠:辺境伯領堤防決壊により、下流域であるザールフェルト公国領への水害波及が懸念されるため


つきましては、公務として引き続きリンデン伯爵領における河川調査を実施いたします。


主任河川技師 ニコラウス・ヴェーバー』


公務。


公式調査命令に基づく、公務。


書簡を持つ指が震えた。


(この人は——)


密通の中傷を、「否定」したのではない。


公務という枠組みで、密通が「構造的に成立しない状況」を作ったのだ。


公国政府が正式に命じた河川調査。公務で訪問している記録が残る。どこからどう見ても国家間の技術協力であり、私的な関係の入り込む余地がない。噂を流した人間が何を言おうと、公式命令書の前には無力だ。


あの日、作業場で「分かりました」と言って出ていった時には、もう考えていたのだろうか。それとも帰り道に。あるいは——


(あの人は、初めてだ)


五年間の書簡。二年前の視察。再会してからの三ヶ月。ニコラウスは一度も「仕事の範囲」から出なかった。技術の話をし、図面を描き、約束の時間に来て、成果報告に私の名前を書いた。全て仕事として。全て、技師として。


それが——初めて、仕事の外に出た。


公式調査命令を上官に求めるのは、ニコラウスにとって異例のはずだ。技術的な根拠があるとはいえ、自分から調査派遣を願い出るのは、技師としてではなく——


(私の、ために)


いや、違う。違うかもしれない。技術者として堤防決壊の下流域への影響を懸念するのは当然のことで、公国の立場から見ても合理的な判断で——


──嘘だ。


合理的なだけなら、私に打ち切りを告げられた三日後に、こんな速さで命令書が出るはずがない。


書簡を胸に抱きしめた。


公国の便箋は少し厚手で、手のひらに紙の硬さが伝わる。インクの匂い。公印の蝋の匂い。事務的な文面。一行の私的な言葉もない。


なのに。


この書簡は、五年分のどの書簡よりも温かかった。


目頭が熱い。でも、泣かない。この人が泣いてほしいとは思っていないだろうから。


書簡を下ろし、もう一度読んだ。「公務として引き続き」。その五文字に、どれだけの手続きと覚悟が詰まっているか。


(……ヴェーバー技師)


名前では呼ばない。まだ呼べない。


けれど引き出しにはしまわなかった。


書簡を机の上に置き、その隣に導流堤の設計図面を広げた。赤い修正線。〇・五度の角度修正。あの人の筆跡。


明日、ニコラウスが公務として戻ってくる。


私はペンを取り、設計図面の続きを書き始めた。この図面を完成させて、待っている。技師として。顧問として。


──それだけだと、もう自分に嘘がつけなくなっていることには、まだ気づかないふりをしていた。

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